偉人たちのセカンドキャリア 歴史作家 河合(かわい)敦(あつし) 第9回 室町幕府最後の将軍のセカンドキャリア 足利(あしかが)義昭(よしあき) 室町幕府滅亡後の義昭の行方  日本史の教科書には、15代将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放された1573(元亀(げんき)4)年をもって、室町幕府は滅亡したと書かれています。  ですが義昭は、その後も将軍として活動し、大きな力を持ち続けていたのです。今回はそんな最後の将軍・足利義昭のセカンドキャリアについて紹介していこうと思います。  13代将軍足利義輝(よしてる)が畿内を制する三好(みよし)氏によって暗殺されたとき、弟の義昭も命を狙われますが、どうにか京都から脱して転々と居所を変え、やがて尾張の織田氏を頼ります。1568(永禄11)年、義昭は信長に奉じられて上洛し、15代将軍となることができました。しかし、後に信長と対立するようになり、多くの大名や宗教勢力と結んで信長包囲網をつくりました。信長はそうした敵を次々と押さえ込み、1573年7月、大軍を派遣して義昭の居城・槇島(まきしま)城を攻め立てたのです。かなわないと考えた義昭は、息子を人質に出して降伏し、河内国若江(かわちのくにわかえ)城(じょう)(東大阪市)へ退去しました。これをもって室町幕府は滅亡したといわれます。義昭37歳のときのことでした。  けれど、これで義昭が屈したわけではありませんでした。若江城から紀伊国(きいのくに)由良(ゆら)の興国寺(こうこくじ)へ入ったのです。この地域は反信長勢力の強固な地盤で、紀伊国内には雑賀(さいが)一揆(いっき)、高野山(こうやさん)、根来衆(ねごろしゅう)、粉河寺(こかわでら)、熊野三山(くまのさんざん)など、強力な仏教勢力が存在し、石山本願寺と結んで信長と敵対していたからです。さらに義昭は、越後の上杉謙信や甲斐の武田(たけだ)勝頼(かつより)、近江の六角(ろっかく)承禎(しょうてい)、本願寺顕如(けんにょ)と連絡をとり、信長の打倒を目ざします。結果、いったん信長と講和した石山本願寺の顕如は、再び戦う決意をかためました。 打倒信長に傾注したセカンドキャリア  1576(天正4)年、義昭は居所を備後国(びんごのくに)鞆(とも)の浦(うら)に遷します。ここは毛利氏の領内。つまり当主の毛利輝元(てるもと)は信長との敵対を決意したのです。義昭が強く毛利氏に働きかけた結果でした。義昭は輝元を副将軍に任じ、多くの大名や宗教勢力を結集し、再び信長包囲網をつくり上げたのです。京都を追い払われた義昭ですが、抜群の交渉能力により、室町将軍としての権威を保ち続けていたのです。  同年7月、毛利輝元が八百艘の船団を送って木津川口で織田水軍を撃破し、石山本願寺に兵糧を入れることに成功します。さらに越後の上杉謙信も翌1577年9月、織田方の七尾城(ななおじょう)を落とし、手取(てどり)川の戦いで柴田勝家率いる織田軍を大敗させました。信長の重臣・荒木村重(むらしげ)が織田を裏切ったのも、義昭の工作だったといわれています。  三重大学の藤田(ふじた)達生(たつお)教授によれば、本能寺の変の黒幕も義昭だといいます。変から11日後、義昭が乃美(のみ)宗勝(むねかつ)(毛利水軍のリーダー)に送った御内書がありますが、文面には「信長討果上者、入洛之儀急度可馳走由、対輝元・隆景申遣条、此節弥可抽忠功事肝要…」とあります。藤田氏は、冒頭部分は「信長を打ち果たした上は」と読めるので、義昭が旧臣の光秀を動かして信長を討ち果たしたと解釈しています。  いずれにせよ、本能寺の変の黒幕が義昭ならば、きっと当人は信長の死後は京都に戻って室町幕府を再興し、自分が天下人として君臨しようと考えていたことでしょう。  ところが、大番狂わせが起こります。本能寺の変からわずか11日後、中国地方から京都へ馳せ戻った羽柴秀吉が、山崎の合戦で光秀を倒してしまったのです。  すると義昭は、光秀を倒した秀吉に連絡を取り、自分の帰洛を要求しました。いったん了解した秀吉ですが、まもなく前言を反故にしています。宣教師のルイス・フロイスによれば、義昭は「信長が死んだので、自分を天下人にしてほしいと頼んだ」といいます。  秀吉は自分が信長の後継者になろうと考えていたので、その頼みは聞くことができません。  すると義昭は、今度は秀吉と対立する織田家一の重臣・柴田勝家に接近していきます。また、吉川(きっかわ)元春(もとはる)(毛利輝元の叔父)を通じて毛利・柴田連合を画策し、1583年、秀吉を挟撃すべく盛んに輝元に出兵をうながしたのです。しかし、小早川(こばやかわ)隆景(たかかげ)(輝元の叔父で元春の弟)は、秀吉に将来性を見出し強く反対したので、輝元は傍観を決めました。かくして義昭のもくろみは崩れ、柴田勝家は賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで秀吉に敗れ、北庄(きたのしょう)城を囲まれて妻のお市と自刃しました。  1584年2月、秀吉は義昭の帰洛を認めました。約10年ぶりの京都です。すでに義昭を庇護する毛利氏は秀吉に屈しており、京都に戻っても政権をにぎれる(幕府を再興できる)可能性はなく、形ばかりの将軍でした。しかも秀吉は「自分を猶子にしてほしい」といってきたのです。おそらく幕府(武士政権)を開こうとしたのでしょう。将軍になるには清和源氏の一族でなくてはなりません。秀吉は庶民階層の出身だったので、義昭の猶子になろうとしたのだと思います。  もし義昭が了解していたら、秀吉を将軍として大坂(豊臣)幕府が開かれていたはずです。ですが、義昭は己の血統を秀吉に渡しませんでした。秀吉の依頼をきっぱりと拒否したのです。おちぶれたとはいえ、義昭は将軍としての矜持を見せたのです。仕方なく秀吉は、朝廷の権威を利用し、太政大臣や関白となり、天皇から新たに豊臣姓をもらい、豊臣政権を樹立しました。 政治能力を活かし晩年は秀吉を補佐  その後も義昭は将軍の地位を保ち、秀吉を補佐するかたちで外交力を振るいました。たとえば1587年には、薩摩の島津氏と豊臣氏の講和を斡旋しています。しかし翌1588年正月、すでに秀吉が天下人として政治を動かしているなかで、将軍であり続けることはできないと考え、朝廷に将軍職を返上しました。ここにおいて室町幕府は完全に消滅したのです。  こうした功績が評価され、義昭は1588年に朝廷から三后(さんごう)に准ぜられ、秀吉からも一万石を与えられました。御伽衆として秀吉の良き話し相手になりました。  1592(文禄元)年に朝鮮出兵が始まると、秀吉に従って肥前名護屋へ赴いています。そのおり、義昭はりりしく武装し、3500人の兵を引き連れていたといいます。しかし、これが最後の晴れ姿となりました。1597(慶長2)年8月28日、体にできた腫れ物が悪化し、義昭は大坂において61歳の生涯を閉じました。  いずれにせよ、足利義昭は京都から追い出された後も、幕府再興のために根気強く信長と戦い続け、その死後も将軍として積極的に政治活動を行ったのです。まさに執念のセカンドキャリアだといえるでしょう。