心に残る“あの作品”の高齢者  このコーナーでは、映画やドラマ、小説や演劇、音楽などに登場する高齢者に焦点をあて、高齢者雇用にかかわる方々がリレー方式で、「心に残るあの作品の高齢者」を綴ります 第9回 小説『あん』 (著/ドリアン助川(すけがわ)2013年) 事業創造大学院大学事業創造研究科教授 浅野浩美  何歳であっても、人が外で働くことには意味があるのだ、と思います。  小説の題名の「あん」というのは、どら焼きなどに入っている、餡子(あんこ)の「あん」のことです。  話は、冴えないどら焼き屋に、76歳の徳江(とくえ)が「アルバイトとして雇ってほしい」とやってくるところから始まります。どら焼き屋の店長は、中年のいわゆる「ダメンズ」(ダメな男子)。雇われ店長で、借金を返すために、やりたくもない仕事をしています。  店長は「雇ってほしい」という申し出を断りますが、徳江はまたやって来て手づくりのあんを置いていくのです。そのあんが、あまりにも美味しかったことから、店長は、徳江を雇うことにします。  徳江のあんづくりはていねいです。昼の11時の開店に向け、朝6時過ぎから仕込みをはじめます。一晩浸した小豆を差し水をくり返しながら煮、煮汁を捨てて、渋を切り、さらに、煮あがった小豆をシロップと練り合わせていきます。顔を近づけて小豆の様子を見、小豆の声を聞きながら、一つひとつの作業をていねいに行っていきます。徳江がつくるあんが美味しいと評判になり、店は繁盛しますが、順調な日は長くは続きません。徳江がハンセン病患者だという噂が流れ、あるときから、売上げは急減してしまいます。  徳江の指はねじ曲がっていましたが、それは、ハンセン病の後遺症だったのです。ハンセン病は、かつては「らい病」といって恐れられていた病気で、1996(平成8)年に「らい予防法」が廃止されるまでは、「らい病」と診断されれば、生涯にわたって施設に隔離されました。外で働くことなど考えられないまま、徳江は、施設内で五十年お菓子づくりをしてきたのです。  小説では、厳しい人生を送ってきた徳江が、店長や店にやってくる女子中学生に、生きる意味を伝えます。『あん』は、ハンセン病患者への差別・偏見という大きなテーマを扱っていますが、別の見方をすれば、事情があって外で働けなかった人が、70代半ばを過ぎてから、初めて外で働くことにチャレンジする、という話でもあります。徳江がどら焼き屋で働いたのは、生活のためではなく、何かになるためでもありません。働くことができたこと自体を、「本当に幸運だった」といい、それ自体を大切だと思っているのです。  徳江は、人が生まれてきたのは、「この世を観るため、聞くため」であり、「何にもなれなくても、生まれてきた意味はある」といいます。そして、外で働いたこと自体に大きな意味を感じています。  「あん」は、2015年に映画化され、樹木(きき)希林(きりん)さんが徳江役を演じました。まさに、老女といった趣で演じていますが、それだけに、何にもなれなくても、生まれてきた意味はある、何歳であっても、外で働く意味がある、と思わせるものがあります。 ドリアン助川『あん』 (ポプラ社 刊)