立川(たてかわ)談慶(だんけ)いの人生100年時代の歩き方 第3回 真の想像とは?  落語は想像の芸術です。師匠談志(だんし)が掘り起こした噺はなしで、いまはあまり口演されてはいない「幽女買い」という落語があります。  あらすじは、あってないようなものでして、要するに「死後の世界にも吉原があったら」というあくまでも妄想レベルの断片的な想像をコアにして、さまざまなギャグを盛り込んでいく落語です。弟子としてこの落語をいま受け継いでいますが、亡くなったばかりの方を登場させたり、あるいは、「死後の世界でも談志と小さん師匠はまだケンカをしている」とか、「死後の世界は何を食べても死なないから、毒料理のレストランが繁盛(はんじょう)している」など時事ネタをベースに再構築しています。  死後の世界なんて、オカルト的であります。「途中まで行って戻って来た」などという臨死体験を強く訴える人もたまにいますが、一部では話題になるものの、マジョリティにはなりません。ゆえにいくら科学が発達した現代においても可視化されることは決してありません。月の裏側や、大腸の内部などかつては見られなかった領域がどんどん見ることができるようになっているのとはとても対照的です。まして、落語の生まれた江戸時代は医学も天文学も未発達でした。いや、だからこそ「想像」ですべてを補ってきたのでしょう。  ところで、この「補う」という言葉、あらためて噛みしめてみたいと思います。辞書で調べると、「不足を満たす、埋め合わせる」と記されています。レギュラー選手を補う役として補欠選手がいたりしますが、現代のように物質的に満ち足りた暮らしが前提となってしまうと、「補う」という感覚が逓減(ていげん)してゆくのかもしれません。すべてがリアルに手に入る時代なのですから。  落語は「補う」設定ばかりです。「長屋の花見」では酒の代わりに番茶で補ったりします。卵焼きやかまぼこは、それぞれたくあんと大根の漬物で補います。「茶の湯」では「抹茶」の泡を「ムクの皮」(石鹸の代用品)で補ったりします。その最たるメンタリティが狂歌の「貧乏をすれどもこの家に風情あり質の流れに借金の山」という感覚でしょうか。  落語自体がもしかしたら、歌舞伎や芝居を補うような立ち位置に置かれていたのかもしれません。喋り言葉と身振りだけで、お客さんの想像を「補う」感じで成立しているのですから。  そんな思想的バックボーンを落語に持つ日本人だからこそ、本格的コーヒーを補うかのようにしてインスタントラーメンや、インスタントコーヒーを発明したのかもしれません。「補う」という感覚、飽食の時代に必要なのかもしれません。やはり落語はすべての根幹に根づいています。