第90回 高齢者に聞く 生涯現役で働くとは 魚河岸(うおがし)トミーナ スタッフ 土井(どい)スズ子さん  土井スズ子さん(98歳)は東京・豊洲(とよす)市場(しじょう)の一角にあるイタリアンレストランで厨房に立つ。国内はもちろん海外メディアからも注目されている土井さんだが、ご本人は今日も淡々と窯の前で自慢のピザの焼き上がりを待っている。生涯現役の理想のような日々を土井さんが笑顔で語ってくれた。 好奇心が人生を豊かに彩る  私は長野県の生まれです。近くには信州の名湯上山田(かみやまだ)温泉がありました。三人姉妹の末っ子ですが、家が商家であったため余裕があったのか地元の女学校に進ませてもらいました。当時は、女学校まで行ける子どもは珍しかったと思います。父は商才に長けていて、いろいろ新しいことに挑戦していました。何かおもしろいことに出会うとまず自分でやってみたくなる私の性格は父親譲りかもしれません。  姉の一人が東京で看護師として働いていたので、私も女学校を卒業すると姉を頼りに上京し、これからは何か手に職をつけた方がよいかと思い1年ほど洋裁を勉強しました。しかし、だんだん戦争が激しくなってきて、いったん田舎に疎開することに。そのため東京の空襲には遭わずにすみましたが、戦争の記憶はいまもしっかり残っています。戦後、再び上京し、上海から帰国したばかりの夫と出会い結婚しました。彼は紳士服の仕立て職人で、私も家のことをしながら頼まれれば近所のお子さんのズボンを縫うなど、仕立て屋の仕事を手伝いました。これが思いのほか評判がよく、次第に婦人服も手がけるようになりました。終戦から2年後に娘が生まれ、その娘が経営するレストランで98歳の私がピザ職人として働いているのですから、人生はおもしろいなあと思います。  土井スズ子さんの一人娘である冨山(とみやま)節子(せつこ)さんが経営する「魚河岸トミーナ」の店内には天井や壁などにモネの『睡蓮』が描かれている。「モネの絵のなかにいるような感覚でイタリアンを楽しんでほしい」と節子さんは語り、厨房のなかからもモネの世界に浸ることができる。 世界を飛び回って学んだこと  主婦業をしながら婦人服の仕立てに励む毎日でしたが、子育ても終わり娘が結婚すると、自分の時間がほしくなりました。もともと旅行好きだったので、40代後半で仕立ての仕事を引退して、頻繁に海外に出かけるようになりました。10歳年上の夫は76歳で亡くなりましたが、私と一緒に家業を引退して、それからは亡くなるまで、大好きな山登りとスキーに明け暮れました。娘にいわせれば変わった夫婦だそうです。日本人の海外旅行といえば欧米が人気なのでしょうが、私は南米や中東、アフリカが好きで何度も出かけました。もちろんイタリアをはじめヨーロッパも一通り回りました。各地の味に触れるなかで「本物の味」に開眼していったように思います。ピザもたくさん食べ回りました。当時は自分がピザを焼くようになるとは思っていませんでしたが、40代後半から世界を飛び回ったことがいまの仕事に役立っています。どんな経験も必ずいつか実を結ぶようです。  紛争前の中東にも何度も行き、イランやイラク、シリアにも足を運びました。テレビで戦争のニュースが流れるたび、胸が痛くなります。海外に目を向けるようになったのは、ブラジル人の友人がたくさんいたからかもしれません。かつて私の住むマンションと同じ建物内にブラジル大使館があったため、ご近所さんはほとんどブラジル人の方でした。頻繁に部屋を行き来しては、一緒に食事をし、おいしくて珍しい料理をたくさん教えてもらいました。60年以上も交流が続くブラジルの女性たちの味が私の料理の原点であるかもしれません。  スズ子さんは84歳のときにアフリカのマリ共和国を訪問している。また、節子さんによればブラジルのサンパウロを気に入って3カ月ほど滞在したこともあるという。自由人の真骨頂が80歳でピザを焼く道を拓かせたに違いない。 75歳で厨房に立ち80歳でピザ職人に  夫が亡くなったのと同じ時期に、娘夫婦が築地にイタリアンレストラン「築地魚河岸トミーナ」を開店しました。私はイタリア料理の学校にも通う娘夫婦を応援するために、家の仕事や孫たちの面倒などを一手に引き受けることにしました。店は築地市場のなかにあり、新鮮な食材が手に入ります。よいものだけを選んで調理するので、本物の味に魅了されたお客さまが次第に増えました。だんだん働き手も必要になり、孫にも手がかからなくなってきたので、私もお店を手伝うことになりました。75 歳でイタリアンレストランの厨房にデビューするとは思っていませんでした。最初のころは皿洗いなどが中心でしたが、5年ほど経つと、みんなが楽しく料理するのを見て、私もピザを焼いてみたくなりました。子どものころからの好奇心がわいてきて、軽い気持ちで「ピザを焼いてみよう」と思っただけなのですが、それから18年、ずっとピザを焼く窯の前に立ち続けています。  私が年齢を重ねるにつれ、テレビなどの取材も増えてきました。シンガポールからわざわざ取材に来られたこともあります。みなさん、80歳からピザ職人になったきっかけや、現在も元気に働いていられる秘訣をお聞きになりますが、「好きな仕事だから」とお答えしています。  スズ子さんは、じつにかわいらしい方である。メディアの取材は、「自分ががんばっていることでだれかを励ますことになればと思い引き受けている」とはにかむ。取材中でも注文があれば厨房に戻るが、「厨房に入ると母の背筋が伸びるようです」と節子さんが温かくスズ子さんを見つめる。 生涯現役の日々を楽しく  市場の移転で「トミーナ」も築地から豊洲に移りました。豊洲に開設された飲食街は寿司を中心に和食が主流で、イタリアンが受け入れられるかどうか、様子を見ながら1年ほどお休みしていましたが、築地時代の常連のみなさんが豊洲での開店を待っていてくださいました。  ピザは注文を受けてから発酵させたピザ生地を伸ばし、トマトソースをつくり、具をのせて焼く、これが私の仕事です。ピザの生地は、空気が抜け切らないように均一に伸ばすことでふんわりと仕上がるのですが、年寄りは力が弱いですから、かえって生地にほどよく空気が残ります。うちのピザは生地が厚いのですが、厚さの割には焼き上がりがふんわりしているのが特徴です。手づくりのトマトソースは、一日で使い切るようにしています。築地時代から人気があった海鮮ピザは、市場ならではの新鮮な食材をふんだんに使うので豊洲でも注文が増えてきました。  店は朝8時にオープンしますが、娘たちと同居の私は、家のことを片づけてから11時に出勤。閉店の14時まで3時間限定のピザを焼きます。「スズ子ママのピザ」と呼んで遠方から食べに来てくれるお客さまがいること、働けることに感謝を忘れず、健康に気をつけて体力の続くかぎり厨房に立ちたいと思います。