偉人たちのセカンドキャリア 歴史作家 河合(かわい) 敦(あつし) 第14回 歌舞伎の歴史に名を刻む偉大な初代 市川(いちかわ)團十郎(だんじゅうろう) 歌舞伎に革新をもたらした新星  歌舞伎に新風を吹き込んだ名優・市川團十郎(初代)は、1673(延宝元)年、14歳で初めて舞台にのぼります。このとき「四天王稚立(してんのうおさなだち)」という演目で坂田(さかた)金時(きんとき)(金太郎)役を演じましたが、その演技に観客たちは度肝を抜かれてしまいます。というのは、顔に紅と墨で異様な化粧をほどこし、斧を片手に舞台上で跳ね、飛び、廻りといった激しいアクションを披露したからでした。このような演出や躍動的な動きは、それまでの歌舞伎には一切見られないものでした。以後、團十郎の激しい演技は荒事(あらごと)と呼ばれ、たちまち江戸歌舞伎の人気俳優の仲間入りを果たしたのです。  29歳のとき、ようやく跡継ぎの九蔵(二代目團十郎)も生まれ、まさに飛ぶ鳥を落とすような勢いを見せた團十郎でしたが、それから数年も経つと、ぱたりと座元(興行主)から出演契約の依頼が来なくなってしまったのです。  原因の一つは、團十郎の尊大さにありました。人気俳優であることを鼻にかけ、座元や役者仲間に冷淡で、どうもひんしゅくを買っていたようです。ただ、最大の理由は、契約料の高騰でした。團十郎は座元と三百両で契約していましたが、当時として破格の高値だったので、座元たちは團十郎との契約を解除し、もっと安く使える女形や立役(成人した役者)と契約を結んで顔見世興行を華やかにしたほうが儲かると考えたのです。  これを知った團十郎は大いに反省し、次のような願文(がんもん)(神仏への誓約書)をしたためています。  「私はこの苦境を脱するため、これからは三宝荒神(さんぽうこうじん)、上野両大師、不動明王、愛染明王など神仏への参拝や参詣を怠らず、父母存命中は禁酒し、妻以外の女と交わらず、男色を断つことを誓う」  これを見ると、当時の彼の生活がいかに乱れていたかがよくわかります。ただ、偉いのは、初演から数えて20年(34歳)のベテラン俳優だったのに、己の運命を開くために思い切った行動に出たことです。團十郎は、拠点である江戸を離れることを決め、妻子や弟子を連れ、思い切って上方へ向かったのです。じつはこの時期の歌舞伎は、江戸より上方歌舞伎のほうが盛んでした。團十郎は歌舞伎の本場で己の力を試そうと考えたのです。 関西でスタートしたセカンドキャリア  1694(元禄7)年正月、京都の村山座(村 山平右衛門が座元)での團十郎の出演が決まりま した。すでに上方でも團十郎は名優として知られ ていました。だから噂を聞きつけ芝居小屋に20 00人が詰めかけたのです。演目「巡逢恋七夕(めぐりあいこいのたなばた)」の牽牛(けんぎゅう)役としての團十郎の演技は大いに評判となり、大坂や堺からも客が集まってきました。こうして上方で大当たりをとった團十郎は、江戸へ戻りました。短期間でしたが、團十郎は上方歌舞伎からさまざまなものを吸収し、演技もかなり変化したといわれています。  それだけではありません。上方歌舞伎に啓発され、三升屋(みますや)兵庫(ひょうご)というペンネームで次々と新作の歌舞伎脚本を書き、その作品を自分で演じるようになったのです。現在もよく知られている「不破(ふわ)」、「暫(しばらく)」、「象引(ぞうひき)」、「勧進帳(かんじんちょう)」なども、團十郎のオリジナル作品です。合作も含めると、作品数は60本を超えるといわれています。己の演技を一番よく知るのは自分自身。だからこそ、他人の脚本を演じるのではなく、自分に適した筋を書くことで舞台上で一番輝けるようにしたのだと思います。  團十郎は舞台装置にも工夫をこらすようになりました。1700(元禄13)年の森田座の公演では、はじめて「宙乗り」を披露し、客をアッといわせました。曾我兄弟の敵討ちで知られる曾我五郎役を演じた團十郎が、念を込めて息を放つと、なかから曾我五郎の分身が姿をあらわし、空中で自在に動くというものです。その分身役を演じたのは、九歳の息子・九蔵(くぞう)でした。大ヒットを連発したこともあって、團十郎の契約料もアップし、最終的に八百両まで上がったといいます。 45歳で早逝も、その演技と不屈の精神は後世へ  このように團十郎は、江戸歌舞伎で頂点に立った後、落ち目になった人気を挽回すべく、思い切って上方に進出し、そこで多くのものを学び、再び江戸で見事な復活をとげたのです。こうして絶頂期を迎えた團十郎でしたが、45歳のとき、にわかに亡くなりました。病死や事故死ではなく、殺害されたのです。  1704年2月19日、その日はやってきました。團十郎は市村座で自分の脚本(狂言)「移徒十二段」で佐藤忠信役を演じていました。忠信は源平時代に活躍した源義経の重臣で、最後は頼朝の軍勢に襲撃され京都で奮戦のすえ自害した人。そんな悲劇の武将を演じている最中、役者仲間の生島(いくしま)半六(はんろく)が團十郎に近づき、なんと、舞台上で刺殺したのです。  残念ながら、どんな殺され方をしたのかなどは一切記録に残っていません。殺された原因もはっきりしません。女性関係のもつれだとか、半六が不倫を團十郎に諫められて逆上したとか、半六の息子・善次郎を團十郎がいじめたからだなどといわれていますが、本当のところはわかっていません。これほどの名優が舞台で殺されたのに詳細がわからないのは、関係者が完全に口をつぐんだからだと思います。何か知られてはまずい重大な秘密があったのでしょう。いずれにせよ、あっけない幕切れでした。  ただ、團十郎の死は大いに惜しまれ、翌年には『宝永(ほうえい)忠信(ただのぶ)物語(ものがたり)』と題し、團十郎を追悼する書物が刊行されています。そのなかに同じ年に没した初代・坂東(ばんどう)又太郎(またたろう)があの世の賽(さい)の河原で新作をつくって興行を行うという話が登場します。服部幸雄氏によると、「名優が没すると、西方浄土の極楽芝居へ出演するために旅立ったとする追善の文章や死絵が制作されることが多い。この本はその早い例」(『市川團十郎代々』講談社学術文庫)だといいます。  さて、このとき九蔵(二代目團十郎)はまだ17歳でした。しかし、幼いころから父に舞台に引き出され、子役として第一線で活躍していたため、間近で父親の演技をみていました。けれど、やっかみもあったのか、父の死後は軽い役しか与えられず、かなり悔しい思いをしたようです。しかしめげずに精進と努力をかさね、最終的に父親を超える千両役者になっています。  悲惨な最期をとげた初代團十郎でしたが、己の演技と不屈の精神を息子に継承することができたわけです。以後、市川團十郎家は代々名優を輩出し、歌舞伎界になくてはならない存在となり、現在十三代を数えるまでになっています。