加齢による身体機能の変化と安全・健康対策  高齢従業員が安心・安全に働ける職場環境を整備していくうえでは、加齢による身体機能の変化などによる労働災害の発生や健康上のリスクを無視することはできません。そこで本連載では、加齢により身体機能がどう変化し、どんなリスクが生じるのか、毎回テーマを定め、専門家に解説していただきます。第4回のテーマは「歯・口腔の健康」です。 北海道大学 大学院歯学研究院 口腔健康科学分野 高齢者歯科学 教室 准教授 渡邊(わたなべ)裕(ゆたか) 第4回 加齢による“歯・口腔”への影響と対策のポイント 1 加齢による歯・口腔への影響  1990(平成2)年の日本人の平均寿命は男性75.9歳、女性81.9歳で、2023(令和5)年の日本人の平均寿命は男性81.1歳、女性87.1歳となりました※。つまりこの34年で男女とも約5年延伸し、高齢化率も12.1%から29.3%と約2.7倍に急伸したことになります。歯科においても80歳で20本の自分の歯を有する者(8020達成者)は1993年の10.9%から2022年には51.6%と5倍近くに増加しています。平均寿命に相当する85歳以上の高齢者においても、20本以上自分の歯を有する者の割合は、2011(平成23)年17.0%、2016年25.7%、2022年38.1%と急増しており、また、むし歯や歯周病などで歯を失っても、歯科インプラント(人工の歯)で補われることも多くなってきています。つまり日本の高齢者は相当数の歯を有したまま、生涯をまっとうできる時代になりました(図表1)。  2022年に行われた歯科疾患実態調査(厚生労働省)でむし歯をもつ者(治療した歯を含む)の割合は、40歳〜69歳までは97%を超えており、これはむし歯に罹患したことがない者はほとんどいないことを示していますが、裏を返せば、治療すればずっと自分の歯を使っていけるということでもあります。中年期以降は家庭や職場、地域などにおける役割の増加によって生活習慣が不規則になりがちで、歯や口の健康へのリテラシー(健康や医療に関する情報を正しく入手し、理解して活用する能力)も低下する者が散見されるようになり、口の中の環境の悪化も相まってむし歯や歯周病が徐々に進行しやすくなります。  中年期以降で歯を失うおもな原因である歯周病は、歯肉からの出血に始まり、歯が動揺するようになり、やがて噛んだときに痛みを生じるようになるなど重度化するまで症状が出にくいため歯科受診が遅れ、抜歯となってしまうケースも少なくありません。しかし、現在高校卒業後は歯科健診は義務づけられておらず、早期治療や定期健診などの受診行動は、個人の健康認識に委ねられているのが現状です。  高齢期以降では、退職などにより生活環境に大きな変化が生じ、身体機能の低下や疾病の罹患によって、歯や口の健康へのリテラシーがさらに低下し、職場近くの歯科医院で行っていた定期的な歯科受診も中断してしまう者も多くなってきて、さらに口の中の環境は悪化してくるため、むし歯や歯周病が急速に進行しやすくなります。  歯周病と関連する生活習慣病には糖尿病や高血圧症などがあります。生活習慣病とは、食事や運動の習慣、喫煙・飲酒・睡眠といったさまざまな日々の習慣が発症や進行に関与する疾患群です。中年期以降ではこれら生活習慣は悪化しやすく、生活習慣病も発症・重度化する可能性が高くなり、それにともない歯周病も急速に悪化します。  特に糖尿病は歯周病と関連が深く、糖尿病を有する歯周病患者に対する歯周病の治療は糖尿病の重症度の指標の一つであるHbA1cの改善に有効であることが明らかになっています。中年期以降では毎日の口腔清掃の不良、食事をあまり噛まずに飲み込む、喫煙、過度の飲酒等の生活習慣の悪影響が大きいことから、これら生活習慣を改善することで、糖尿病、歯周病ともによい効果が得られることが多くあります。 2 加齢と歯・口腔の病気 (1)むし歯  むし歯は口の中の細菌により歯が溶かされる感染症です。むし歯は口の中の細菌と、食事による糖分や粘着性の食品の摂取とその頻度、歯の質、歯並び、唾液の量や質、健康状態、生活習慣などが複雑に関連し発症します。特に中年期以降になると、歯周病により歯肉が退縮し、露出した歯の根に生じるむし歯が増加します。この根面のむし歯は進行が早く、歯の土台である根が急速に侵されて、歯を失う原因となるため、早期に治療する必要があります(写真1)。また、歯の治療でつめたり、被せたりした修復物と歯の隙間に生じる二次むし歯も増加してきます。これは修復物が多くなり口腔清掃がむずかしくなることと、修復物と歯の隙間が歯に加わる温度差(口の中には熱いものや冷たい飲食物が入るため)や噛む力によって徐々に広がり、細菌が侵入することで生じます。二次むし歯は修復物で隠れた部分で進行するので、初期では見つけにくく、明らかに黒くなったり、欠けたりしたときにはかなり進行していることが多いので、定期的に歯科医院でチェックしてもらい、早期に発見し治療しないと歯を失う可能性が高くなります。 (2)歯周病  歯周病は口の中の細菌により歯肉炎が生じ、歯を支える骨が溶かされる感染症です。加齢とともに、歯の周囲に歯周ポケットが形成され、その中で歯周病原菌が増殖することで歯肉炎が生じます。重症化すると歯肉から出血するようになり、歯を支える骨が高度に溶かされると歯の動揺が生じ、噛むと痛みが生じるようになります。歯周病の直接的原因は歯周病原菌ですが、歯並びの悪さや歯ぎしり、喫煙、服薬内容、生活習慣病などの全身疾患がその発症や重症化に関連しています。  歯周病の予防には、歯周ポケット内の歯周病原菌を毎日の口腔清掃と定期的な歯科治療で除去することが重要です。歯科医院でほかの関連因子の影響を少なくする生活習慣に関する指導を受け、改善することも重要です。特に中年期以降では、歯並びの悪化や歯肉の退縮、治療済みの歯の増加など、口の中は複雑になり、口腔清掃は困難になります。そのため、毎日の口腔清掃で使用する歯ブラシ以外の歯間ブラシやデンタルフロス(糸ようじ)などの補助的清掃用具や歯磨き粉、含嗽剤(がんそうざい)などを歯科医師、歯科衛生士の評価と指導のもと個人個人で最適化していくことが重要です。 (3)歯の破折と咬耗(こうもう)、摩耗  高齢期になると噛む力などによって、歯が破折することが多くなってきます。特に神経を抜いた歯や、被せ物や詰め物など歯の治療を受けた歯は脆く、破折しやすい状態になっています。これは、歯の欠損や移動によって特定の歯だけに噛む力が加わったり、歯はだんだんと摩耗していきますが、金属の詰め物はあまり摩耗しないため、強い力がかかりやすくなるからです(写真2)。  また、加齢により歯は酸蝕、咬耗、摩耗などによって知覚過敏や噛む能力の障害、審美障害が生じることがあります。酸蝕は歯が酸によって化学的に溶解されること、咬耗は歯と歯の接触によりすり減ること、摩耗は歯以外の物理的な力によりすり減ることです。これらは酸性の強い食品の摂取や胃食道逆流症、歯ぎしり、不適切な口腔清掃、習癖などによって生じます。歯がしみる、噛むと痛む、歯が変色してきたなどがあれば、歯科医師に相談しましょう。 (4)口の機能低下  口には食べる、話す、感情を表す、呼吸するなど多くの機能があり、これら機能は生活に欠くことのできない機能です。これら機能には歯や歯の周りの組織、顎の骨や関節、唾液腺、口の内外の筋肉、舌などの多くの組織、神経が協調して働く必要があります。生活環境の変化や、加齢による身体と精神(心)の生理的および病的変化によりこれらは老化し、口の機能は低下します。  歯を失うと食べ物を細かく砕き、すり潰す能力が大きく低下します。食べ物を細かく刻んだり、すり潰したりすればよいと思われるかもしれませんが、噛んだときの食感や風味などを感じることができなくなり、食事の楽しみが損なわれます。また味覚も低下します。味覚は食物が砕かれ、すり潰されるときに食物から溶けだした味物質が唾液と混ざり合い、舌などの表面にある味のセンサーに触れることで感じます。細かく刻んだり、すり潰したりすることで、センサーに触れる味物質のバリエーションは少なくなり(砕き、すり潰す過程での、味の変化を知覚できないなど)、短い時間しか味を感じることができないため、食事の楽しさが大きく損なわれることになります。歯を失わないよう、口の状態にあわせた毎日の口腔清掃と定期的な歯科医院でのチェックを継続していきましょう。  話す機能は肺からの呼気で声帯を振動させて音をつくり、その音が口や鼻へ抜けるときに、下顎の開閉や口唇、舌そして軟口蓋の形を変えることでさまざまな音をつくり出す機能です。高齢期になると、話す機会が激減し、意欲の低下、口の内外の筋肉や神経の機能の低下により、話す機能は低下します。滑舌が悪くなり、何度も聞き返されたりすると、話すことがいやになって、話す機会が減り、さらに話す機能が低下するという悪循環が生じます。また、話すことは、相手に配慮しながら、思考をめぐらせ、記憶を呼び覚まし、次に何を話すか考えるなど、とても頭を使う機能であり、認知機能の維持にもつながります。歯並びが悪かったり、口臭が気になるなどで、話すことを避けたり、あまり口を動かさずに、ぼそぼそと話したりしないよう、毎日の生活のなかで、積極的に話すこと、口をしっかり動かすことを意識することが大切です。高齢期になると脳の老化により感情を表す機能も低下します。これは歯の喪失や口の周りの筋肉や皮膚の老化により動きが乏しくなるからです。できるだけ人と会う機会をつくって楽しい会話を楽しむようにしましょう。  口の機能の低下は、食事や体調に影響を与え、快適な生活を損なうおそれがあります。歯科で、むし歯や歯周病に対する治療を受けるとともに、口の機能の評価とトレーニングを受け、食事や生活の維持改善を続けていくことが重要です。 (5)口腔粘膜疾患 @口腔乾燥症  口腔乾燥症とは自覚的な口腔乾燥感または他覚的な口腔乾燥所見( 唾液の量的減少と唾液の質的変化を含む) を認める症候と定義されており、「唾液分泌量の減少あるいは分泌唾液の質の変化があるもの」と「唾液分泌量の減少と分泌唾液の質的変化のいずれもないもの」に分類されます。前者には、シェーグレン症候群(自己免疫疾患)、唾液腺疾患、精神的ストレスや薬剤の副作用などによるものが、後者には口呼吸や心因性などによるものが含まれます。原因に応じて、薬物療法、口腔保湿剤や唾液腺マッサージなどの対症療法を行います。糖尿病、加齢、放射線治療、口呼吸なども原因となり口や喉が乾く、むし歯の多発、噛んだり飲んだりすることが困難、食塊形成不良(食べ物が口の中でまとまらず、なかなか飲み込めないなど)、味覚異常などが生じ、食事や会話など口の機能を障害します。  口や喉の渇きが気になるようであれば、医師・歯科医師に相談しましょう。 A口腔カンジダ症  カンジダ菌(カビの一種)の感染によって生じる感染症です。高齢者や免疫力が低下した者など、感染防御機能の低下にともない引き起こされます。加齢、ステロイドや免疫抑制剤の使用、がん、抗がん剤による治療、唾液量低下、義歯の清掃不良なども誘因となります。  白い偽膜が粘膜表面に付着するもの(写真3)、口の粘膜が萎縮したり、赤くなったりするもの、口の粘膜が硬く肥厚するもの、ヒリヒリと痛むものなどさまざまな症状があります。治療は口腔清掃の徹底と抗真菌薬を使用します。放置すると治りにくく、くり返すようになるので、早期に治療する必要があります。 ※ 厚生労働省「令和5年簡易生命表の概況」 図表1 20本以上自分の歯を有する者の割合の推移 1993年 8020達成者10.9% 85歳以上2.8% 1999年 8020達成者15.3% 85歳以上4.5% 2005年 8020達成者24.1% 85歳以上8.3% 2011年 8020達成者38.3% 85歳以上17.0% 2016年 8020達成者51.2% 85歳以上25.7% 2022年 8020達成者51.6% 85歳以上38.1% 出典:厚生労働省「令和4年歯科疾患実態調査」(2023年) 写真のキャプション 写真1 根面のむし歯 ※写真提供:北海道大学 大学院歯学研究院 口腔健康科学分野 高齢者歯科学教室 写真2 咬耗 咬耗した歯 ※写真提供:北海道大学 大学院歯学研究院 口腔健康科学分野 高齢者歯科学教室 写真3 口腔カンジダ症 白い偽膜 ※写真提供:北海道大学 大学院歯学研究院 口腔健康科学分野 高齢者歯科学教室