たまま亡くなりました。亡くなる前、「死んだら私のために別に御影堂を建て、いま住んでいる僧房は、僧侶たちに与えて欲しい」と遺言したので、その通りにしたといいます。ちなみに鑑真の死に関して、先に紹介した『唐大和上東征伝』に不可思議な伝承が記されています。鑑真の遺体は死後三日経っても、頭頂部が体温を保ったままだったというのです。このため、しばらくの間、その亡骸を葬ることができませんでした。しかも遺骸を火葬にした際、辺り一帯になんとも言えぬ良い芳香がただよったといわれています。鑑真の訃報を知らせる朝廷の使いが唐の揚州に届くと、諸寺院の僧侶たちは喪服を身につけ、日本に向かって三日のあいだ哀悼の意を捧げ、さらに龍興寺に集まって大だい斎さい会えを執り行いました。その後、龍興寺は火事のために焼けてしまいますが、鑑真が住んでいた宿坊だけが焼失を免れたので、人びとは鑑真の遺徳であると噂しあったといいます。歴史の教科書には、「高僧・鑑真は苦難を乗り越え来日して戒律を伝えた」としか記されていませんが、じつは戒律以外にもさまざまな最新の知識や技術を伝え、戒律を日本仏教界に定着させるため反対派と戦い続けて亡くなったのです。正しく伝わるよう、鑑真の生前にその伝記を記しました。これが、『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』です。残念ながら鎌倉時代以降、文章が散逸してその内容はわからなくなってしまいました。現在、一般に流布している鑑真の業績は、『唐大和上東征伝』に記された内容です。これは鑑真の弟子で、日本最古の図書館をつくった人物として教科書にも登場する淡おう海みの三み船ふねが編纂した伝記です。779(宝亀10)年の成立ですが、もともとは思託の伝記を短くまとめたものだと伝えられています。さまざまな逸話が残る鑑真の晩年鑑真は、数年間を唐律招提で静かに過ごし、763年、76歳で没しました。亡くなる前、弟子の忍にん基きが唐招提寺の講堂の梁が砕け折れる夢を見ました。お堂の梁が折れる夢というのは、偉いお坊さんが没する前兆だとされています。そこで忍基は、鑑真の死期が近いことを知り、大勢の弟子たちとともに鑑真の像をつくりました。じつはこれが、現在国宝になっている「鑑真和上坐像」です。まさに鑑真が生けるがごとき見事な像です。鑑真は生前、「私は死ぬとき、坐したまま死にたいと考えている」と弟子たちに語っていましたが、まさにその通り、寺の宿房で西を向いて座っ10月、東大寺に戒壇院が完成します。ただ、「戒律を受けなくとも、これまでのやり方で十分」と主張する僧侶もおり、鑑真と反対派との公開討論が興福寺で行われました。論争は反対派の惨敗に終わりますが、その後も一部の反発は続きます。例えば756年4月、朝廷は重病の聖武上皇のために鑑真らに病の平癒を祈願させました。この折、参列した僧たちに鑑真が受戒をすすめると、興福寺の法ほう寂じゃくは暴言を吐きました。ところがそのとたん、法寂は昏倒してしまったのです。人びとは大いに驚いたといいます。翌5月、聖武上皇は崩御しますが、その月に僧綱(仏教を管理するために設置された組織)での人事が刷新され、鑑真は大だい僧そう都ずとなりました。758(天平宝字2)年、鑑真は大だい和わ上じょうの尊号を朝廷から与えられますが、朝廷の官職からは離れることになりました。すでに71歳になっていたためです。翌年、鑑真は新にい田た部べ親王の旧宅を与えられました。そこで思し託たくや義ぎ静じょうら弟子を連れてこの地に移り住み、私寺を営むようになりました。寺の名は唐律招提、のちの唐招提寺です。ただ、寺院の運営費が国費(備前の田圃百町の収益)から出ていることに対し、非難する僧たちがあったようです。ここからわかる通り、日本の僧たちの間では、鑑真ら唐僧をこころよく思わなかった勢力が根強く存在していたのです。そこで唐僧の思託は、師の来日の意図が後世にエルダー35セカリアドンキャ偉人たちの
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