第113回 高齢者に聞く生涯現役で働くとは  角嶋正甫さん(78歳)は、豊富な経験と高度な専門知識を活かして60歳から、医学・薬学分野を中心とする翻訳会社の翻訳者として第一線に立ち続けている。クライアントの立場に立ったサービスの提供を心がける角嶋さんが、本来の自分の力を駆使して生涯現役を目ざす喜びを語る。 アイエム翻訳サービス 株式会社 上級アドバイザー 角嶋(かくしま)正甫(まさとし)さん 新天地への旅立ち  私は神奈川県横浜市(よこはまし)で生まれました。科学の道に進みたくて、市内の高校で化学部に在籍し、実験に没頭する青春時代を過ごして、東京教育大学(現在の筑波大学)理学部化学科に進学しました。学生運動が盛んだったころなので、3年生のときにはキャンパスが機動隊に封鎖されて、近くの女子大の学生会館で授業を受けたり、サークルに参加したりした記憶もあります。  研究の世界に憧れていた私は大学院進学を目ざし、4年時に研究室の恩師からカナダ政府の教育・研究機関を紹介されました。応募したところ、幸いにも進学がかないました。  カナダでは、日本の博士号(はくしごう)にあたる学位を取得。その後、非常勤講師として学生を指導しました。カナダでの生活はとても充実していましたが、当初、学生ビザでの渡航であったため、1年ごとのビザの更新や保険料の自己負担などが必要でした。しかし、24歳のときに移民ビザに変更できる機会に恵まれ、カナダでの就労が可能になり、縁あって米国の大手製薬企業のモントリオール研究所の主任研究員に就くことができました。モントリオールはケベック州にあり、公用語はフランス語なので、終業後に週3回、フランス語を猛勉強したものです。すべてが懐かしい思い出です。  角嶋さんの語り口には、とても自然に英語が織り込まれる。日本で英語やドイツ語、ロシア語を学び、さらにカナダでフランス語を身につけた経験を持つだけあって、インタビューのときも、英語をすぐに日本語にいい直してくれた。やさしさにあふれた紳士なのである。 60歳から翻訳という世界へ  私は24歳のときに学生結婚をしました。家族も学生寮に住むことが許され、モントリオール研究所に勤めるまでは、奨学金で生活することができました。貨幣価値がいまとは異なり、1日にカナダドルで2ドルもあれば暮らすことができたのです。31歳で就職したモントリオール研究所の仕事はやりがいがあったのですが、ケベック州では母国語が英語でない両親の子弟はフランス語で学ぶという法律があり、子どもたちの将来を考えて、35歳のときに、妻と相談して帰国しました。  不思議なもので、私が岐路に立つと、いつも周りの人が支えてくれました。このときは、大学時代の恩師が、ある外資系企業の東京研究所を紹介してくれました。そこでの仕事は、微生物が産生する新規薬物の探索研究でした。しかし、企業の宿命で事業の統合や閉鎖にともなう異動を何回か経験してから、田辺製薬株式会社(現在の田辺ファーマ株式会社)の研究開発センターに移りました。そして2007(平成19)年11月に満60歳で定年退職しました。  田辺製薬に在職中は、私に外資系製薬企業での基礎研究のバックグラウンドがあることに加えて、英語が話せ、ビジネスの経験もあるので、海外企業との共同研究などの仕事を任されたこともありますが、私には若い研究者の教育をしてみたいという思いがつねにありました。  こうした自分の思いを貫きたいと考えていたときに声をかけてくださったのが、アイエム翻訳サービス株式会社の創業者・新比惠(いまひえ)智子(さとこ)社長です。新比惠社長は、田辺製薬の翻訳・学術情報支援部門に勤めておられ、私の経歴を知って、アイエム翻訳サービスに採用してくださいました。社内で行うセミナーの講師や大学の非常勤講師、製薬会社向けの英文ライティングの研修などを担当し、アカデミックな環境での充実した日々が始まりました。  アイエム翻訳サービスの設立は2016年3月。新比惠社長は創業に際し、高齢従業員が専門性を発揮して長く働けるように、高齢者雇用制度を充実させた。その取組みが評価され、2016年度「高年齢者雇用開発コンテスト※」で(独)高齢・障害・求職者雇用支援機構理事長表彰優秀賞を受賞した。 自己管理の徹底でより良い仕事を  当社は定年後再雇用の上限年齢を撤廃しています。スタッフは全員国内外の大手製薬会社や大学で研究や教育にたずさわってきた人たちばかりです。現在、翻訳や投稿論文の英文校正が私のおもな仕事ですが、医学・薬学に特化した翻訳ですから、仕事のクオリティを下げないようにするために毎日の勉強が欠かせません。  翻訳というのは個人の仕事のように思われがちですが、じつは一人ではできない仕事です。例えば日本語を英訳するとき、まず一次翻訳をしてから、2人目がバイリンガルチェックを行います。最終的に3人目によるクオリティ・コントロールをもって完結します。一つのプロジェクトを3人で仕上げるというのは国際規格に基づいたやり方です。  また、英文校正の場合は、専門分野に詳しいネイティブが担当するのですが、日本人が書いた英語の論文原稿の場合、ネイティブには理解できないことがあります。そうしたときには私がチェックをするのですが、原稿の英文を書いたクライアントは何がいいたいのかと想像する力が必要です。  このように、翻訳は共同作業です。体調管理を徹底しないと周りに迷惑をかけます。このため、コロナ禍以降はテレワーク中心で、オフィスへの出勤は月に1、2回程度。75歳からは週所定労働日数を3日にしてもらいました。最近は、年齢による衰え、フレイルを感じる場面が増えてきました。とりわけ視力の衰えは顕著で、パソコンは32インチのディスプレイを使っています。高齢者が長く働き続けるためにはフレイルを客観的に見て、早めに対策を打つことが大切だと思います。 自らのアップデートのために  科学の世界は日進月歩です。翻訳でも、専門用語が無数に出てきます。私たちはプロですから、最先端の医学・薬学の知識や用語を知っている必要があります。できるだけ医学の専門誌を読んでいますが、なかなか追いつくことができず、それが悩みです。同時に医学分野のテクノロジーの進歩や、AIの台頭など懸念事項は山積しています。ただ、物事をあまりシリアスにとらえすぎないというスタンスが、私が長く働いてこられた原動力ですから、すべてを前向きに受けとめています。心がけているのは、クライアントの立場に立ったきめ細かいサービスの提供です。  当社が創業して10年が経とうとしています。自然科学という自分の好きなものに関連した世界を歩いてこられたことはとても幸せです。学生時代から、ずっと私を支えてきてくれた家族には感謝しかありません。  人生100年時代といわれますから、私の年齢はその緒についたばかりです。無数の「知らないこと」に出会い、それを「知ることの喜び」に変えていくために、明日も新しい世界の扉を開き続けたいと思います。 ※現在の名称は「高年齢者活躍企業コンテスト」。次のページからは同コンテスト関連の連載記事ですので、ぜひご覧ください!