第92回 高齢者に聞く生涯現役で働くとは  田中弘さん(80歳)は60歳の定年退職後、マンション管理員としてのキャリアを重ねてきた。かつては旅行会社で添乗員(てんじょういん)として世界を駆け巡り、旅行業界を目ざす若者のために教壇に立った経験も持つ。そしていまは、マンションのベテラン代務員として充実の日々を送る田中さんが生涯現役で働く喜びを語る。 株式会社うぇるねす 新宿支店スタッフ 田中(たなか)弘(ひろし)さん 視野を広げた添乗員の日々  私は東京郊外の武蔵野(むさしの)市で産声をあげました。千代田区九段上(くだんうえ)に生家がありましたが、空襲が激しくなって家族で武蔵野市へ移りました。終戦後は九段上に戻りましたが、空襲で家屋は焼失したため、新しく家を建てて再出発しました。  高校卒業後は、中央大学に進学し、日本交通公社(現・株式会社JTB)に就職しました。旅行業界というよりは、東京生まれで田舎のない私は、地方へ旅する憧れが強かったのだと思います。当時の旅行業界は現在のように競合会社がないことに加え、修学旅行や社員旅行も増えてきて、思えば華やかな時代を過ごさせてもらいました。入社してすぐは店頭業務でしたが、しばらくすると添乗の職務に就くことになり、国内をはじめ海外旅行も数多く添乗しました。  また、1972(昭和47)年に日本と中国の国交が正常化すると、中国旅行を担当するようになりました。そのころの中国はいまと違い道路状況や、宿泊施設も不備が多かったのですが、事情を承知している旅行者も多く大きなトラブルはありませんでした。旅行者に旅を楽しむ心の余裕があったようにも思います。添乗員の仕事は楽しく、定年まで勤めるつもりでしたが、先輩から旅行の専門学校の講師をやってみないかと声をかけられ、新たな世界に挑戦しようと、定年を待たずに55歳で転職しました。  田中さんと話しているとこれまでの職業によってつちかわれてきた品格を感じさせられる。滑舌がよい話しぶりは添乗員という世界で鍛えられたに違いない。専門学校の講師に誘った先輩は先見の明があった。 管理員という新しい仕事に挑戦  旅行の専門学校では店頭業務や添乗員の仕事紹介、世界各国の事情など、多岐にわたる話をしましたが、若い人たちとの出会いも新鮮で、60歳で定年を迎えるまでの5年間、楽しい時間を過ごすことができました。  さて、60歳になってこれからどうしようかと思っていた矢先、ある不動産会社が管理員を募集していることを知り、すぐに応募しました。旅行業界関連で働く道もありましたが、最後には専門学校の講師までさせてもらったので、旅行の世界はやり切ったという思いが強く、まったく違う仕事をしてみようと思ったのです。健康であれば高齢者でも常勤できる職場であったため、定年を迎えるまで12年間勤めあげました。  72歳で二度目の定年を迎えたものの健康に問題はないし働く意欲も旺盛で次の仕事を探し始めました。「さすがに簡単には見つからないだろう」と思っていたところ、勤めていた不動産会社の支店長が「株式会社うぇるねす」を紹介してくれました。  株式会社うぇるねすでは、日本各地のマンション管理員として多くのシニア人材が活躍している。「居住者の目を見て笑顔でご挨拶」を合言葉に、快適で信頼できるサービスの提供を目ざしている。  生涯現役の職場が田中さんを待っていた。 毎日働く場所が変わる緊張感とともに  おもな業務はマンションの管理と清掃ですが、12年間マンション管理員の経験があったので仕事に対する不安はまったくありませんでした。ただ、それまでと大きく違ったのは、担当するマンションが毎日違うという点でした。代務員※という名称が職務の内容をよく表していると思います。働く場所が毎日違うのは緊張しますが、この緊張感が仕事の張り合いと認知症予防につながっています。  私の場合は、週に2日から3日、仕事に行くマンションによって働く時間は異なりますが、翌月のシフトが早くわかるので、自分の都合に合わせた働き方が可能です。元気に働き続けていられるのは、働き方を選べるという点が大きいと思います。また、仕事の依頼や勤務場所への経路の確認、業務連絡などはすべてスマートフォンのアプリで行わなければならず、高齢者にとってはよい刺激となっています。 仲間との交流が活力につながる  仕事を続けていくうえで私が大切にしていることは何ごとも前向きにやっていくことと、仲間との交流です。マンション管理の仕事は基本的に一人で行うので孤独な作業です。だからこそ、仲間との交流が心の支えになります。  社内では研修イベント「うぇるねすシップ」が定期的に開催されます。首都圏では1200人ほどの代務員が一堂に会して、清掃業務のスキルアップや現場の課題解決などを学びます。また、居住地域でエリア会を開き、現在は16人ほどの仲間と定期的に情報交流や意見交換をしていますが、このような交流の場があることが代務員のモチベーション向上につながっています。  ほかの研修制度も充実しており、入社前の研修のほか、スマートフォンの勉強会もあります。入社後には「親ガモ」と呼ばれるコーチ役の働くマンションで実地研修を行います。「親ガモ」に採点をしてもらい、合格点が出て初めて現場での仕事をスタートできるのです。私もいまは「親ガモ」として新人研修にあたっていますが、人に教えることや評価するという点では旅行専門学校での講師の経験がおおいに役立っています。人生には無駄な経験というものは一つもないようです。 居住者との心のふれあいを支えに  私は添乗員時代から人に接することが大好きでした。新しい人に出会うことが多いいまの仕事は自分に合っていると思います。マンションには小さなお子さんから高齢者までさまざまな方が暮らしています。心をこめて業務をこなし、住んでいる方に快適な日々を送っていただくためのお手伝いをしたいと思っています。  72歳で働き始めて8年が過ぎました。90代でも働いている方がいるのでまだまだがんばれそうです。健康づくりのためにも毎日1万2000歩を歩くことが目標です。マンションの清掃時は階段を何度も昇り降りしますし、日々の勤務先の移動でもよく歩いている方だと思います。あとは快食、快便、快眠と快トレの四つを大切に身体をケアし、毎朝体温と血圧を測定していますが、これはアプリに入っているので気楽に続けられています。  趣味はバラづくりです。若いころからの趣味でしたが、最初の定年を迎えたとき、職業訓練校の園芸科で少し学んでから一層力が入るようになりました。ほかには大相撲観戦で、好きな力士の勝ち負けに一喜一憂しています。  会社のモットーである「目を見て笑顔でご挨拶」を胸に秘めて、明日もまた新しい現場に向かいます。 ※ 代務員……管理会社の常勤管理員の休暇、退職などにともない単発・長期で当該マンションの管理員として派遣される代行管理員