足痛は神経痛ではなく、糖尿病悪化による血管の閉塞から来る痛みだったのです。伊予から東京に戻った好古でしたが、痛みのために睡眠すらままならなくなり、ついに壊疽がはじまり、左足の先端部が腐りはじめました。医師は左足の切断をすすめました。好古も「この痛みさえ去れば、足の一本はなくてもいい」と納得し、手術が行われました。麻酔から目ざめた好古は「これですっきりした」と笑顔を見せましたが、翌日から傷口が静脈炎を起こして高熱を発し、腹部にも炎症が広がっていきました。それから三日間、好古は現実と夢の間を行き来したようです。ときおり口から出る言葉は、「騎兵」、「奉天」といった日露戦争に関するものばかりで、夢のなかでロシア軍と戦っているようでした。死は免れないと思った親族は、紅茶にコニャックをまぜて好古の口に含ませてあげました。ちょうど陸軍士官学校で同期だった本ほん郷ごう房ふさ太た郎ろうがお見舞いに来て「俺がわかるか」と尋ねると、好古は「本郷か、ちょっと起こしてくれ」と頼みました。そこで身体を起こしてやると、しばらくして息を引き取ったそうです。日本陸軍の騎兵をつくり上げ、大将にまで昇り詰めた軍人・秋山好古は、無休主義をかかげ、中学校の校長という第二の人生を見事に全うして昇天したのです。71歳でした。教育に捧げた第二の人生1928(昭和3)年の夏休み、数人の生徒が乱暴を働いて警察の尋問を受けました。これを知った好古は、その責任を感じて理事の井上要に宛てて退職届を書いたのです。じつはこのころ、足の神経痛がひどくなり、歩行に困難を来すようになっていたことも、退職理由の一つでした。しかし井上や理事たちが平身低頭して留任を願ったので、仕方なく好古は退職届を取り下げました。しかし翌年正月の新年会で「自分はもう七十歳なので、校長を辞めたい」と述べたことが地元の新聞に載ってしまいました。すると同年三月の卒業式で井上理事は、演壇から「諸君は秋山校長先生が罷められると云ふて、大に心配してゐるそうであるが、校長先生は非常に責任を重んずる人である。先生に代わるべき立派な後任のない以上、断じて諸君を見捨てることはない。諸君安心せよ」(『前掲書』)と断言したのです。これを聞いた好古は「君があんな演説をすると、当分罷められないじゃないか」と笑ったといいます。しかし足に激痛を感じるようになり、これ以上の勤務はむずかしいと判断。翌年4月、ついに6年以上務めた校長の椅子をおりたのです。そして、それからわずか半年後、好古はこの世を去りました。が着任したことで大きく変わりました。教員も生徒もみな勉強家となり、欠勤や欠席するものが著しく減ったのです。とくに教員が欠勤すると、好古が自ら授業をするので、安易に休めなくなったようです。といっても好古が高圧的に職員や生徒に接することはありませんでした。「将軍は恐ろしい顔をしてゐたが、併し将軍の怒つた顔を見た者はなかつた。又叱られた生徒も一人もなかつた。毎日々々変りなき慈眼温容で、終始ニコニコと笑みを浮べながら、校の内外を見廻り、時々経歴実話を交へた温い訓話をした」(『前掲書』)軍服も一切身に付けず、背広姿に鳥打ち帽をかぶって馬で出勤しました。校長室は狭くて夏はきわめて暑い部屋でしたが、好古は一度も暑いと嘆かず、上着を脱ぐこともせず、洋服のボタンも上まできちんと閉めていたそうです。校長室の整理整頓のみならず、ゴミも自分で始末しました。粗暴な生徒のせいで、校内の破損や壊れた物品がかなりあったのですが、好古は夏休みの間にすべて修理し、二学期のはじめに全校生徒を集め、「物が壊れては、お互いに困るから気をつけいよ」(『前掲書』)とたった一言注意したそうです。以後、校舎の破損はほとんどなくなったといいます。エルダー37セカリアドンキャ偉人たちの
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