明治政府の官僚として活躍した後46歳で教育機関へと転身1871(明治4)年、明治政府は官営の郵便制度をスタートさせましたが、この制度をもうけたのが前島密です。密は越後国の豪農の家に生まれましたが、のちに幕臣の前島家に養子に入りました。優秀だったので開かい成せい所じょ(幕府の教育機関)教授に抜擢されますが、新政府軍に降伏した徳川家が静岡へ移封となると、静岡藩(駿河府中藩)の留守居役や遠えんしゅう州中なか泉いずみ奉行などを歴任。しかし1869年、請われて明治政府の民部・大蔵省の役人となり、鉄道の敷設や税法改革に尽力、そして郵便制度を立案・実現させたのです。その後は内務省で出世し、1880年には内務大輔(次官)にのぼり、翌年、これまでの功績により、政府から勲三等旭日中綬章を賜わりました。ところが同年、密は役人を依願退職してしまいます。まだ46歳なので、隠居には早すぎる年齢です。じつは同年、参議の大おお隈くま重しげ信のぶが伊い藤とう博ひろ文ぶみら薩長閥によって政府から駆逐されました(明治14年の政変)。このおり大隈派だった密は、野に下って大隈と行動を共にしたのです。翌年、大隈は国会開設に備えて立憲改進党を立ち上げますが、密も党の幹部となりました。ただ、政治活動より教育のほうに興味があったようで、大隈が創建した東京専門学校(現・早稲田大学)の評議員となり、校長の小お野の梓あずさが急逝すると、密は大隈に頼んで校長職に就かせてもらっています。こうして密は、政府の高級官僚から教育職への意外な転身を遂げたのです。ちなみに当時、東京専門学校の経営は苦しく、大隈個人が資金を提供して経営が成り立っていました。密は、学問の独立を果たすには自営すべきだと考え、大隈からの支援を断ち、授業料を大幅にアップしたのです。また、横浜の富豪のもとに出向き、渋る彼を説き伏せて大金を寄付させました。こうした苦労のすえ、経営は安定していったのです。転職をくり返したセカンドキャリアこの時期、密は「国語独立論」を主張しています。「長いあいだ漢文を尊んできたが、日本人は漢字を廃してかな文字をつかうべきだ」と主張し、新政府にも漢字の廃止をたびたび提言したのです。1873年には『ひらがな しんぶんし』を発刊しています。この新聞は仮名文字だけで記されており、なんとも斬新な試みでした。1887年、密は新設された私鉄・関西鉄道会社の社長に就任します。今度は実業家の道を歩み始めたのです。ところが翌年、社長の地位をあっさり降り、東京専門学校の校長職も辞めてしまいます。なんと密は、再び官界へ戻ったのです。3年前、逓てい信しん省しょうが新設され、通信分野とともに2025.632セカリアドンキャ偉人たちの歴史作家 河かわい合 敦あつし歴史作家 河合 敦第7回多方面で活躍した「郵便の父」前まえ島じま密ひそか
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