エルダー2025年7月号
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軍人から教育者へキャリアチェンジ秋山好古は、日本海海戦の作戦を立案・指揮した真さね之ゆきの実兄です。伊予松山出身で陸軍士官学校に入ると騎兵科を選び、フランスに留学して最新の騎兵学を学びました。1894(明治27)年の日清戦争では1000の騎兵で2万の敵を食い止める活躍をみせました。戦後は陸軍乗馬学校(後の騎兵学校)の校長として後進の指導にあたりますが、1904年の日露戦争で再び騎兵第1旅団(約8000人。秋山支隊とも呼ばれる)を率いて出征。敵地へ潜行して情報を集めたり、道路や橋などを破壊し後方を攪乱したりする挺進騎馬隊を組織します。翌年1月、秋山支隊はロシア軍10万の猛攻に耐え抜き、戦後、好古は「日本騎兵の父」、「最後の古武士」と讃えられました。1909年に陸軍中将、1916(大正5)年に陸軍大将に昇任し、63歳の1923年に予備役に編入されました。定年となったのです。しかし、「人は一生働き続けるものだ」というのが好古の信念で、第二の人生として教職を選び、翌年、故郷松山の私立北ほく予よ中学校の校長に就きました。学校理事の井いの上うえ要かなめが上京して好古に校長就任を依願したからです。日露戦争で活躍した乃の木ぎ希まれ典すけも大将から校長(院長)になりましたが、その学校は皇族や華族を教育する学習院です。対して好古は、故郷の中学校校長。ですから北予中学校の理事会は「田舎の中学校校長を打診するのは非礼だし、承諾してもらえないだろう」と考えていたようです。ところが井上が直接談判したところ、好古は「俺は中学の事は何も知らんが、外に人がいなければ校長の名前は出してもよい。日本人は少しく地位を得て退職すれば遊んで恩給で食ふことを考へる。それはいかん。俺でも役に立てば何でも奉公するよ」(『秋山好古』秋山好古大将伝記刊行会 昭和11年)と快諾してくれたのです。井上は大いに歓び、「当分でも校長の名をお貸し下さい。そうして時々学校へ来て生徒と遊んで下さい」(『前掲書』)と伝えましたが、なんと、好古は伊予松山に単身赴任し、毎日出勤したのです。じつは若いころ、好古は小学校の教師をしていたのです。けれど体格がよかったので、盛んに知人たちに軍人になることをすすめられ、陸軍士官学校に入ったという経緯がありました。好古の人柄に触れ校風が変わる驚くべきことに、 校長を務めていた6年間、好古は無遅刻無欠勤でした。いつも始業の20分前に学校へ出勤するので、学校沿いの人々は好古の姿を見て時計の針を直すほどだったといいます。不良少年のたまり場といわれた北予中学校は、好古2025.736セカリアドンキャ偉人たちの歴史作家 河かわい合 敦あつし歴史作家 河合 敦第8回教育者に転進した〝日本騎兵の父〟秋あき山やま好よし古ふる

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