新連載 偉人たちのセカンドキャリア 歴史作家 河合(かわい)敦(あつし) 第1回 社会改良に心血を注いだセカンドキャリア 板垣(いたがき)退助(たいすけ) 明治維新を戦い抜き政府要職へ63歳で政界から引退  歴史人物のなかには、功成遂げてから悠々自適の晩年を送らず、まったく違ったセカンドキャリアを過ごす人物も少なくありません。そこで今回からは意外な後半生を送った偉人たちを紹介していきます。  板垣退助は自由民権運動のリーダーとして知られ、かつては百円札の肖像でしたので、その容貌を思い出せる方も多いと思います。暴漢に襲われたとき「板垣死すとも、自由は死せず」と叫んだという逸話も有名ですね。  退助は1837(天保8)年、土佐藩士乾(いぬい)正成(まさしげ)の長男として高知城下に生まれ、幕末になると、藩の上士武士でありながら郷士(下級武士)と結んで倒幕派の中心となり、戊辰(ぼしん)戦争では土佐軍を率いて抜群の活躍をしました。そのため新政府から永世禄千石を下賜(かし)され、幼なじみの後藤(ごとう)象二郎(しょうじろう)とともに政府の参議になりました。けれど1873(明治6)年、征韓論(朝鮮を武力で征伐するという主張)に敗れ、薩摩の西郷(さいごう)隆盛(たかもり)らと下野(げや)(辞職)します。  翌年、退助は下野した参議たちと民撰議院(国会)設立の建白書を政府へ提出、有司(一部の人々)専制を批判します。この主張は人々に感銘を与え、自由民権運動のきっかけとなり、やがて退助は日本初の政党・自由党を創設して総裁(党主)となり、政党内閣を目ざして薩長藩閥政府と激しく対立しました。  日清戦争後、自由党は伊藤(いとう)博文(ひろぶみ)に近づき、第二次伊藤内閣で退助は内務大臣を務めますが、その後袂たもとを分かち、大隈(おおくま)重信(しげのぶ)の進歩党と合同して憲政党をつくり、1898年、同党を背景に組織された第一次大隈内閣で、退助は副総理格として内務大臣に就任します。しかし数カ月後、与党内不一致で同内閣は瓦解してしまいました。  このころから退助は、党利党略による醜い争い、政治家の金権体質、ひどく解散を恐れる代議士など、政治の世界に愛想を尽かすようになり、翌1899年に引退を表明しました。63歳でした。  ただ、その後に悠々自適な人生を送ったわけではありません。社会改良運動に力を注いでいったのです。 政界引退後、社会のさまざまな問題を解決するための活動をスタート  翌1900年2月、退助は西郷(さいごう)従道(じゅうどう)(隆盛の弟)と中央風俗改良会を立ち上げ、従道を会長に自分は副会長として社会改良運動を始めました。この運動は、家庭の改良、自治体の改良、公娼の廃止、小作や労働者の待遇改善といった、社会のさまざまな問題を解決して日本をよりよくしようという幅広いものでした。  退助は、社会をよくするためにはまず家庭の改良に着手することが必要だといいます。  「家庭は人類の共同生活の第一段階で、人は家庭のなかで智徳を養成し、社会の一員として活動することができるからだ。ところが日本の家族制度は家父長制という封建制度の悪しき風習が残っており、家族はずっと家長に絶対服従を強いられてきた。これはまるで、専制国家の君主と人民の関係だ。すでに我が国では立憲制が確立されている。その仕組みを家庭にも取り入れ、個人の自由を加味するなどして家長は家族を立憲制下の国民のように取り扱う必要がある」※1  そう語っています。さらに退助は、第二段階として自治体の改善も主張します。  「自治体は老年組、中年組、青年組の三組織で構成し、村から不良者が出たときは同年齢集団でこれを矯正し、争いも各集団で仲裁する。それでも治まらないときは三組織の連合会を開いて解決すべきだ。また、自治体は常に基金を蓄え、内部の貧者や困窮者に対して救護すべきだ」※2と述べています。  退助はこうした独自の考え方を各地で講演し、積極的に新聞取材にも応じ国内に広めて行こうと努め、1903年には風俗改良会の機関誌『友愛』を創刊します。  翌年、日露戦争が勃発し、戦死者や負傷兵も膨大な数に上りました。退助は兵士の遺族や身体に障害を負った兵士を支援する活動も積極的に展開していきました。  1907年、退助は850人の華族(元大名・公卿(くぎょう)、維新の功労者の家柄)に自分の意見書を送りました。華族という名称をなくし、爵位の世襲を廃止すべきだというものでした。退助は書面で意見に対する賛否を問いましたが、回答したのは37人。賛同者はそのうち12人でした。  退助は皇室を除いて、国民一般の間に階級という垣根を設けることは四民平等の理念に反すると考えており、華族(爵位)が世襲されることに疑問を持っていました。退助は、刑罰が子孫に及ばないのと同様、爵位の恩典も子孫に及ぼすべきではないとして「一代華族論」を主張、天皇と国民のあいだに華族という特権階級をつくれば、両者の間に溝をつくることになると非難しました。  さらに退助は、小作人の保護、公娼の廃止をとなえ、女性犯罪者の子どもを保護する施設を支援し、目の不自由な人から職を奪わぬよう、健常者が按摩(あんま)になることを禁止すべきだと主張しました。  ユニークなのは「米麦官営論」です。国民の常食である米や麦が投機の対象として価格が変動しているのを憂い、国が米麦を管理して国民に安く提供し、生活の心配を取り除くべきだと主張したのです。労働者のストライキについても、労働者の正当防衛だと擁護しています。ただ、暴力に訴えることには反対しました。 私財を投げ打って社会改良運動に後半生を注ぐ  人間平等や弱者に優しい社会をつくろうとした退助でしたが、社会主義や共産主義には賛同しませんでした。社会主義は無競争を生みだし、個人の才能や特技を発揮することができず、勤勉な人を怠け者にする考え方だと断じています。個人間や集団間での競争こそが、人類を進歩・向上させるのだという信念を持っていたのです。  功成り遂げた人間が、余暇と財産を持てあまして慈善事業に走るケースがありますが、退助の場合は単なる金持ちの道楽ではありませんでした。社会改良運動では己のもてる財産、賜金、寄付金などすべてを投げ出して活動しています。このため家屋敷も手放し、晩年住んでいたのは竹内(たけうち)綱(つな)からもらった屋敷でした。部屋が20以上もある大邸宅ですが、金がないので手入れもできず、すべての部屋が雨漏りするほどだったそうです。  このように退助は後半生、ほとんど政党とかかわりを持たず、社会改良会の総裁に就き、もっぱら社会問題の解決に後半生を注いだのです。  1919(大正8)年7月16日、退助は83歳で没しました。生前、一代華族論をとなえて世襲制に反対していたため、その子・鉾太郎(ほこたろう)は、亡父の遺志を継いで爵位を受けませんでした。 ※1・2 板垣(いたがき)守正(もりまさ)編『板垣退助全集』(原書房)より