第94回 高齢者に聞く生涯現役で働くとは 日本綜合警備株式会社 交通誘導警備員 上野(うえの)敏夫(としお)さん  上野敏夫さん(87歳)は、交通誘導警備員としていまも現場に立ち続けている。かつては長く縫製の仕事をしていたが、それまでまったく縁のなかった警備の世界に入って27年が過ぎた。そのパワフルな働きぶりはマスコミでも紹介され、いまや時の人となった上野さんが、生涯現役の極意を語る。 縫製の仕事に没頭した日々  私は群馬県で生まれました。生家は農業と林業を兼業しており、農業といっても自分たちで食べる程度の規模でしたから、白米は6割であとは麦とサツマイモで空腹を満たしました。5人兄弟の長男で本来なら家の仕事を継ぐところですが、ありがたいことに高校に通わせてもらえました。当時、高校まで進めたのは同級生の1割程度でしたから、進学させてもらったことに感謝しながら自転車で1時間かけて通学しました。  20歳のとき、東京都小平(こだいら)市で縫製の仕事をしていた叔母を頼って上京。その少し前に家内と出会ったのですが、周囲に結婚を許してもらえず、駆け落ち同然で郷里を出ました。とにかく二人分を稼がなければならないので叔母の縫製工場で一生懸命働きました。  縫製の技術は見よう見まねで覚えました。がんばって働き続けたかいあって、十年後には独立して、自分の工場を持つことができました。おもに子ども服や当時の女性の定番であったプリーツスカートを縫製しました。そのころ売り出し中の著名なデザイナーから注文をもらったこともありますし、航空会社の制服も手がけました。当社の洋服が銀座通りの店に飾られたこともあり、おもしろいようにお金が稼げた時代でした。  「駆け落ち」という言葉を久しぶりに聞いた。その話をするときの上野さんは、少年のようにはにかんだ。高齢の交通誘導警備員としてマスコミから熱い視線を浴びる上野さんの魅力はこの笑顔にあるに違いない。 人生下り坂でも前を向いて  いま思えば、私は人生を少し甘く見ていたかもしれません。とにかくおもしろいように儲かって、1970(昭和45)年開催の大阪万博には職人全員を引き連れて出かけたものです。豪勢な社員旅行でした。私自身このころは、家事や育児は家内に任せっぱなしで、週に1回はゴルフ場に通うなど勝手し放題。毎日午前様を気どっていました。  しかし、バブルはやがてはじけます。あっという間に業績が悪化して、59歳で会社をたたむことになりました。残ったのは家と工場のローンだけでした。人生というものは下り坂になれば本当に速いです。家族が食べていくために次の仕事を求めて公共職業安定所(ハローワーク)に通いましたが、60歳目前では簡単に仕事は見つかりませんでした。専業主婦だった家内は野菜を扱う市場で働き始めてくれました。幸いにも、そのころ警備業界が人手不足で高齢者でも募集があることを知り、すぐに応募したところ採用してもらいました。自宅から近いところに会社があることにも縁を感じました。縁がつながり、気がつけば、もう27年間お世話になっています。  上野さんが60歳で第二の人生のスタートを切った日本綜合警備株式会社は、1977年の創業以来、質の高い「安全の実現」を合言葉に業容を拡大してきた。「創業者は厳しいが面倒見のよい人だったからいまがある」と上野さんは語る。 交通誘導警備員という仕事に誇りをもって  私に与えられたのは交通誘導警備員という仕事でした。年齢に関係なく働ける職場はありがたかったのですが、いざ働いてみると、想像以上にたいへんな仕事でした。交通誘導警備とは、建設現場などに機材や資材を搬入する際、一般の通行者と作業員の安全を確保し、円滑な交通整理を行い、工事がスムーズに進行するようサポートするものです。研修を終えて現場に出たものの、最初のうちは車の誘導がなかなかうまくできなくて、叱られてばかりいました。猛暑のなか、あるいは雨が激しく降る日でも紅白の旗を手に持ち、朝から晩まで立ち続けなければならない激務ですが、通行者や作業者の安全を守っているという誇りが支えになりました。  体力勝負ですから、私の生活スタイルも次第に変わっていきました。晩酌をやめ、煙草もきっぱりやめました。  勤め始めて10年が経ったとき、家内に肝硬変が見つかりました。余命4年を告げられながら7年間の闘病ののち他界しました。若くして駆け落ち同然で郷里を飛び出してから苦労のかけっぱなしでした。新しい職場に早く慣れなければと、自分のことに夢中で、会社をたたんでからずっと青物市場で早朝から働き続けてくれた家内を思いやる余裕がなかったことが、いまも悔やまれてなりません。 いつまでも旗を振り続けることを夢見て  一人暮らしになって初めて家内のありがたみを知りました。不思議なもので「感謝」ということをつねに考えるようになり、自然に仕事の場面で活かされていきました。ドライバーに赤旗を振って止まってもらうとき、「止まれ」ではなく「止まっていただけますか」というお願いの気持ちをこめるようにしたのです。そして、止まってくれたときと発車のとき、いつも2回お辞儀するようになりました。感謝の気持ちというものは必ず通じるようです。すべて家内に教わりました。  通行されるみなさんには、わかりやすい言葉で話しかけるように心がけています。特にお年寄りにはていねいに。私のほうが年上だったりしますけれど、笑顔を添えて話しかけています。子どもたちはとても率直で「おじちゃん、ありがとう。これからもがんばってね」などと声をかけられると本当に天にも昇るような心地になります。安全を守るという仕事に就いている喜びがここにあります。  身体が丈夫なのが自慢でしたが、3年前に大動脈解離が見つかってからは、勤務時間を短縮させてもらっています。健康診断で異常が見つかったのは幸いでした。身体の3カ所に人工血管が入っています。不整脈も見つかったので、いまは週末と水曜日が休みの週4日勤務です。  勤務のある日は5時に起床し、弁当をつくって6時半には家を出て現場に向かいます。ここ30年間ほど朝食は摂っていません。そのほうが私は体調がよいのです。昼休みは1時間もらえるので、弁当を食べたら少し仮眠をとるようにしています。自分に合ったリズムが健康には一番だと思っています。  仕事から帰って真っ先にやることは旗の洗濯です。薄汚れた旗を振っているのをだれかに見られたら、私というよりは会社、さらには業界全体のイメージが悪くなってしまいます。この年になるまで働かせてもらっている会社や業界に、少しはお役に立ちたいと思っています。  叶うならば生涯現役で旗を振りながらパタッと死んで、家内のところに行きたい。ちょっとカッコよすぎるでしょうか。