い粋いきな句です。さて、改めて北斎が生涯現役を貫くことができた理由ですが、いま述べたように、絵を描くこと以外は何もしなかったことが大きいと思います。煩わしい人付き合いも避けました。道ばたで知人にあっても「こんにちは」、「やあ」というだけで、立ち止まって挨拶をすることはなかったそうです。ときには歩きながら法華経をとなえ続け、知人が目に入らないふりをしたともいいます。金や権力にも無頓着でした。例えば南部藩主・津軽氏が北斎に屏風絵を描かせようと家臣を遣わしたことがあります。その家臣は北斎に5両をにぎらせて同行を求めましたが、いうことを聞きません。怒った武士は「お前を殺してこの場で腹を切る」と叫びますが、それでも北斎が首を縦にふることはありませんでした。ところが、です。それから数カ月後、北斎はふらりと南部藩邸を訪れ、屏風絵を描きはじめたそうです。「やりたくないことは、どんなに金を積まれても脅されてもやらない。しかし気分が乗れば、喜んで筆をとる」。そうした気質が健康と長生きにつながり、結果として売れっ子絵師になることができたのだと思います。人に一切媚びたりせず、ひたすら大好きなことだけをやり続けて生きていくことができた北斎。しかも生涯現役、何ともうらやましい人生といえるでしょう。れています。89歳の1848(弘化5)年に刊行した「絵本彩色通」の跋ばつ文ぶんには、「90歳になったらまた画風を一新し、100歳以降はこの画道を改革することだけに邁進する」と述べています。驚くべき気力の充実と、進歩への希求といえるでしょう。好きなことをやり続けて生涯を終えるしかし、北斎も不死身ではありません。卒寿(90歳)になった年、にわかに病にかかり、薬も効かない容態となってしまいました。医師は阿栄に向かって「老衰だから、治らない」と宣告したそうです。それ以来、阿栄のほか門人たちも入れ替わり立ち替わり献身的に看病しましたが、北斎の衰弱は激しく、ついに浅あさ草くさ聖しょう天でん町ちょうの遍へん照じょう院いん境内にある仮宅でいよいよ臨終のときを迎えます。このおり多くの門人や友人たちが集まってきましたが、北斎は嘆息し「天があと10年、いや5年の命を長らえさせてくれたら、私は真正の画工になれたのに」と告げ、そのまま亡くなったそうです。1849(嘉永2)年4月18日未明のことでした。辞世は「飛と魂でゆくきさんじや夏の原」「気晴らしに、人魂になって夏の草原をゆらゆらと飛んで行こうかな」という意味で、北斎らしに「筆がうまく運ばない。才能がないのかもしれない」とため息をつきます。すると阿栄は笑って「父は幼いころから80歳のいまにいたるまで毎日描き続けていますが、この前、腕を組んで、私は猫一匹もきちんと描くことができないと涙を流し、嘆息しておりました。己はダメだと自らを棄てようとするときこそ、じつは上達する機会なのです」と助言しました。すると、横で娘の言葉を聞いていた北斎は「まさにその通りだ」と大きく頷いたといいます。北斎のあくなき絵画上達への執念がわかります。 晩年の北斎は肉筆画に力を入れます。83歳のときからは、門弟の高たか井い鴻こう山ざんの依頼によってたびたび信濃国小お布ぶ施せ村を訪れ、娘の阿栄とともに祭屋台の天井画をはじめ、いくつもの作品を遺しました。特に88歳のときに描いた岩がん松しょう院いん本堂の天井画「八方睨み鳳ほう凰おう図ず」は20畳を超える大きさ。力強く鮮やかな色彩で、とても卒寿の老人が描いたとは思えない見事さです。この年には鳳凰図のほか、北斎は多くの肉筆画を描いています。当時の北斎のことを記した手紙(戯作者の笠りゅう亭てい仙てん果かの医師・平ひら出で順じゅん益えき宛書簡)には、北斎が「眼鏡をかけず曲描きや細かな版下絵が描け、背もかがんでいなかった。春ごろには雨降りに足駄(雨天用の二枚歯の高下駄)をはき、西両国から日本橋まで行き来しても、何ともない達者であった」(永田生慈著『葛飾北斎』〈吉川弘文館〉)と記さエルダー37セカリアドンキャ偉人たちの
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