偉人たちのセカンドキャリア 歴史作家 河合(かわい)敦(あつし) 第4回 生涯現役で朝廷を支えた政治家 吉備(きびの)真備(まきび) 遣唐留学生の経験を経て 地方役人から国政へ  吉備真備は、日本史(日本史探究)の教科書すべてに掲載されている最重要人物です。奈良時代に唐(中国)に渡り、帰国後は朝廷で大きな活躍をした政治家です。  真備は、備中(びっちゅう)国(岡山県)の下級役人(下道国勝(しもつみちのくにかつ))の子として生まれましたが、たいへん優秀だったので遣唐留学生に選ばれ、17年の長きにわたって唐で学びました。最新の学問知識をおさめるだけでなく、帰国の際に貴重な書籍や楽器、武器などを大量に持ち帰ったので、正六位上を与えられ大学寮の大学助につきました。大学寮は中央の官吏養成機関、大学助は大学の副学長のような職です。その後、従五位下に昇進します。従五位以上は貴族に分類されるので、地方役人の子としては異例の出世といえるでしょう。そして以後は、橘(たちばなの)諸兄(もろえ)政権のブレーンとして活躍するようになりました。740(天平12)年、藤ふじ原わらの広ひろ嗣つぐが吉備真備などの排除を求めて九州で反乱を起こしていることからも、真備の政治力がわかります。  翌741年、真備は皇太子・阿倍(あべ)内親王の東宮学士、いわゆる教育係となり、彼女に『礼記』や『漢書』などを講じ、帝王としてのノウハウを伝授しました。跡継ぎの教育を任せるほど、時の聖武(しょうむ)天皇は真備を信頼していたわけです。743年には春宮大夫(とうぐうのだいぶ)(皇太子の家政機関をつかさどる職)になります。こうした功績を評価され、749(天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元)年に阿倍内親王が即位して孝謙(こうけん)天皇となると、従四位上に叙されています。 50代で左遷され再び中国へ  ところが、です。それからわずか半年後、真備は九州の国守として左遷されてしまいました。さらに翌年11月、なんと遣唐副使に任命されたのです。17年間も遠く離れた異国の地(唐)で苦学してきたのに、50代後半(当時は老齢)になって、またも唐へ行けというのはあまりにひどい話です。当時の航海はたいへんな危険をともなうもので、途中で遭難して日本にもどって来られない遣唐使船も少なくありませんでした。  しかも、遣唐大使の藤原(ふじわらの)清河(きよかわ)の身分は従四位下。つまり、副使の真備より位階が低かったのです。そういった意味では、屈辱的なあつかいを受けたといえるでしょう。  こうした真備の失脚劇は、藤原(ふじわらの)仲麻呂(なかまろ)の策略だったと考えられています。このころ、政界では橘諸兄が力を失い、光明(こうみょう)皇太后(聖武天皇の皇后)の後ろ盾を得た仲麻呂が台頭してきました。仲麻呂は孝謙天皇が敬愛する真備を危険視し、中央政府から遠ざけたのでしょう。  753年冬、真備は無事に唐の都・長安に入って玄宗(げんそう)皇帝に謁見、翌年どうにか帰国することができました。しかし、その後も厳しい現実が待ちうけていました。  大役を果たしても位階は上がらず、それどころか、帰国してすぐに大宰大弐に任命されたのです。大宰府は博多の近くにある迎賓館兼役所で、大弐はその責任者。つまり、またも九州に飛ばされてしまったわけです。しかも、その在職期間は9年の長きにわたりました。このように、仲麻呂に恐れられた結果、悲惨な晩年をおくることになったのです。  ただ、ちょうどこのころ、日本と新羅(しらぎ)(朝鮮の国家)の関係が悪化し、仲麻呂は新羅征伐を計画するようになります。このとき仲麻呂の命令で遠征計画を立てたのが真備でした。海外事情に精通し、兵法や築城術にくわしかったからです。真備は詳細な遠征計画を立てるとともに、甲冑などの武器製造を開始、同時に新羅軍から九州を防衛するため怡土(いと)城を築城しました。しかし結局、遠征は中止されました。 若いころからの学びを活かし70代まで国政の最前線へ  764(天平宝字(てんぴょうほうじ)8)年、真備は70歳をむかえます。当時としてはたいへんな高齢で、体調も思わしくないので朝廷に辞表を提出しました。引退を考えたのです。しかし、それが受理される前に、造東大寺司(ぞうとうだいじし)に抜擢されて平城京に戻ることになりました。このころ、仲麻呂と孝謙上皇の関係が悪化していたので、おそらく孝謙上皇が敬愛する真備を呼びもどしたのでしょう。けれど、帰洛しても真備はすぐに出仕せず、しばらく療養生活をおくっていたようです。慎重に当時の政治状況を見極めようとしていたのかもしれません。  この間、政変がおこったのです。  孝謙上皇の寵愛する道鏡(どうきょう)に実権をうばわれそうになったので、仲麻呂が挙兵したのです(恵美押勝(えみのおしかつ)の乱)。このとき老齢だったにもかかわらず、真備は己の軍事知識を総動員して乱の平定に動きました。  『続日本紀』には、「大臣(吉備真備)、その(仲麻呂が)必ず走らむ(逃亡する)ことを計りて(予測して)、兵を分けこれ(仲麻呂軍)を遮る。指麾(しき)(指揮)部分、はなはだ籌略(ちゅうりゃく)(謀や計略)あり。賊(仲麻呂軍)ついに謀中(策略)におちいり、旬日にして悉く平ぐ(平定された)」とあります。  つまり、仲麻呂の逃走経路を想定して軍を二手にわけ、挟撃して倒すという作戦を立てたのです。こうして仲麻呂は追い詰められ、敗死しました。  この働きが評価され、真備は従三位に叙され、参議(太政官の議政官)中衛大将(武官の高官)にのぼりました。地方役人出身の真備にとって、異例の栄達でした。さらにその後、大納言に昇進します。いまでいえば閣僚クラスの役職です。  このように、壮年期は橘諸兄政権のもとで政治力をふるった真備ですが、50歳を過ぎてその存在を危険視され、長年不遇の生活をおくることになりました。しかし、それにめげずに腐らず、己の職務を淡々とこなし、ここぞというときにすばやい行動に出て、70歳を過ぎてから再び返り咲いたのです。それが可能だったのは、若いときに獲得した兵学などの知識やスキルのおかげでした。  閣僚となった真備は、朝廷に申請して民の直訴制度を設けます。中壬生門に二本の柱を立て、一本の柱前では役人たちの圧政に対する直訴、もう一本の前では無実の罪を負わされた者の訴えを聞いたといいます。これによって役人の綱紀をただし、民をしいたげることのないようにしたのです。  766(天平神護(てんぴょうじんご)2)年、真備は正二位を与えられ、右大臣となりました。いまでいえば副首相の地位にあたります。すでに72歳になっていましたが、在職中は律令(法律)の改定などに力を注ぎました。その後、老齢ゆえに引退を申し出ますが、なかなか認められず、ようやく許可が出たのは77歳のときのことでした。そしてそれから4年後、真備は81歳で生涯を閉じました。