エルダー2025年8月号
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室町幕府滅亡後の義昭の行方日本史の教科書には、15代将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放された1573(元げん亀き4)年をもって、室町幕府は滅亡したと書かれています。ですが義昭は、その後も将軍として活動し、大きな力を持ち続けていたのです。今回はそんな最後の将軍・足利義昭のセカンドキャリアについて紹介していこうと思います。13代将軍足利義よし輝てるが畿内を制する三み好よし氏によって暗殺されたとき、弟の義昭も命を狙われますが、どうにか京都から脱して転々と居所を変え、やがて尾張の織田氏を頼ります。1568(永禄11)年、義昭は信長に奉じられて上洛し、15代将軍となることができました。しかし、後に信長と対立するようになり、多くの大名や宗教勢力と結んで信長包囲網をつくりました。信長はそうした敵を次々と押さえ込み、1573年7月、大軍を派遣して義昭の居城・槇まき島しま城を攻め立てたのです。かなわないと考えた義昭は、息子を人質に出して降伏し、河かわ内ちのくに国若わか江え城じょう(東大阪市)へ退去しました。これをもって室町幕府は滅亡したといわれます。義昭37歳のときのことでした。けれど、これで義昭が屈したわけではありませんでした。若江城から紀き伊いのくに国由ゆ良らの興こう国こく寺じへ入ったのです。この地域は反信長勢力の強固な地盤で、紀伊国内には雑さい賀が一いっき揆、高こう野や山さん、根ね来ごろ衆しゅう、粉こ河かわ寺でら、熊くま野の三さん山ざんなど、強力な仏教勢力が存在し、石山本願寺と結んで信長と敵対していたからです。さらに義昭は、越後の上杉謙信や甲斐の武たけ田だ勝かつ頼より、近江の六ろっ角かく承しょう禎てい、本願寺顕けん如にょと連絡をとり、信長の打倒を目ざします。結果、いったん信長と講和した石山本願寺の顕如は、再び戦う決意をかためました。打倒信長に傾注したセカンドキャリア1576(天正4)年、義昭は居所を備びんごのくに後国鞆ともの浦うらに遷します。ここは毛利氏の領内。つまり当主の毛利輝てる元もとは信長との敵対を決意したのです。義昭が強く毛利氏に働きかけた結果でした。義昭は輝元を副将軍に任じ、多くの大名や宗教勢力を結集し、再び信長包囲網をつくり上げたのです。京都を追い払われた義昭ですが、抜群の交渉能力により、室町将軍としての権威を保ち続けていたのです。同年7月、毛利輝元が八百艘の船団を送って木津川口で織田水軍を撃破し、石山本願寺に兵糧を入れることに成功します。さらに越後の上杉謙信も翌1577年9月、織田方の七なな尾お城じょうを落とし、手て取どり川の戦いで柴田勝家率いる織田軍を大敗させました。信長の重臣・荒木村むら重しげが織田を裏切ったのも、義昭の工作だったといわれ2025.836セカリアドンキャ偉人たちの歴史作家 河かわい合 敦あつし歴史作家 河合 敦第9回室町幕府最後の将軍のセカンドキャリア足あし利かが義よし昭あき

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