第116回 高齢者に聞く生涯現役で働くとは  小林次男さん(75歳)は、戦後の経済復興と高度経済成長を支えてきた公益団体に入職し、定年後も嘱託職員として、多忙な日々を送る。働くことと楽しむことを車の両輪ととらえ、アクティブに人生を謳歌(おうか)する小林さんが、生涯現役で働くことの醍醐味(だいごみ)を語る。 公益財団法人 日本生産性本部 参与(さんよ) 小林(こばやし)次男(つぎお)さん 半世紀を日本生産性本部とともに  私は群馬県高崎市(たかさきし)の生まれです。高校まで地元で過ごし、大学進学のために上京しました。群馬県が設けた学生寮に入寮して、充実した4年間を過ごすことができました。学生寮の仲間とは、いまも定期的にゴルフを楽しむなど交流が続いています。若いときの友人は宝物です。  大学は商学部を卒業しました。サラリーマンの家庭で育ち、「社会貢献活動をしている組織で働きたい」と漠然と思うようになりました。大学卒業後も就職活動を続け、1975(昭和50)年に公益財団法人日本生産性本部(以下、「日本生産性本部」)に就職しました。幅広い業務内容も魅力でしたが、募集要項の「完全週休2日制」という時代を先取りする働き方に心惹かれたのも事実です。当時は、大企業でも月1回の土曜休みの会社が大半で、外資系企業でさえ隔週週休2日制があたり前の時代でした。  時代はオイルショックを乗り越え、高度経済成長の真っ只中でした。労働市場は活気にあふれ、数多くの就職先の選択肢のなかで、日本生産性本部を選んだのは「時代を先取りする空気」を感じたからだと思います。60歳での定年退職後は嘱託職員として勤務。昨年からは週3日の勤務で会員サービスの仕事にたずさわっています。同じ勤務先で長く働き続けてこられたことには感謝の念しかありません。  昨年、設立70周年を迎えた日本生産性本部は、産業界の生産性向上を支えるさまざまな分野で画期的な活動を続けている。設立当初の活動を知る人が少なくなるなかで、小林さんは、その存在意義を会員に伝えていきたいと笑顔で語る。 社会全体が活気にあふれた時代のなかで  最初に配属されたのは「社会経済国民会議」という部署でした。高度経済成長が続く一方で、公害などの環境問題も新たに生じていましたから、10年後、20年後の日本のあり方を検討する組織がつくられ、その事務局に入りました。予算管理などを担当して8年を過ごし、学ぶことがとても多く、大いに鍛えられました。  そのころ、日本における生産性の向上は世界から注目されており、通商産業省(当時)の肝いりで国際会議の開催が決定し、私はその事務局に入ることになりました。31歳のときのことです。国際会議には約1000人が参加し成功を収めましたが、会議開催の直前はいまでは考えられないほどの過重労働でした。国際会議の準備のために新卒で採用された職員の親御さんから、あまりにも残業が続くので、心配して電話がかかってきたことなどを思い出します。だれもが働きすぎていた時代でした。  「働き方改革」が進展して、日本人の働き方は大きく変わり、幸せな時代を迎えているようにみえるが、その一方で、社会に閉塞感があふれていると感じる人もいる。「そういう世の中でも、豊かさの実現を目ざしたい」という小林さんの言葉に元気をもらった。 国民生活の向上という理念のもとで  国際会議の事務局の仕事の後は、企業向けの社員研修を運営する職務に就きました。そこで8年間、新入社員研修や管理者研修を担当しました。その後、「メンタルヘルス」を推進する部署に移りました。高度経済成長時代に働き続けることに、多くの人がやりがいは感じつつも、心に疲れを感じ始めてきたころです。メンタルヘルスの問題は生産性にも大きく影響することから、国の協力を得て研究所を設立したのです。世の中には、まだメンタルヘルスという言葉もありませんでした。そこで日本生産性本部では、独自の自己診断システムを開発。自己診断の結果は本人以外には知らせないようにしてプライバシーを守りました。  日本生産性本部はこのように、その時々の問題に対峙し、必要ならば組織内組織を設立して、真摯に取り組んできました。私が大学を出たころの就職活動は、いわゆる売り手市場でしたが、僭越(せんえつ)ながら、ここを職場に選んだのは、私に先見の明があったからかもしれません。取り組む課題は時代とともに変化していっても「生産性向上による国民生活の向上」という目標がぶれることはありません。 ポジティブ思考で生涯現役を目ざして  メンタル・ヘルス研究所や生産性新聞、会員サービス部門を経て、定年までの10年間は、法人運営業務やマスコミ対応などの広報業務を担当しました。  60歳で定年を迎えたとき、第二の人生の選択肢がいろいろとありましたが、嘱託職員として継続して働くことを選びました。契約の更新を重ね、その時々の課題をクリアすれば70歳までは働かせてもらえるかと漠然と考えていましたが、75歳になるまで元気で働き続けることができたのは、私の周囲の人の支えのおかげだと思っています。  創刊70年を迎える生産性新聞の広告も担当し、70歳から5年間は、ふたたび編集も手がけました。いろいろな方の取材を通して随分勉強させてもらいました。さまざまな部署でいろいろな経験をしたことが人生を豊かにしてくれたと思っています。そして、昨年からは週3日の勤務で会員サービスの仕事をしています。企業や労働組合などの会員の窓口担当として、日本生産性本部の活動をお知らせし、理解と協力を求めています。会員を訪問することもあり、やりがいのある日々です。  定年後はアクティブに暮らしたいと思い続けてきた私は、そのためにも物ごとをつねにポジティブにとらえるよう心がけてきました。メンタルヘルスを担当しているときに出会った書籍が、ポジティブ思考の原点になったように思います。私は、働くことと楽しむことは車の両輪だと考えています。定年から15年、現役時代にはなかなか行けなかった海外旅行も実現しました。当初計画したところへはすべて行くことができました。定年前はゴルフ三昧に憧れていましたが、膝への負担が大きいことがわかり、回数を減らしました。身の丈に合った健康管理が大事だと気づき、すべてに無理をしなくなりました。生涯現役のヒントは「無理をしないこと」のような気がします。  シニア世代には現役時代につちかった豊かな経験と幅広い人脈があります。シニアの活用は、不足する人材のカバーだけではありません。シニアの収入が増えれば消費は旺盛になり、市場が活性化し、社会全体に活気が生まれます。何よりも、後に続く世代の人たちの目標ができるのです。私自身、いつまで働き続けられるかわかりませんが、これからも精一杯、仕事に向き合っていきます。  時代をつねに先取りしてきた日本生産性本部で働き続けてこられたことを誇りに、「国民生活の向上」をいつも心の片隅に置いて、生涯現役の道をもう少し歩いていこうと思います。