第99回 高齢者に聞く 生涯現役で働くとは  寺澤防子さん(85 歳)は、定年退職後に産業用ろ過機の開発・製造会社を立ち上げ、いまも現場の第一線に立つ。本職はもちろん、地域の環境保全の取組みや民泊の運営など、周囲が驚くほど精力的に活動している。  「生涯現役」という言葉がだれよりも似合う寺澤さんが、日々の活力の源を語る。 株式会社テラサワ 代表取締役 寺澤(てらさわ)防子(ほうこ)さん 「夢」を追いかけて夢中で歩いた日々  私は埼玉県秩父郡(ちちぶぐん)横瀬町(よこぜまち)に生まれ、85歳になったいまも生まれ故郷で元気に過ごしています。6歳のときに終戦を迎えましたが、横瀬も空襲があり、敵機が飛んでくると橋の下に隠れたことなどを鮮明に覚えています。地元の中学校を卒業して県立秩父高等学校に入学。当時高校に進む女性は数少なかったです。高校は普通科でしたが、じつは中学生のころから建築士になることを心に決めていました。きっかけとなったのは自宅を改築したときに出会った大工さんの存在でした。モノをつくる人の粋な姿に魅了されて、大工さんの後をついて回ったものです。夢を実現するために、図面の勉強も独学で始めて、中学校を卒業するころにはT定規を使って図面が書けるようになっていました。  高校を卒業した年は就職難でしたが、やりたいことが決まっていた私はだれよりも早く就職先が見つかり、小さな建築事務所に入社しました。ところが会社の評判が芳(かんば)しくなく早々に退職することになりました。数カ月間は家事を手伝っていましたが、高校の先輩がキヤノン電子株式会社の前身である株式会社秩父(ちちぶ)英工舎(えいこうしゃ)を紹介してくれました。生産技術部門の女性が結婚退社するため欠員が出ているとのことでした。すぐに入社できるかと思ったら、5人も応募があり、いま思い出してもつらくなるほど何度か実技試験と面接が行われました。  終戦から10年しか経っていないころ、ものづくりに憧れた少女がT定規を駆使して大きな図面と格闘している姿を思わず想像した。女性の職業として社会的な認知度も低かったに違いないが、想像のなかの寺澤さんは笑顔がはじけていた。 上司の言葉を宝物にして  縁あって入社が決まったものの、生産技術部門の欠員とはいえ、前任者は庶務担当であったため私にも庶務の役割が求められました。いわゆるお茶汲みや男性の補助といった仕事です。生意気盛りの私は怖いもの知らずで、「自分は技術の仕事がしたい」、「現場に出たい」と庶務の仕事を断りました。結局、庶務の仕事もこなすことを条件に、念願の生産技術部門に就くことができました。そのうち時代は大きく動いて1964(昭和39)年に、キヤノン電子株式会社と社名が変更になり、キヤノンのカメラが爆発的に売れ始めると、カメラの心臓部をつくっていた会社は多くの人材を採用、生産技術部門にも女性が数名入社してきました。新しい時代の到来に、力づけられたことを覚えています。  自分から望んだ仕事ですから、生産技術部門のエンジニアとして男性と互角の仕事をしてきたつもりです。辛いこともありましたが、会社に行きたくないと思った日は一日もないくらい仕事が好きでした。ふり返れば、「お茶汲みだけの仕事は嫌だ」と、よくいったなあと思います。まだまだ女性の地位が低かった時代に、定年まで自らが望んだ生産技術の分野で働き続けられたことに感謝しています。  思えば周囲の人に助けられました。私を面接して採用してくれた次長は無口で有名な人でしたが、私が入社して3カ月ほど経ったときに「僕が選んだ人に間違いはなかった」と声をかけてくれました。日ごろ口数が少ない人だけに言葉がとても重く感じられ、私の宝物になりました。  定年後、会社を立ち上げた寺澤さんは、かつての同僚などシニア世代の仲間たちに「一緒に働かないか」と声をかける。人と人のつながりを何より大切にすることが会社発展の近道であることを、寺澤さんは42年の勤務のなかで学んでいたのだ。 水循環型社会への貢献を目ざして  1999(平成11)年に60歳で退職後、二つの会社から声をかけていただき、環境保持などの仕事にかかわらせてもらいました。新しい出会いにいろいろ刺激を受けるなかで、不思議なことに働いていない自分はまったく考えられず、気がついたら「株式会社テラサワ」を起業していました。  おもな事業内容は産業用ろ過機の開発・製造です。簡単にいえば、ろ過装置を使って自動車や重機などの工場の汚濁液を再生し、水の循環型社会を下支えしたいという考えから起業した会社です。前職時代、工場で発生する大量の汚濁液の処理に頭を悩ませる方々をたくさん見てきました。自分がつちかってきた知識と技術を役立ててお世話になった地域に貢献したいという思いがありました。幸運だったのは会社を立ち上げて3年目に、全国に販売網を持つNOK株式会社から「膜式ろ過機」を譲渡されたことでした。会社はにわかに忙しくなり、高い技術を持った人材の確保が急務となりました。頭に浮かんだのが、かつて一緒に仕事をしたシニア世代の技術者です。私もそうですが、多くの技術者は定年を迎えた後も、自分の技術を活かして世の中の役に立ちたいと考えています。会社のコンセプトをていねいにお話しするなかで共感してもらい、4人の技術者が入社してくれました。カメラの開発や事務機のメンテナンスを手がけてきた腕が、いま水循環型社会の構築を目ざしています。 故郷で生涯現役を果たせる幸せ  現在会社は私を入れて5名の陣容ですが、全員が65歳以上で、一人ひとりがそれぞれ重要な部分をになっています。  そして、だれもが長く働き続けるためにも、働き方の工夫をしています。勤務時間は月曜から木曜日は朝8時から15時まで、金曜日は8時から正午までです。明るい時間に帰宅できるので「平日も時間を有効に活用できる」との声が聞こえてきます。  生涯現役を貫くには仕事だけではなく、やはり仕事以外にも活躍できる場所があるかどうかが大切だと私は思います。  私は会社勤務のころ、地域のために何か行動することはまったくありませんでした。秩父に生まれ育ちながら秩父の魅力について考えたこともなかったのです。いま時間を取り戻すかのように二つのNPO法人に入って活動しています。「秩父の環境を考える会」では設立後まもなくから広報を担当、「秩父丸ごと博物館」の活動では秩父の歴史的、文化的魅力を発信しています。  加えて、私は自宅で民泊を運営しています。ひょんなことから始めたのですが、根底には秩父のよさを世界の人に知ってもらいたいという願いがあります。今朝も台湾のお客さまに食事をサービスし、秩父駅に送ってから出勤しました。体がいくつあっても足りないほど忙しい毎日ですが、故郷で生涯現役の日々を過ごせる喜びは何物にも代えがたいものであり、この道を今日も笑顔で歩いていこうと思います。