エルダー2025年10月号
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病気による右足つま先の切断から義足で舞台に復帰エノケンこと榎本健一は、浅草の劇場で喜劇俳優として人気を博し、松竹に属して一座を立ち上げ、映画界にも進出、その後は東宝へ移って喜劇王と呼ばれました。しかし戦後、エノケン一座は解散します。大勢の座員を経済的に面倒を見れなかったのに加え、左足に強い痛みを感じるようになったからです。病名は特発性脱だっ疽そ。手足の血管が細くなり血液がとどかず壊え疽そする原因不明の難病です。1952(昭和27)年10月、今度は右足が激しく痛むようになります。ちょうど巡業中で、広島公演はどうにか終えますが、次の岩国では激痛で靴も履けず、公演をとりやめました。鎮痛薬も睡眠薬も効かず、一睡もできない状態が続きます。担当医師から「右足を膝下から切断しなくてはならない」と宣告されました。エノケンは飛び上がらんばかりに驚きました。そんなことをしたら役者生命が終わるからです。そこでこれを拒否し、ほかの病院で診察してもらうと「つま先の壊疽部分を切り落とせば何とかなる」といわれました。足ごと切るよりはましと考え、思い切って手術を受けました。歩きづらいので指だけの義足を探しますがありません。そこでエノケンは自分でゴムの足形をつくってはめこみ、懸命に訓練して駆け足ができるまでになったのです。驚くべき役者魂です。そして、1955年には舞台に復帰したのです。息子との別れだれも笑わない公演しかし1957年7月、エノケンに大きな不幸が襲います。息子の鍈えい一いちが26歳で結核のために亡くなったのです。危篤になったとき電話で妻から知らせを受けますが、テレビ中継が入る公演をしていたので「舞台に穴を開けるわけにはいかない」と帰りませんでした。公演後、急いで家に戻ると、鍈一はぐったりしていました。エノケンは励ましてやりたい一心で、「ばかやろう、だらしねえぞ。しっかりしろ」と叱咤してしまいました。すると、鍈一はぽろっと涙を流したのです。これまで十分がんばってきたのは親のエノケンが一番よくわかっていました。にもかかわらず、そんな言葉を吐いた自分に、エノケンは生涯悔やみ続けたといいます。翌月、稽古中に妻の電話でエノケンは息子の死を知ります。それでも宝塚の公演を休みませんでした。客を笑わそうと、いつにも増して滑稽な演技をしますが、だれも笑いません。なぜなら客は皆、エノケンが息子を失ったことを知っていたからです。「僕の今日までの舞台の中で、この時の舞台ほど辛かったことはない。伜せがれが死んで、悲しい最中、2025.1040セカリアドンキャ偉人たちの歴史作家 河かわい合 敦あつし歴史作家 河合 敦第11回難病と闘いながら俳優の道を貫いた喜劇王榎えの本もと健けん一いち

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