Leaders Talk No.113 歯の健康は働く意欲の源 地域の歯科医療を全力でサポート 針ヶ谷歯科醫院 院長 針ヶ谷光正さん はりがや・みつまさ 1993(平成5)年に東京都大田区に針ヶ谷歯科醫院を開業。当時は珍しかった夜間・土日祝日診療を行うなど、患者視点での歯科経営を実践。大森歯科医師会部会長、大田区の介護認定審査会委員のほか、近隣の学校の校医を務めるなど、さまざまな形で地域に貢献している。  生涯現役時代を迎え、高齢者が活き活きと働き、活躍していくために心がけたいのが「歯の健康」です。歯の健康を損なうことは、食事に影響を及ぼすだけでなく、さまざまな病気を引き起こす要因となる場合もあります。  今回は、町の歯科医として、60歳を超えたいまも現役で活躍中の針ヶ谷光正さんにご登場いただき、歯の健康の秘訣や、地域に貢献する歯科医としての思いなどについて、お話をうかがいました。 生まれ育った地域社会への恩返しのため夜間・土日祝日診療の歯科医院を開業 ―針ヶ谷先生は、東京都大田区の大森で歯科医院を開業され、平日の夜間診療や土日祝日の診療も行うなど、地域の歯科医療に積極的に取り組んでおられます。大森で開業するきっかけとは何だったのでしょうか。 針ヶ谷 私は生まれも育ちも大森なのです。地元の小学校・中学校を卒業し、裕福な家庭ではなかったので、高校・大学もずっと国公立でした。大学で6年間勉強し、すぐに勤務医として働き始めました。卒業後は医局に残り、研究者を目ざす人が多く、私も残りたかったのですが、経済的に厳しかったので働く道を選びました。7年間勤め、1993(平成5)年、33歳のときに大森で開業しました。開業の手続きや歯科医師会の入会など、何も知らないなかでの開業だったことに加え、開業の1年前に父が亡くなり、私自身も開業準備中に胆石の手術で入院するなど、たいへんなスタートになりました。  大森を選んだのは、生まれ育った地元に愛着があったからです。夜9時まで、土日祝日も診療するという方針は、開業前から決めていました。私は、会社を経営するうえで重要な要素が二つあると考えています。一つは地域社会に貢献すること、もう一つは従業員の家族も含めて従業員を幸せにすることです。私の場合は大森のみなさんに育ててもらい、そして国公立の学校で学び、歯科医にしてもらいました。私立大学で学び医師になるには、6年間で5000万円の学費が必要といわれますが、当時の国立大学の学費は年間15万円。その恩義を返していくためにも、地域社会へ貢献したいと思っています。だからこそ、患者さんの利便性を考え、夜間・土日祝日も診療し、地域の歯科医療に全力で取り組んでいこうと開業前から考えていました。 ―夜間・土日診療は、当時は珍しかったでしょうね。患者さんも喜ばれたと思います。 針ヶ谷 周りの歯科医師からは批判的な声もありました。「あまり派手にやらないでくれ」と直接いわれたこともあります。でも患者さんには喜ばれました。帰り際に玄関扉の前から、治療室にいる私に聞こえるように、「ありがとうございました」と大声でいってくれる人もいます。本当にうれしいですし、励みになります。言葉だけではなく、飲食物などの差し入れをいただく機会もたくさんあります。病院は新規の患者さんも大切ですが、「再診の人数が多い医院が、よいクリニック」といわれています。ありがたいことに、当院の再診率は非常に高いのです。 ―先生は60歳を超えたいまもご活躍されています。その秘訣とは何でしょう。 針ヶ谷 私は、体が動くうちは働いたほうがよいと思っています。「早期リタイアして趣味に生きる」という人もいますが、毎日を趣味に費やすのも限界があるし、しばらく休むと仕事をしたくなるものです。人間の本能には食欲、睡眠欲、性欲の三つがあるといわれますが、もう一つ、「人の役に立ちたい」という貢献欲もあると思います。若いときはそうでもないですが、年をとると「何かしら人の役に立ちたい」という思いがふつふつと湧いてくるのです。患者さんのなかには、「最近、寝たきりの人にお弁当を届けるボランティアを始めた」と、楽しく話す人がいます。「だれかの役に立つ」という行為が、自分自身の満足感や充実感にもつながっていると思うのです。  仕事を通して地域や社会に貢献していくためにも、健康が重要であり、特に歯は非常に大切です。高齢者の「齢」の字にも歯が入っていますが、歯が丈夫であることは何より重要なのです。歯が丈夫ということは、「しっかりと噛める」ということ。口は命の糧が入るところですが、噛めなければ固形物をそのまま飲み込むことになり、そうなれば胃だけではなく膵臓、肝臓、腎臓などの臓器に過重な負担がかかり、必ず大きな病気の原因になります。  しっかり噛めば噛むほど脳が活性化し、認知症の予防になるともいわれています。また、噛むことで耳の下の耳下腺と舌の下の顎下腺から唾液が分泌されるのですが、高齢になると唾液が少なくなり、口内が乾燥し、口腔内感染症という病気に罹りやすくなります。唾液が虫歯予防とも関連するといわれていますし、しっかり噛むことが病気の予防になります。例えば、寝たきりで胃から食べ物を入れる胃瘻(いろう)の人がいますが、訪問診療などを通して、口の中を手入れし、少しずつ食べ物が噛めるようにしてあげると、寝たきりではなくなるという実例もたくさんあるのです。 “口の中の状態が人生を左右する”歯の健康を保ち日々の暮らしをポジティブに ―しっかり噛める歯を保つことが高齢になっても元気でいられるということですね。 針ヶ谷 極端にいえば「口の中の状態が人生を左右する」ということです。しっかり噛める人は高齢者でもエネルギッシュで元気な人が多いですし、逆に噛めなければ食べる喜びを失い、外で人と食事をしたくなくなり、ふさぎがちになります。私は健康と要介護の中間の心身の活力が低下する「フレイル」は、歯を失い、噛めなくなるところから始まると感じています。物が食べられなかった人が食べられるようになると笑顔になりますし、歯がきれいだと思いきり笑うことができ、日々の暮らしに前向きになれます。スタッフたちには「私たちの仕事は笑顔をつくりだす“笑顔創造産業”だよ」と話しています。  歯の健康でもっとも大事なことは、歯を支える根っ子にある骨を守ることです。多くの人が「歯」に目を奪われがちですが、見えている歯や歯茎の下に根っ子を支える骨があります。顎の固い骨のなかに根っ子が埋まっており、そこにしっかり支えられているからこそ「噛める」のです。極端にいえば、歯が全部なくなっても根っ子がしっかりしていれば、歯医者はいくらでも治せます。歯が抜ける理由は虫歯ではなく、歯茎の下にある骨が溶けることです。その原因が歯周病です。歯肉が炎症を起こす病気を歯肉炎、歯肉の下にある骨が溶ける病気を歯槽膿漏といい、その二つをあわせて「歯周病」と呼びます。物を食べれば口の中に汚れがつきます。汚れが歯茎に溜まるとばい菌が悪さをします。ばい菌も生き物ですから人間と同じように老廃物を排出し、それが毒素となって歯茎を痛めて出血する。これは治りますが、問題は歯茎に浸みこんだ毒素が、歯茎の下の骨を溶かし始めることです。これが、歯がグラグラして抜けるというメカニズムです。こうなってから、歯医者に来て「元通りにしてくれ」といわれても、骨をつくることはできません。 ―歯槽膿漏を防ぎ、骨を守るにはどうすればよいですか。 針ヶ谷 高齢になったら歯を守る以上に骨を守ることを心がけるべきです。歯の磨き方について、アメリカや日本の大学でも共通で教えている磨き方が「スクラッピング法」です。歯ブラシの腹ではなく、毛先を歯と歯茎の間の縁に軽く押しつけ、小刻みに振動させながら磨き、縁の汚れを取る方法です。歯磨き粉は必ずしも必要ではありません。患者さんには、「お風呂に歯ブラシを1本置いて、湯船に浸かりながら磨いてもよいでしょう」と話しています。ばい菌が毒素を出すまでには、それなりに時間もかかります。1日1回、お風呂のなかで磨けば、骨は溶けません。また、歯の磨き方のくせは人によって違いますし、汚れがどこに残っているかは、本人にはなかなかわかりません。数カ月〜半年に1回は、歯医者さんに診てもらうことをおすすめしています。口を開けるだけでプロの目には歯の状態が一瞬でわかります。かかりつけのお医者さんを見つけて、しっかりとメンテナンスしていくことが大切です。 ―先生は診療の合間をぬって、現在も大学の臨床専科生として勉強されているそうですね。 針ヶ谷 やはり「人の役に立ちたい」、「学びを通して少しでも役に立つものがあれば地域の患者さんに還元したい」という思いがあります。大森という町が好きですし、新しい技術を患者さんに提供し、喜んでもらえれば私もうれしいですね。 高齢従業員が活き活き働ける環境の実現に向け会社で定期的な歯科検診の実施を ―最後に、歯科医の立場から、高齢従業員を雇用する企業へのアドバイスをお願いします。 針ヶ谷 高齢従業員に意欲を持って元気に働いてもらうためには、「歯の健康」にも留意してほしいと思います。年1回の定期健康診断に合わせて、歯の検査も加えてみてはいかがでしょうか。経費はかかりますが、一定の年齢になったら検査を義務づける、あるいは会社で歯科医院と交渉して、1人あたりの金額を安くするなどの工夫はできると思います。物をしっかり噛むことができ、歯が丈夫であることは、従業員の仕事に対する意欲の向上にもつながりますし、会社で「歯の検診」に取り組むことは、とても画期的な取組みになるのではないでしょうか。 (聞き手・文/溝上憲文 撮影/中岡泰博)