技を支える vol.360 書の研鑽から生まれる「間合い」の美 印判師(いんばんし) 長澤(ながさわ)豊(ゆたか)さん(70歳) 「余白の均一感が大事。そのためには、字を構成する一つひとつの線や点の位置が重要です。この間合いが整わないと、よい判とはいえません」 「1ミリのなかに何本線を引けるか」の世界  上の写真では、36ミリ四方のスペースのなかに、コンマ数ミリの細い線で微細に表現された白鳳(はくほう)や大日如来(だいにちにょらい)が刻まれている。神奈川県横須賀(よこすか)市の印章(はんこ)専門店「一信堂(いっしんどう)印房(いんぼう)」の二代目、長澤豊さんが手がけた印章は、機械では決して再現できない精緻な仕上がりだ。その卓越した技能が認められ、長澤さんは令和7(2025)年度の「現代の名工」に選出された。  「1ミリのなかに何本線を引けるか。そういう世界です」  長澤さんのもとには、ほかでは対応できない依頼が舞い込む。ある自治体から依頼されたのは、縦4ミリ×横7ミリのサイズに自治体の名称の四文字を縦長の隷書体(れいしょたい)で彫る仕事だった。「機械では穴が開くだけ。よそではできない」という。また、絵と字を組み合わせたオリジナルの印章づくりを依頼されることも多い。  「細かい部分を彫るときも、頭のなかでは全体を俯瞰(ふかん)しています。自分が彫っている姿を、上から見ている自分がいる感覚です」 4年間の修業で「金賞」受賞 書道は40年以上学び続ける  長澤さんは子どものころから手先が器用で、先代の父親から店を継ぐようにいわれた。ものづくりが好きだったこともあり、家業を継ぐのは自然な成り行きだった。  高校卒業後、神奈川県印章高等職業訓練校に入学するとともに、横浜印章事業協同組合で4年間、修業に取り組んだ。同組合は市内三十数社の仕事を請け負う工場で、その5階に職業訓練校があった。平日は仕事のあとに練習し、土日は訓練校に通った。修業4年目、22歳のときに大阪印章技術展覧会で金賞を受賞。若くして彫りの技術を認められた。  しかし長澤さんは「彫ることは器用さでなんとかなる。でも字を知らないことには、よい印章はつくれない」と気づく。彫りの技術というハード≠セけでなく、字の知識というソフト≠熬bえなければならないと思い、書家に弟子入りをした。  「行書のように流れる書ではなく、楷書を得意とするその先生の書は、はんこ屋にぴったりでした。文字を置く位置が1センチずれてもダメなんです」  その厳しさは、方寸の枠に文字を配置する印章彫刻と通じるものがあった。以来、店の仕事と並行して40年以上にわたり書に打ち込んできた。師匠の指導を仰ぎながら毎週2日間は集中して書くことを続け、41歳で日展に念願の初入選を果たした。  長澤さんは「間合い」という言葉を大切にする。  「余白の均一感が大事。そのためには、字を構成する線や点の位置が重要です。この間合いを整えないと落ち着きませんし、よい判とは言えません」  書道で学んだ字の位置の感覚が、コンマ数ミリの世界に生きている。 技能を後進へ伝えることが自らの使命  長澤さんは後進の指導にも積極的だ。2017(平成29)年からは神奈川県印章研究会の主任指導員を務めている。これまで指導した生徒のなかからは、印章技術の全国競技会における大臣賞受賞者も輩出している。  「指導では、字の形を変えさせるのではなく、字の間合いだけを整え、その大切さに気づかせるようにしています。ヒントを与えるだけで、ぐんと伸びる人もいます。教えることで、少しでも若い世代の助けになればと思っています」  また、地域のコミュニティセンターでは、一般向けの篆刻(てんこく)教室を開催している。20名ずつの定員で3カ所で開いたところ、応募者が殺到した。  「趣味でやっている人のなかにもうまい人がいて、うれしくなっちゃいます」  「自分が持っている技術を、できるかぎり伝えていきたい」─唯一無二の印章を彫り続ける「現代の名工」は、その技を次世代につなぐことを、自らの使命と定めている。 有限会社一信堂印房 TEL:046(835)0692 https://www.hancoha.jp/iss.html (撮影・羽渕みどり/取材・増田忠英) 写真のキャプション 印章彫刻の技術を高めるため、書道にも打ち込んできた長澤さん。「書を学ぶことで、字の位置の大切さが非常によくわかるようになりました」 横須賀市久里浜(くりはま)商店街に店を構える「一信堂印房」は1948年創業 愛用の印刀と仕上げ刀。印刀は異なる太さのものを使い分ける。いずれも同じ太さの柄に自ら籐を巻いて、持ち替えても感触が変わらないようにしている 競技会の参考作品として作成した密刻「壺中天(こちゅうてん)」。周囲には後漢書の一説が得意の楷書体で彫られている。密刻とは、細かい文字や図案を精密に彫り上げる技術 印材を固定した篆刻台を回しながら印刀で彫り進めていく。道具は駆け出しのころから使い続けているものが多い かつて指導していた神奈川県印章高等職業訓練校の生徒たちの共同作品。長澤さんが原画を描き、生徒たちが分担して彫って完成させた 修業4年目に大阪・関東の印章技術展覧会「密刻の部」で受賞した作品。「氷壺玉鑑(ひょうこぎょくかん)」(上・大阪・金賞)と「天皇在位五十年」(関東・銅賞)(36ミリ角) 印章づくりの工程は、「字入れ」、「荒彫り」、「仕上げ」と進む。荒彫りでは広い部分を深く彫り、仕上げでは細かい部分を一刀彫りで仕上げる