偉人たちのセカンドキャリア 歴史作家 河合(かわい)敦(あつし) 最終回 生涯現役で絵を描き続ける 葛飾(かつしか)北斎(ほくさい) 絵を描くのが好きだが、生活はいい加減  葛飾北斎といえば富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろくけい)が有名ですが、彼が描いた絵は3万点を超えています。これほどの多くの作品を送り出すことができたのは、長生きであったうえ生涯現役だったからです。今回は、北斎の生き方に焦点をあてていこうと思います。  1760(宝暦10)年に江戸の本所割下水(ほんじょわりげすい)で生まれた北斎は、幼いころから絵を描くのが好きで、19歳で勝川(かつかわ)春章(しゅんしょう)の弟子となり、勝川(かつかわ)春朗(しゅんろう)と名乗って浮世絵師として活躍します。ところが30代半ばで勝川派を破門になり、仕方なく俵屋(たわらや)一派に入って2代目俵屋宗理(そうり)として肉筆画を描いていました。しかし10年後に浮世絵の世界に戻って葛飾北斎と号し、読本作家・曲亭馬琴(きょくていばきん)の挿絵で名が知られるようになりました。  北斎は毎日朝から晩まで描き続け、腕が萎え目が疲れてようやく筆を置くのが日課でした。9月下旬から4月上旬までは炬燵のなかで仕事をし、夜も炬燵で寝、掃除をしないので炬燵ぶとんはシラミだらけでした。炊事もせず、3度の食事は近くの煮売屋に運ばせ、料理を包む竹皮や重箱は部屋に放置したので散らかり放題。ゴミだらけになると転居したといいます。なんと生涯に93回も引っ越しています。  60歳を過ぎたころには有名画家となり、原画は高額で買い取られましたが、北斎は紙に包まれた礼金を確かめもせず、部屋にほうり投げておきました。このため食費や絵の具代などを徴収に来る商人たちは、ゴミのなかから包まれた礼金を勝手に持ち出し、思った以上に金が入っていれば超過分は着服、不足の際は残金を催促に来たそうです。そんな無頓着な北斎が、唯一執着したのが長生きをすることでした。 70歳を超えても止まらない向上心  75歳になった1834(天保5)年、北斎は富嶽三十六景に続いて大作『富嶽百景(ひゃっけい)』を刊行しますが、巻末に次のような言葉を記しています。  「6歳から絵を描いてきたが、70歳前まで描いた絵はじつに取るに足らないものだった。73歳になって少しだけうまく様子を描くことができるようになった。きっと87歳になればもっと上手になり、90歳で奥義(おうぎ)をきわめ、100歳で神妙(しんみょう)の域に達するだろう。百数十歳になれば一点一格がまるで生きているがごとくに描けるはず。どうか長生きした方々は、私の予言があたったことを見てほしい」  このように北斎は絵がうまくなるため長生きを目ざし、ひたすら描き続けたのです。  あるとき北斎の弟子・露木(つゆき)為一(いいつ)が北斎の娘・阿栄(おえい)に「筆がうまく運ばない。才能がないのかもしれない」とため息をつきます。すると阿栄は笑って「父は幼いころから80歳のいまにいたるまで毎日描き続けていますが、この前、腕を組んで、私は猫一匹もきちんと描くことができないと涙を流し、嘆息しておりました。己はダメだと自らを棄てようとするときこそ、じつは上達する機会なのです」と助言しました。すると、横で娘の言葉を聞いていた北斎は「まさにその通りだ」と大きく頷いたといいます。  北斎のあくなき絵画上達への執念がわかります。晩年の北斎は肉筆画に力を入れます。83歳のときからは、門弟の高井(たかい)鴻山(こうざん)の依頼によってたびたび信濃国小布施(おぶせ)村を訪れ、娘の阿栄とともに祭屋台の天井画をはじめ、いくつもの作品を遺しました。特に88歳のときに描いた岩松院(がんしょういん)本堂の天井画「八方睨み鳳凰図(ほうおうず)」は20畳を超える大きさ。力強く鮮やかな色彩で、とても卒寿の老人が描いたとは思えない見事さです。この年には鳳凰図のほか、北斎は多くの肉筆画を描いています。  当時の北斎のことを記した手紙(戯作者の笠亭(りゅうてい)仙果(てんか)の医師・平出(ひらで)順益(じゅんえき)宛書簡)には、北斎が「眼鏡をかけず曲描きや細かな版下絵が描け、背もかがんでいなかった。春ごろには雨降りに足駄(雨天用の二枚歯の高下駄)をはき、西両国から日本橋まで行き来しても、何ともない達者であった」(永田生慈著『葛飾北斎』〈吉川弘文館〉)と記されています。  89歳の1848(弘化5)年に刊行した「絵本彩色通」の跋ばつ文ぶんには、「90歳になったらまた画風を一新し、100歳以降はこの画道を改革することだけに邁進する」と述べています。驚くべき気力の充実と、進歩への希求といえるでしょう。 好きなことをやり続けて生涯を終える  しかし、北斎も不死身ではありません。卒寿(90歳)になった年、にわかに病にかかり、薬も効かない容態となってしまいました。  医師は阿栄に向かって「老衰だから、治らない」と宣告したそうです。それ以来、阿栄のほか門人たちも入れ替わり立ち替わり献身的に看病しましたが、北斎の衰弱は激しく、ついに浅草聖天町(あさくさしょうでんちょう)の遍照院(へんじょういん)境内にある仮宅でいよいよ臨終のときを迎えます。  このおり多くの門人や友人たちが集まってきましたが、北斎は嘆息し「天があと10年、いや5年の命を長らえさせてくれたら、私は真正の画工になれたのに」と告げ、そのまま亡くなったそうです。1849(嘉永2)年4月18日未明のことでした。  辞世は「飛と魂でゆくきさんじや夏の原」  「気晴らしに、人魂になって夏の草原をゆらゆらと飛んで行こうかな」という意味で、北斎らしい粋(いき)な句です。  さて、改めて北斎が生涯現役を貫くことができた理由ですが、いま述べたように、絵を描くこと以外は何もしなかったことが大きいと思います。煩わしい人付き合いも避けました。道ばたで知人にあっても「こんにちは」、「やあ」というだけで、立ち止まって挨拶をすることはなかったそうです。ときには歩きながら法華経をとなえ続け、知人が目に入らないふりをしたともいいます。  金や権力にも無頓着でした。例えば南部藩主・津軽氏が北斎に屏風絵を描かせようと家臣を遣わしたことがあります。その家臣は北斎に5両をにぎらせて同行を求めましたが、いうことを聞きません。怒った武士は「お前を殺してこの場で腹を切る」と叫びますが、それでも北斎が首を縦にふることはありませんでした。ところが、です。それから数カ月後、北斎はふらりと南部藩邸を訪れ、屏風絵を描きはじめたそうです。  「やりたくないことは、どんなに金を積まれても脅されてもやらない。しかし気分が乗れば、喜んで筆をとる」。そうした気質が健康と長生きにつながり、結果として売れっ子絵師になることができたのだと思います。人に一切媚びたりせず、ひたすら大好きなことだけをやり続けて生きていくことができた北斎。しかも生涯現役、何ともうらやましい人生といえるでしょう。