エルダー2025年8月号
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高齢者に聞く第 回2025.842モノづくりへの憧れから土木の道へ私は宮城県仙せん台だい市しの生まれで、大学まで仙台で過ごしました。大学では土木工学を専攻し、卒業後に大手ゼネコンとして知られていた株式会社フジタに入社しました。団だん塊かいの世代の一つ下になる私たちですが、時代は高度成長期を迎え活気にあふれていました。土木建築関係の同期入社は約400人を数えます。大学で土木工学を学んだのは、モノづくりに興味があったからです。モノづくりのなかでも、大きなプロジェクトにかかわりたいという気持ちが強かったので、大手ゼネコンに入社できたことは幸いでした。入社と同時に九州支店に配属され、当時、日本最大の建設現場といわれた長崎空港の建設にたずさわりました。長崎空港は、世界初の海上空港として知られています。それまで想像したこともない大きなスケールの現場に立ったときの高揚感をいまも覚えています。新人だった私は現場を走り回り、現場管理を身体で覚えていきました。長崎空港の現場で2年ほど過ごしたあとは、岐阜県可か児に市しで大規模な住宅団地の現場に入りました。そのころは若い世代が自分の家を持つことを追い求め、日本のいたるところで宅地の造成が始まりました。当時の上司が、「社会インフラ整備の後は必ずレジャーの時代がやってくる」と語ったことが頭にこびりついています。浮田さんの上司が予想した通り、社会インフラの整備後にはゴルフ場が次々に造成され、その周辺には大型リゾートホテルが林立するようになった。淡々と語られる話の向こう側に、当時の日本の勢いが垣かい間ま見られる。長崎空港は1975(昭和50)年に完成した。「労働安全」の世界へ足をふみ出して住宅団地の現場のあと、郷里の仙台支店に異動になり、ダムの建設工事にたずさわりました。その後、20代後半から50代までの30年近くを仙台で過ごしました。40代半ばまで現場一筋でしたが、47歳のときに支店全体の安全管理の仕事を任されるようになったことが、いまの労働安全コンサルタントの仕事につながっています。55歳で本社からお呼びがかかり、安全品質環境本部に配属されました。60歳で副本部長として定年を迎えるまでの5年間は刺激的な日々でした。中央官庁の幹部に会う機会も増え、人脈ができてきたのもこの時期です。組織ですから当然上の意向には従わなければなりませんが、建設現場の安全管理という大きな仕事を自由にやらせてもらいました。同期の多くは60歳の定年後も雇用継続を希望しましたが、私は60歳で第二の人生を歩む道を選びました。じつは退職する半NPO法人安全技術ネットワーク理事長浮うき田た 義よし明あきさん 浮田義明さん(74歳)は、大手ゼネコンを定年退職後、労働安全コンサルタントとして建設業における労働災害を防止するための活動に力を注ぎ続けてきた。労働安全衛生にかかる教育や研修、環境調査の第一線に立つ浮田さんが、安全に心を配りながら生涯現役で働くことの醍だい醐ご味みを語る。107

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