偉人たちのセカンドキャリア 歴史作家 河合(かわい)(敦あつし) 第8回 教育者に転進した 日本騎兵の父 秋山(あきやま)好古(よしふる) 軍人から教育者へキャリアチェンジ  秋山好古は、日本海海戦の作戦を立案・指揮した真之(さねゆき)の実兄です。伊予松山出身で陸軍士官学校に入ると騎兵科を選び、フランスに留学して最新の騎兵学を学びました。1894(明治27)年の日清戦争では1000の騎兵で2万の敵を食い止める活躍をみせました。戦後は陸軍乗馬学校(後の騎兵学校)の校長として後進の指導にあたりますが、1904年の日露戦争で再び騎兵第1旅団(約8000人。秋山支隊とも呼ばれる)を率いて出征。敵地へ潜行して情報を集めたり、道路や橋などを破壊し後方を攪乱したりする挺進騎馬隊を組織します。翌年1月、秋山支隊はロシア軍10万の猛攻に耐え抜き、戦後、好古は「日本騎兵の父」、「最後の古武士」と讃えられました。  1909年に陸軍中将、1916(大正5)年に陸軍大将に昇任し、63歳の1923年に予備役に編入されました。定年となったのです。しかし、「人は一生働き続けるものだ」というのが好古の信念で、第二の人生として教職を選び、翌年、故郷松山の私立北ほく予よ 中学校の校長に就きました。学校理事の井上(いのうえ)要(かなめ)が上京して好古に校長就任を依願したからです。  日露戦争で活躍した乃木(のぎ)希典(まれすけ)も大将から校長(院長)になりましたが、その学校は皇族や華族を教育する学習院です。対して好古は、故郷の中学校校長。ですから北予中学校の理事会は「田舎の中学校校長を打診するのは非礼だし、承諾してもらえないだろう」と考えていたようです。ところが井上が直接談判したところ、好古は「俺は中学の事は何も知らんが、外に人がいなければ校長の名前は出してもよい。日本人は少しく地位を得て退職すれば遊んで恩給で食ふことを考へる。それはいかん。俺でも役に立てば何でも奉公するよ」(『秋山好古』秋山好古大将伝記刊行会 昭和11年)と快諾してくれたのです。  井上は大いに歓び、「当分でも校長の名をお貸し下さい。そうして時々学校へ来て生徒と遊んで下さい」(『前掲書』)と伝えましたが、なんと、好古は伊予松山に単身赴任し、毎日出勤したのです。じつは若いころ、好古は小学校の教師をしていたのです。けれど体格がよかったので、盛んに知人たちに軍人になることをすすめられ、陸軍士官学校に入ったという経緯がありました。 好古の人柄に触れ校風が変わる  驚くべきことに、 校長を務めていた6年間、好古は無遅刻無欠勤でした。いつも始業の20分前に学校へ出勤するので、学校沿いの人々は好古の姿を見て時計の針を直すほどだったといいます。不良少年のたまり場といわれた北予中学校は、好古が着任したことで大きく変わりました。教員も生徒もみな勉強家となり、欠勤や欠席するものが著しく減ったのです。とくに教員が欠勤すると、好古が自ら授業をするので、安易に休めなくなったようです。といっても好古が高圧的に職員や生徒に接することはありませんでした。  「将軍は恐ろしい顔をしてゐたが、併し将軍の怒つた顔を見た者はなかつた。又叱られた生徒も一人もなかつた。毎日々々変りなき慈眼温容で、終始ニコニコと笑みを浮べながら、校の内外を見廻り、時々経歴実話を交へた温い訓話をした」(『前掲書』) 軍服も一切身に付けず、背広姿に鳥打ち帽をかぶって馬で出勤しました。校長室は狭くて夏はきわめて暑い部屋でしたが、好古は一度も暑いと嘆かず、上着を脱ぐこともせず、洋服のボタンも上まできちんと閉めていたそうです。校長室の整理整頓のみならず、ゴミも自分で始末しました。  粗暴な生徒のせいで、校内の破損や壊れた物品がかなりあったのですが、好古は夏休みの間にすべて修理し、二学期のはじめに全校生徒を集め、「物が壊れては、お互いに困るから気をつけいよ」(『前掲書』)とたった一言注意したそうです。以後、校舎の破損はほとんどなくなったといいます。 教育に捧げた第二の人生  1928(昭和3)年の夏休み、数人の生徒が乱暴を働いて警察の尋問を受けました。これを知った好古は、その責任を感じて理事の井上要に宛てて退職届を書いたのです。じつはこのころ、足の神経痛がひどくなり、歩行に困難を来すようになっていたことも、退職理由の一つでした。しかし井上や理事たちが平身低頭して留任を願ったので、仕方なく好古は退職届を取り下げました。しかし翌年正月の新年会で「自分はもう七十歳なので、校長を辞めたい」と述べたことが地元の新聞に載ってしまいました。すると同年三月の卒業式で井上理事は、演壇から「諸君は秋山校長先生が罷められると云ふて、大に心配してゐるそうであるが、校長先生は非常に責任を重んずる人である。先生に代わるべき立派な後任のない以上、断じて諸君を見捨てることはない。諸君安心せよ」(『前掲書』)と断言したのです。これを聞いた好古は「君があんな演説をすると、当分罷められないじゃないか」と笑ったといいます。しかし足に激痛を感じるようになり、これ以上の勤務はむずかしいと判断。翌年4月、ついに6年以上務めた校長の椅子をおりたのです。そして、それからわずか半年後、好古はこの世を去りました。  足痛は神経痛ではなく、糖尿病悪化による血管の閉塞から来る痛みだったのです。伊予から東京に戻った好古でしたが、痛みのために睡眠すらままならなくなり、ついに壊疽がはじまり、左足の先端部が腐りはじめました。医師は左足の切断をすすめました。好古も「この痛みさえ去れば、足の一本はなくてもいい」と納得し、手術が行われました。麻酔から目ざめた好古は「これですっきりした」と笑顔を見せましたが、翌日から傷口が静脈炎を起こして高熱を発し、腹部にも炎症が広がっていきました。それから三日間、好古は現実と夢の間を行き来したようです。ときおり口から出る言葉は、「騎兵」、「奉天」といった日露戦争に関するものばかりで、夢のなかでロシア軍と戦っているようでした。  死は免れないと思った親族は、紅茶にコニャックをまぜて好古の口に含ませてあげました。ちょうど陸軍士官学校で同期だった本郷(ほんごう)房太郎(ふさたろう)がお見舞いに来て「俺がわかるか」と尋ねると、好古は「本郷か、ちょっと起こしてくれ」と頼みました。そこで身体を起こしてやると、しばらくして息を引き取ったそうです。  日本陸軍の騎兵をつくり上げ、大将にまで昇り詰めた軍人・秋山好古は、無休主義をかかげ、中学校の校長という第二の人生を見事に全うして昇天したのです。71歳でした。