エルダー2025年10月号
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場の『最後の伝令』の演出でした。車椅子のエノケンは、役者たちに厳しい演技指導を行いました。「『最後の伝令』の幕切れ、戦場で瀕死の重傷を負ったトムが死んでいく場面の稽古で、車椅子から立ち上がった榎本健一は、自ら90度の角度で倒れて見せ、トム役の財ざい津つ一いち郎ろうに手本をしめしました。固い稽古場の床に仰むけに倒れたエノケンは、義足のため立ちあがることができず、倒れたままのかたちで、目をうるませながら、『ここまで演らなきゃ駄目なんだ』と叫び、『喜劇を演ろうと思うな』」(矢野誠一著『エノケン・ロッパの時代』岩波新書)と怒鳴ったといいます。翌年の元旦、体調不良と黄おう疸だんが激しいので家人が心配し「カメラを買いに行こう」とだまして日本大学駿河台病院に連れて行き、エノケンを強制入院させました。すでに末期の肝硬変でした。それから一週間後に容態が急変します。「おーい。船が出るぞ。ドラだ。ドラが鳴っているよ」というのが、エノケンの最後の言葉でした。享年65歳でした。戦前は喜劇王とよばれたエノケン、戦後は不幸続きの人生でしたが、どんな苦難にあっても決してへこたれず、最後の最後まで俳優の道を捨てなかったその生き方は、敬服に値します。退院して自宅に戻ったとき息子はおらず、広い屋敷には、よそよそしい妻とお手伝いさんだけ。この現実に耐え切れなくなって、エノケンは首に電気コードを巻きつけようとしますが、片足なのでバランスをくずして倒れ、音を聞きつけた妻に見つかって、自殺は未遂になりました。右足を失ったあとも失われなかった舞台への情熱しばらく放心の日々が続きますが、やがて「右足がなくても芝居はできる」と思い始めたのです。そして義足をつけて歩行訓練に励み、舞台でも座れるようバネで膝を曲げられる義足をつくりました。そして驚くべきことに、右足を失ってからわずか8カ月後(1963年5月)、エノケンは新宿コマ劇場の舞台に立ったのです。ただ、義足で舞台に立つのは並大抵のことではありません。切断部がこすれて出血し、血で切断部の包帯にこびりつき、はがすとき激痛がはしりました。1967年、妻の喜世子との協議離婚が成立します。エノケンはすでに還暦を過ぎ、62歳になっていました。ところがこの年、エノケンは戸と塚つかよしえと再婚しました。財産はすべて喜世子に渡し、風呂敷包み一つでよしえのところへ行ったそうです。エノケンの最後の芝居は、1969年の帝国劇面白い芝居を見せて観客に笑ってもらわなければならない。それも僕の芝居で、『アッハッハ』と笑ってくれたら、僕も喜劇俳優として気も休まるのに、お客は僕に同情して、一生懸命芝居をやればやるほど場内がシーンとなるのだから、なんともいいようのない、辛い気持ちだった」(榎本健一著『榎本健一―喜劇こそわが命』日本図書センター)そう回想しています。息子を失って悲しいのは、エノケンの妻で鍈一の母である喜き世よ子こも同じでした。彼女は女優でしたが、同時にずっとエノケンを支えてきました。が、息子を失ったあと、喜世子はエノケンに離婚を申し入れたのです。芸に命をかけて家庭をかえりみず、浴びるほど酒を飲んで愛人を持ち、金銭感覚のない借金まみれのエノケンに愛想をつかしていたのです。けれどエノケンは、離婚に同意しませんでした。ただ、それ以後は、すっかり夫婦関係は冷め切りました。1962年、脱疽が再発します。足指の切断から十年後のことです。激痛のため眠れませんでしたが、入院すれば足を切断しなくてはならないので、病院には行きませんでした。このため、東大病院にかつぎ込まれたときは、ひどく悪化していました。エノケンは膝から下にしてほしいと頼みますが、結局、右足は大腿部から切断せざるをえませんでした。舞台俳優にとって、死刑宣告に等しいものです。エルダー41セカリアドンキャ偉人たちの

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