偉人たちのセカンドキャリア 歴史作家 河合(かわい)敦(あつし) 第2回 旧幕府軍から新政府の要職に就任 若くして始まったセカンドキャリア 榎本(えのもと)武揚(たけあき) 戊辰(ぼしん)戦争最後の舞台・箱館でセカンドキャリアがスタート  榎本武揚は、幕臣・榎本(えのもと)円兵衛(えんべえ)の次男として1836(天保7)年に生まれ、長崎の海軍伝習所で学んでオランダに留学した後、海軍奉行を経て海軍副総裁に就任しました。  鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川家は、江戸城を無条件で新政府軍に明け渡しますが、このとき武揚は旧幕府艦隊の引き渡しを拒み、1868(明治元)年7月、軍艦8隻で品川から脱走し、新政府に敵対する東北諸藩を海上から支援。その後、仙台に集結した旧幕府方の兵を乗船させ10月に蝦夷地へとわたり、全島を制圧して箱館の五稜郭を拠点に政権を打ち立てました。しかし翌年5月、上陸してきた新政府軍に敗れて降伏しました。  当初、新政府内では武揚を処刑すべきだという声が強かったのですが、新政府軍参謀として武揚と戦った黒田(くろだ)清隆(きよたか)が強く助命を主張したことで、1872(明治5)年に釈放されました。そしてなんと開拓使の官僚として新政府に雇用されたのです。開拓使は北海道開拓のためにおかれた省庁で、開拓使次官の黒田清隆が武揚を引き入れたのです。同年、武揚は箱館付近の鉱物調査のため3年ぶりに箱館を訪れました。市街の建物には弾痕も痛々しく残っていたと思われ、きっと武揚の心にさまざまな思いが去来したことでしょう。後に武揚は箱館戦争で生き残った仲間と金を出し合い、高さ8メートルの巨大な慰霊碑(碧血碑(へっけつひ))を建てました。 ロシアとの領土問題など外交で手腕を振るう  1874年正月、ロシアとの領土問題を解決するため、新政府は武揚を特命全権公使に任じペテルブルクに派遣します。幕末の日露和親条約で日露の国境は、択捉島(えとろふとう)から南を日本領、得撫島(うるっぷとう)より北をロシア領とし、樺太(からふと)(サハリン)については両国人雑居の地となっていました。  ところがその後、ロシアが樺太支配をもくろみ、囚人や軍人を送って日本人の村に圧迫を加えるようになります。日本政府は北海道の開拓だけで手一杯だったので、やむなく樺太を放棄することにしました。その交渉役としてオランダに留学経験があり、外交交渉も巧みな武揚が全権使節に任じられたのです。  渡海前、武揚は海軍中将に任命されました。海軍大将は存在しなかったので、海軍の最高位でした。日本全権としてふさわしい地位を与えたのだといいます。  交渉で武揚は樺太を放棄するといわず、あえて日露の国境を定めてほしいと主張しました。しかしロシア側は全島の領有を主張。これに妥協するかたちで武揚は、得撫島と近くの三島、ロシアの軍艦、樺太のクシュンコタンを無税の港とすることを要求したのです。最終的に、樺太を渡すかわりにロシアに「千島列島を日本領とすること。十年間のクシュンコタンの無税化。近くでの漁業権」を認めさせ、1875年5月に千島・樺太交換条約を結びました。  条約締結後、武揚はヨーロッパ各地をめぐって見聞を広げ、その後はペテルブルクでロシアの情報を調べて本国に送り、1878年に帰国します。帰国にあたって武揚は、ペテルブルクから馬車でシベリアの一万キロ以上を踏破して北海道から日本へ戻ってこようと思いたちました。  家族宛の手紙には、「日本人はロシア人を大いに恐れ、今にも北海道を襲うのではないかと言っている。そんなことは全くのデマであることを私はよく知っている。だから私はロシアのシベリア領を堂々と踏破し、その臆病を覚ましてやるのだ」といった内容が書かれています。  そして帰国旅行では、シベリアの政情、軍事、経済、文化、施設や工場、言語や自然、住人や宗教などあらゆるものを書きとめました。例えば、狼が急に現れて馬車に伴走し身の危険を感じたこと。南京虫や蚊、アブやブヨに苦しまされたこと。罪人の流刑地での悲惨な生活。蜂の巣のまま蜂蜜を食べる風習など。こうした記録は、いまとなってはたいへん貴重なものといえます。  帰国後の1879年、武揚は外交的手腕を買われて外務大輔(次官)に登用されますが、翌年には海軍卿に就任しています。さらに1882年、駐在特命全権公使となって清国に赴任。次いで伊藤(いとう)博文(ひろぶみ)が初代総理大臣として組閣した際、武揚は幕臣で唯一入閣し、逓信大臣となりました。いま述べたほかに、皇居造営御用掛、農商務大臣、文部大臣、外務大臣を務めています。このように武揚は何をやらしてもソツなくこなしてしまう万能の人でした。 61歳で政界を引退 碧血碑の前で何を思う  1891年、旧幕臣で慶應義塾の福沢(ふくざわ)諭吉(ゆきち)は、幕臣でありながら新政府の顕官になった勝海舟(かつかいしゅう)と榎本武揚を批判する論稿を書き上げ、本人たちに送りつけて意見を求めました。諭吉は、武揚が幕臣として蝦夷地で新政府に抵抗したことを評価しつつ、その後の身の処し方について「社会から身を潜めて質素に暮らすべきなのに、降伏した後に新政府に出仕して富や名誉を得た。戦死した仲間や落ちぶれた旧友に対し、慚愧(ざんぎ)の念がないのか」と批判し、「まだ遅くはないので非を改め、遁世(とんせい)すべきだ」と武揚に引退を要求したのです。  武揚はこの書を黙殺していましたが、諭吉がしつこく回答を求めたので、仕方なく「あなたの述べていることは事実と違うこともあり、私の考え方もある。しかし、いまは多忙なので後日、愚見を述べる」と返書しました。  ただ、それから6年後の1897年、武揚は政界からの引退を決意します。  原因は足尾銅山の鉱毒問題でした。鉱毒が周辺地域の農業や漁業に多大な被害を与えていました。栃木県出身の衆議院議員・田中(たなか)正造(しょうぞう)は、議会でこの問題を取り上げていました。1894年、銅山を管轄する農商務大臣になった榎本武揚は、大臣として初めて被害農民の代表と会い、現地へも視察に出向きました。そして、被害の大きさに衝撃を覚えて鉱毒調査委員会を設置します。しかし銅山側と政府高官が結託していたらしく、なかなかそれ以上の対応がむずかしく、責任を感じた武揚は大臣を辞職、以後、政府の要職から去ったのです。  政界を引退してからの武揚は、徳川育英会など14団体もの名誉会長をつとめ、精力的に会合に出席して運営にかかわったり、墨ぼく堤ていの自宅に知己を招いて旧事を談じ大杯を傾ける日々を送ったそうです。  1907年、武揚は久しぶりに函館(箱館)へ出向き、戦友が眠る碧血碑を詣でました。すでに71歳になり病気がちだったので、訪問できる最後の機会だと思ったのかもしれません。いったい碑前で何を思ったのでしょうか。  翌1908年10月27日、武揚は息を引き取りました。セカンドキャリアでは新政府の顕官となった武揚。葬儀にはそんな彼の徳を慕い8000人が会葬に訪れたといいます。