偉人たちのセカンドキャリア 歴史作家 河合(かわい)敦(あつし) 第3回 粘り強く己を磨き徳川3代に仕えたセカンドキャリア 立花(たちばな)宗茂(むねしげ) 秀吉の寵愛を受けた鎮西(ちんぜい)一≠フ猛将  立花宗茂は、九州柳川(やながわ)の戦国大名です。宗茂が関ヶ原合戦の際に西軍(石田(いしだ)三成(みつなり)方)に身を投じたのは、亡き太閤(豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし))の恩に報いるためだったといいます。  かつて宗茂は、豊後の大友(おおとも)宗麟(そうりん)の重臣でした。関ヶ原合戦から14年前の1586(天正14)年、薩摩の島津氏の大軍が大友宗麟の豊後領内へ攻めこんできました。次々と大友方の城や砦が落ち家臣たちが降伏していくなか、宗茂は攻め寄せる島津の大軍をたびたび奇襲攻撃で翻弄し、相手が撤退するのを見ると、猛追して撃破したのです。このときまだ、宗茂は二十歳でした。  援軍にきた豊臣秀吉がこの奮闘を知ると、宗茂を「鎮西一」とたたえ、翌年、筑後国柳川13万2000石を与えて独立の大名に取りたて、豊臣の直臣としたのです。  まさに大抜擢でした。それからも秀吉の寵愛をうけ、皆の前で「宗茂は本多(ほんだ)忠勝(ただかつ)(家康の重臣)と並んで東西無双の者どもだ」といったそうです。こうした厚恩をうけたので、宗茂は豊臣政権を破壊して天下を握ろうとする家康に対し、迷うことなく敵対したのでしょう。  しかし、宗茂は東軍(家康方)に寝返った京極(きょうごく)高次(たかつぐ)の大津城を攻めていたので、関ヶ原本戦には間に合いませんでした。そこで味方の敗北を知ると、すぐに大坂城へ出向いて総大将の毛利(もうり)輝元(てるもと)に抗戦を説きましたが、すげなく拒まれてしまいました。このため仕方なく、海路で柳川へ戻って籠城の準備を整えました。しかし東軍の大軍に包囲され、到底かなわないと判断して降伏しました。  宗茂には改易(取り潰し)という厳しい処分がくだされました。  宗茂が柳川城から去る際、領民たちが集まって行く手をふさぎ、「出ていく必要はございません。私たちが命を捨てる気持ちは、あなたの家臣と変わりありません。どうぞ城にお残りください」と哀願したといいます。すると宗茂はわざわざ馬から下り、領民に礼を述べ、「柳川の支配は今後も変わりないので安心せよ。お前たちがこのようなことをすれば、却って私のためにならぬ。さあ、帰るのだ」と説得しました。この言葉に農民たちは声をあげて泣いたといいます。宗茂が領民に慕われていたことがよくわかる逸話です。  こうして戦国大名としての宗茂のキャリアは終わりを告げました。 さまざまなスキルの習得を経て大名として復活を遂げる  宗茂はその後、旧臣の多くを熊本城主の加藤(かとう)清正(きよまさ)に預け、わずかな供回りを連れて上方へのぼりました。徳川家に御家再興を求めるためでした。じつは宗茂は、立花家の養子でした。自分の代で家を潰してしまったことに後悔し、どうしても再び大名に返り咲きたいと考えたのです。しかし、家康からよい返事がもらえないまま1年、2年と時間だけが過ぎていき、宗茂が上方に滞留している間、立花家中の分裂・崩壊が進み、家臣たちのほとんどは他家へ仕官してしまいました。  同じく西軍に加担した長宗我部(ちょうそかべ)盛親(もりちか)などは御家再興をあきらめ、寺子屋の師匠になりました。しかし宗茂はあきらめきれず、家康にアプローチし続けました。ただ、宗茂の偉さは、そうした活動の余暇を利用して己のスキルを向上させていったことです。訓練に励んで弓術の免許を獲得したり、妙心寺の了堂宗歇(りょうどそうけつ)に帰依して禅の修行にも励んだりしました。連歌や茶道、香道、蹴鞠、狂言などに通じていたことも判明しており、そうした文芸に磨きをかけたのも、おそらくこの時期だったと考えられます。  自暴自棄にならず、心身の鍛練に励んだ宗茂、結果としてそれが自身の才能に磨きをかけ、のちに将軍秀忠や家光の信頼を勝ち得ることになっていくのです。  1606(慶長11)年の夏、宗茂は江戸へ向かいました。家康の命令でした。宗茂は将軍秀忠の直臣(大番頭)として5000石で仕えることになったのです。かつて倒そうとした徳川家に再就職したわけです。同世代の秀忠は宗茂を大いに気に入り、それからまもなく5000石を加増し、棚倉(たなくら)(福島県棚倉町)1万石の地を与えました。  そうです、ついに宗茂は、大名(1万石以上の武士)として復活を遂げたのです。なんと、関ヶ原合戦から足かけ6年の月日が過ぎていました。その後宗茂は、秀忠の信頼を得て慶長15年までに漸次加増され、領地は3万石に増えました。すると、立花家の旧臣たちが次第に宗茂のもとに戻ってきました。 73歳で出陣 徳川家の信頼厚い名参謀  大坂夏の陣で宗茂は将軍秀忠に従って上洛し、秀忠に近侍して参謀として大いに活躍しました。1620(元和6)年、田中(たなか)忠政(ただまさ)が死去しました。忠政の田中家は、宗茂に代わって柳川城に入った大名家です。ただ、忠政が嗣子なくして没したため、田中家は改易となりました。これにかわって柳川城主となったのが、なんと宗茂だったのです。そう、旧領に復帰できたのです。しかも石高は約11万石。3万石の大名から一気に4倍に領地はふくれあがり、ほぼ、関ヶ原合戦以前と同じ規模になったのです。関ヶ原合戦で改易された大名は90家以上。そのうち大名に復活し、旧領を取り戻した人物は宗茂ただ一人でした。翌年2月、宗茂は旧領へ下向し、20年ぶりになつかしき柳川城に入りました。城は田中氏の大規模改修によって変貌していましたが、城下から眺める景色は昔のままだったはずです。その風景を目にした宗茂は、これまでの苦労を思い感無量だったことでしょう。  宗茂はかつて城を出ていく際、泣いて止めてくれた領民たちを呼び出し、一人ひとりに声をかけたと伝えられます。  それからの宗茂は3代将軍家光にも実父のように敬愛され、外出の際、家光は老齢の宗茂にたびたび供を命じるほどでした。また、その智将ぶりをかわれ、島原の乱が起こると、73歳の高齢にもかかわらず参謀として出陣しています。そしてそれから4年後の1643(寛永19)年11月25日、宗茂は江戸において76年の生涯を閉じました。当時としては大往生でした。  以上、立花宗茂のセカンドキャリアをみてきましたが、失領した宗茂が旧領を取り戻せた最大の理由は、諦めなかったことにあると思います。大名に復帰するまで6年の歳月を費やしており、すべてをなくし浪人となった宗茂には、非常に長い時間でした。どんなに文武に秀でた人格者であっても、もし宗茂に粘り強さが足りなかったら大名に復帰できなかったはず。ただひたすらに耐え、己を磨いて時を待ったからこそ、幸運の女神がほほえんだのです。