知っておきたい 労働法Q&A  人事労務担当者にとって労務管理上、労働法の理解は重要です。一方、今後も労働法制は変化するうえ、ときには重要な判例も出されるため、日々情報収集することは欠かせません。本連載では、こうした法改正や重要判例の理解をはじめ、人事労務担当者に知ってもらいたい労働法などを、Q&A形式で解説します。 第78回 定年後の職務発明に関する紛争、年俸決定の裁量権 弁護士法人ALG&Associates 執行役員・弁護士 家永勲 Q1 退職した元従業員が発明した特許には、利用料相当額を支払わなければならないのですか  定年で退職した従業員が、自分が発明した特許を会社が使用しているとして、その利用料相当額の請求をしてきました。たしかに、定年に至るまで開発や研究にかかわる業務を行っていた従業員ではありますが、会社の設備などを利用していた開発や研究の成果に対して、個人的な利益を求めてくるとは想定外です。会社は、利用料相当額を支払わなければならないのでしょうか。 A  会社で職務発明規程を定めているか、また、その規程を定めた経緯などを確認する必要があります。会社の職務として行ったものであれば、支払いは不要である可能性が高いですが、一定程度の補償金を支払わなければならない可能性もあります。 1 職務発明制度  職務発明とは、会社の従業員が行った発明について、その特許を受ける権利や特許権を会社に帰属させるための制度です。現在ある課題を解決するような発明は、社会の発展のために有意義ですが、発明者にそのすべての権利が帰属するとすれば、会社としてはその研究や開発のための投資を行う意欲が失われます。他方で、従業員である発明者になんらの報酬もないとすれば、従業員にとっても発明の意欲が湧きません。  そこで、特許法第35条が、性質上使用者等の業務範囲に属し、かつ、その発明をするに至った行為がその使用者等における従業者等の現在または過去の職務に属する発明を「職務発明」と定義し、会社と労働者の利益を調整しています。職務発明に対して、どのような取扱いを行うかについては、図表のように大きく分けて三つの選択肢があります。なお、2015(平成27)年の改正以降は、このような取扱いとなっていますが、それ以前の場合には、若干取扱いが異なることがあります。  そもそも、職務発明について、合意や規則を定めるか否かについても使用者が任意に選択することができるほか、特許権をどのような方法で使用者に帰属させるかという点も異なります。ただし、特許権を使用者に帰属させる場合、使用者は発明者に対して相当の利益を与える必要があり、在籍中ではなく、定年などの退職後に請求を受ける場合や会社に相当な経済的利益を生じさせた特許権の帰属についての紛争が生じることがあります。 2 裁判例の紹介  従業員が在籍中に行った発明に関する特許権について、職務発明に該当するものとして会社が特許権を出願して登録したことに対して、定年退職した従業員が、種々の紛争を生じさせた事案があります(東京地裁令和6年9月26日判決)。長年にわたり、さまざまな手続きが行われていますが、過去には職務発明に対する相当な利益の支払いを求める請求が行われたほか、最終的には、特許権が自らに帰属することの確認を求めて訴訟を提起しており、また、これらの手続きに要した費用について使用者に対して損害賠償の請求を行いました。  当該事件の会社では職務発明に関する規程が定められており、職務発明に該当する場合には、会社が承継するものと定めるとともに、会社が必要ないと認めた場合には従業員に特許権が残るとされていました。この規定は、図表のAとして整理した事前承継に該当する規定と評価されました。そして、従業員が行った発明は、使用者の業務範囲に属し、かつ、発明者の職務にも含まれるものであることから、職務発明に該当するものと判断されました。  問題として残るのは、相当な利益の支払いを行っていないことになりそうですが、当該事案における職務発明の規程においては、特許権を承継するにあたり、協議や意見の聴取、相当な利益の支払いを要件としていないことを理由に、発明者であった従業員に特許権が帰属するという主張を排斥しています。  仮に、職務発明規程において、相当な利益を与えたことを特許権が移転する要件として定めていた場合には、相当な利益を与えていないかぎりは移転しないという結論になっていた可能性を否定できません。  なお、相当な利益の決定方法については、使用者と従業員との間で行われる協議の状況、策定された基準の開示状況、相当な利益の内容の決定について行われる従業員からの意見聴取の状況を考慮して定めるものとされています(特許法第35条第6項)。特許庁が定めるガイドラインにおいては、相当な利益の算定について基準を策定するにあたり、従業員との協議、基準の開示、具体的な意見聴取方法を定めている場合には、当該基準の内容を尊重して相当な利益を定めるものとされています。また、相当な利益には、金銭以外にも留学機会の付与や昇進や昇格、特別休暇の付与なども考慮されるものとされています。  したがって、開発や研究に資するような設備や、そのほかにも相当な利益として考慮されるような要素があれば、追加で相当な利益を与えなければならない可能性は低く、従業員との協議により定めた算定基準を開示しており、それに従っているかぎりは、追加の支払いまでは不要になることもあります。 3 特許以外の知的財産権  特許権を獲得するような事業活動がない場合には、関係がないと思われるかもしれませんが、類似の状況は著作権でも生じることがあります(著作権法第15条)。  著作権法では、使用者の発意に基づき従業員が職務上作成する著作物について、法人が自己の著作の名義のもとに公表するもの(プログラムの著作物については、公表不要)は、「職務著作」として、契約、勤務規則その他別段の定めがないかぎり、使用者に原始的に著作者として著作権が帰属するものとされています。特許法とは異なり、契約や規則がなくとも職務著作であるかぎり使用者に帰属する点や相当な利益の付与は求められていない点は異なります。  しかしながら、職務発明規程がなければ、特許権は使用者に帰属しないことがあり、使用者として知的財産権全般を管理することを意図する場合には、職務発明のみならず、職務著作の帰属先などについてもあわせて整理しておくことが適切でしょう。  職務著作に関しては、相当な利益を与えることが必須ではないものの、職務発明規程を定めるにあたっては、各種の知的財産に関する相当な利益の算定基準を定めておくことによって、後日の紛争を回避することに資するため、従業員と協議のうえ、就業規則と同様に開示を行っておくという取扱いをスタンダードにしておくことが重要でしょう。 Q2 年俸制の場合、評価に基づき年俸を減額しても問題はないのでしょうか  当社では、裁量の範囲が大きい業務を取り扱っている労働者について、年俸制を採用しており、年度ごとに前年度の業務成果などを考慮して、年俸を決定してきました。このたび、業務成果に応じて、年俸の減額を伝えたところ、これに労働者が反対してきました。会社が年俸を一方的に減額することに問題はあるのでしょうか。 A  年俸制に関する評価基準や決定手続きが合理的に定められており、減額に対する不服申立手続きが用意されていることなどが確保されている場合であれば、減額の合意に達することができなかったとしても、使用者の裁量を逸脱・濫用しないかぎり、減額することは可能と考えられます。ただし、減額の幅について限界を定めておくことが望ましいでしょう。 1 年俸制について  年俸制とは、賃金の全部または相当部分を、労働者の業績などに関する目標の達成度を評価して年単位で設定する制度などと定義されており、単純に労働時間における労務提供が行われるかどうかだけをもって賃金を決定するわけではないということが前提とされています。なお、年功序列による賃金体系を維持しつつ、年収のことを年俸といい換えている場合もありますが、その場合は年俸制としての特徴はほとんどないものになります。  本来の年俸制を採用する使用者において想定しているのは、毎年の業績評価を通じて年俸の増減を行うことによって、目標達成へのインセンティブを確保することにあります。増額される場合には労使間で紛争になることは想定しがたいところですが、日本の労働法制においては、たとえ年俸制であるとしても、賃金の減額を行う際には紛争が生じやすく、減額を有効に行えるのか問題となることがあります。  なお、減額以外の観点からは、年俸制といえども、年に一度まとめて支給するのではなく、毎月1回以上の定期払いが必要であることから12回以上に分けて、少なくとも月に一度は賃金を支給することは必要となります。 2 年俸制と時間外割増賃金  年俸制が、時間に応じるよりも、業績に対する達成度で評価する側面を有していることから、基本的には年俸制は専門性が高く、労働時間の管理がなじまない業務を行っていることが多く、時間外労働による割増賃金の適用が除外される管理監督者や高度プロフェッショナル制度の適用対象者、専門業務型や企画業務型の裁量労働制の対象者との相性がよいものです。  他方で、これらの制度の対象ではない一般の労働者に年俸制を適用し、年俸に時間外割増賃金を含めて合意しているという主張がなされることがあります。過去の判例では、勤務医に対して年俸1700万円を支給していた事例において同趣旨の主張をした事件では、年俸の金額のうち時間外労働割増賃金に相当する額が判別可能ではないという理由で、別途時間外割増賃金の支払いが必要とされた事例があります(最高裁平成29年7月7日判決、康心会事件)。したがって、たとえ年俸制であったとしても、通常の賃金の合意と同様の取扱いをするということが、日本の労働法における基本的な考え方となっているといえるでしょう。 3 年俸の減額  仮に、年俸制であっても賃金と同様の取扱いとなるとすれば、原則として、労働者の自由な意思による同意がなければ、減額ができないという結論にもなりそうです。しかしながら、自由な意思による同意がないかぎり減額できないとすれば、日本では年俸制は実質的に採用できないということになってしまいます。  したがって、年俸制において減額できるようにするためには、減額するための条件などが、就業規則または労使間で合意した労働契約に含まれている必要があると考えられています。すなわち、賃金の名称を年俸と呼称しておけばよいわけではなく、年俸制の定義に含まれているような「業績等に関する目標の達成度を評価して年単位で設定する」ということを具体化して労働契約の内容に定めておくことが必要ということになります。  例えば、東京高裁平成20年4月9日判決(日本システム開発研究所事件)では、「年俸制において、使用者と労働者との間で、新年度の賃金額についての合意が成立しない場合は、年俸額決定のための成果・業績評価基準、年俸額決定手続、減額の限界の有無、不服申立手続等が制度化されて就業規則等に明示され、かつ、その内容が公正な場合に限り、使用者に評価決定権があるというべきである」という判断がされています。通常の賃金決定においてあまり想定されていない、不服申立手続きも要素としてあげられていることからも、裁判所の判断において、評価における客観性や透明性が確保されていることは重視されており、公正な評価自体が担保されていることが重要といえます。  とはいえ、成果・業績評価の基準については、使用者がいかなる指標を重視するかについては、事業の内容や規模などに応じて左右されるものです。そのため、過去の裁判例においても、成果・業績評価の基準については、「使用者が労働者を人事評価するうえで、いかなる要素を捉えて業績、貢献度の大小の判断基準とするかは、使用者がいかなる企業・組織の運営方針や人事政策を採用するかに委ねられた問題であって、使用者はこの点につき広い裁量を有する」と判断されています(東京地裁平成28年2月22日判決)。  したがって、使用者には、年俸の減額に関する基準を定めた根拠がある場合には、減額の限界に従うかぎり、広い裁量をもって次年度の年俸を決定することができると考えられています。ただし、年俸制による賃金が減額されて紛争となった場合、裁判所が使用者において合理的な評価が行われたかについて判断することになります。使用者に裁量が認められるとしても、その裁量を逸脱または濫用して評価がゆがめられているような場合には、年俸の減額が違法となり、前年度の年俸相当額を賠償しなければならない場合もあります。