像化したいと願うようになります。するとある日、夢のなかに白衣の観音様に似た慈悲の瞳と威厳を持った女性があらわれたのです。その女性は、右手を天に向け、左手を地に伏せ、眉間から光線を発射していたそうです。そこで密は、夢の記憶を友人の西にし田だ春しゅん耕こうにくわしく語り、じっさいに電気像を描かせました。しかし、それは満足できる姿ではなかったといいます。それにしてもここまで電気を崇拝するのは珍しいし、思い込みが激し過ぎる気もします。いずれにせよ、役人から身を引いた密は、その後も東京馬車鉄道会社、北越鉄道会社、韓国京釜鉄道会社、日清生命保険株式会社、東海汽船会社などの社長・取締役や理事、監査役を務めるなど実業界で活躍するとともに、帝国教育会や盲学校、日本海員掖済会を積極的に支援・育成するなど勢力的な活動をみせました。68歳の1902年に男爵を授けられて華族に列せられ、1904年には貴族院議員となりました。ただ、75歳になった1910年ごろから何をするのもおっくうになり、貴族院議員や会社の役員も次々辞してしまいました。その年、保養のために九州の周遊旅行をしています。その後は神奈川県三浦郡葦あし名なの地に山荘をかまえ、翌1911年からはこの地で作庭などを楽しみながら静かな暮らしを送り、1919(大正8)年に84歳で大往生を遂げたのです。た。すると、これを聞いた密の顔色がみるみる変わり、大声で書生を一喝したあと、「狼狽とは何事ぞ! 俺は盗難ぐらいであわてたりせぬわ。誤解されるのは面白くない。すぐにこれから警察署へ戻り、狼狽の二文字を取り消してこい。そもそも盗難を予期して品物を取り調べておく人間がいるわけないだろう!届け漏れがあるのは当然だ。それを調査し、調べる機関がおまえたち警察なんだ。そういってこい」と厳命したのです。こんな性格だったので、人ともよくぶつかりました。キャリア晩期は実業界や教育分野など多方面で活躍さて、電話事業にかかわったことで密は電気学会(1888年創立)の副会長となりますが、このころから電気の魅力にとりつかれるようになりました。というより、電気を神の如くあがめるようになったのです。密が自伝に書いた一文(電気の美的形象)を紹介しましょう。「嗚あ呼あ偉いなる哉、電気の力、神なるかな其徳、(略)万里の遠信以て通すべし、或あるいは光こう明みょう灼しゃく燿よう闇あん黒こくを照し、円転疾徐其機に応じて工作を利す其力偉にして実に大なり(略)其功之を何とか言はん、只ただ是れ神と称せんのみ」このように密は、電気の効用をほめたたえて崇敬し、電気に神秘さを感じ、電気の姿を美しく偶郵便業務も同省の管轄となりました。初代逓信大臣は、密と同じ旧幕臣の榎えの本もと武たけ揚あきでした。そこで榎本はかつての密の手腕に期待し、「政府に戻って逓信次官に就いてもらいたい」と要請したのです。当時、逓信省内では、新たな電話事業を官営にするか民営にするかでもめていました。ともあれ、密は53歳で逓信省の次官として政府に復帰したのです。在任中は、郵便局と電信局を合併して郵便電信局や郵便電信学校をつくったり、電話事業を官業として成立させるなどの功績を残し、3年後の1891年に退職しています。榎本の後任・後ご藤とう象しょう二じ郎ろうと意見が合わず、我慢できなかったからだといいます。密の短気は有名でした。何か気に入らないことがあれば、だれにでもどこにでも雷を落とし、手当たり次第にモノをぶん投げました。こんな話もあります。密の自宅に空き巣が入ったことがありました。すぐに盗難届を出したのですが、数日後、警察から「盗人を逮捕したので盗品の確認に来てほしい」との連絡が入ります。そこで密が書生を使わしたところ、いつまで経っても戻ってきません。夜に帰ってきた書生がいうには「盗難届にない品物がたくさんあるが、なぜ漏れたのか」と警察に厳しく質問されたので、「当時、狼狽していたので届け漏れがあった」と弁解、その旨を書類に記したら夜になってすべての品を下げ渡してくれることになったと密に報告しましエルダー33セカリアドンキャ偉人たちの
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