高齢者に聞く 生涯現役で働くとは 第107回  浮田義明さん(74歳)は、大手ゼネコンを定年退職後、労働安全コンサルタントとして建設業における労働災害を防止するための活動に力を注ぎ続けてきた。労働安全衛生にかかる教育や研修、環境調査の第一線に立つ浮田さんが、安全に心を配りながら生涯現役で働くことの醍醐味(だいごみ)を語る。 NPO法人 安全技術ネットワーク 理事長 浮田(うきた)義明(よしあき)さん モノづくりへの憧れから土木の道へ  私は宮城県仙台市(せんだいし)の生まれで、大学まで仙台で過ごしました。大学では土木工学を専攻し、卒業後に大手ゼネコンとして知られていた株式会社フジタに入社しました。団塊(だんかい)の世代の一つ下になる私たちですが、時代は高度成長期を迎え活気にあふれていました。土木建築関係の同期入社は約400人を数えます。大学で土木工学を学んだのは、モノづくりに興味があったからです。モノづくりのなかでも、大きなプロジェクトにかかわりたいという気持ちが強かったので、大手ゼネコンに入社できたことは幸いでした。  入社と同時に九州支店に配属され、当時、日本最大の建設現場といわれた長崎空港の建設にたずさわりました。長崎空港は、世界初の海上空港として知られています。それまで想像したこともない大きなスケールの現場に立ったときの高揚感をいまも覚えています。新人だった私は現場を走り回り、現場管理を身体で覚えていきました。  長崎空港の現場で2年ほど過ごしたあとは、岐阜県可児市(かにし)で大規模な住宅団地の現場に入りました。そのころは若い世代が自分の家を持つことを追い求め、日本のいたるところで宅地の造成が始まりました。当時の上司が、「社会インフラ整備の後は必ずレジャーの時代がやってくる」と語ったことが頭にこびりついています。  浮田さんの上司が予想した通り、社会インフラの整備後にはゴルフ場が次々に造成され、その周辺には大型リゾートホテルが林立するようになった。淡々と語られる話の向こう側に、当時の日本の勢いが垣間(かいま)見られる。長崎空港は1975(昭和50)年に完成した。 「労働安全」の世界へ足をふみ出して  住宅団地の現場のあと、郷里の仙台支店に異動になり、ダムの建設工事にたずさわりました。その後、20代後半から50代までの30年近くを仙台で過ごしました。40代半ばまで現場一筋でしたが、47歳のときに支店全体の安全管理の仕事を任されるようになったことが、いまの労働安全コンサルタントの仕事につながっています。55歳で本社からお呼びがかかり、安全品質環境本部に配属されました。60歳で副本部長として定年を迎えるまでの5年間は刺激的な日々でした。中央官庁の幹部に会う機会も増え、人脈ができてきたのもこの時期です。組織ですから当然上の意向には従わなければなりませんが、建設現場の安全管理という大きな仕事を自由にやらせてもらいました。同期の多くは60歳の定年後も雇用継続を希望しましたが、私は60歳で第二の人生を歩む道を選びました。じつは退職する半年前から労働安全コンサルタントとして活動するためにNPO法人設立の準備を始めていました。そのころ東日本大震災が発生、東北の復興を考えて仙台を拠点にしようと思いました。ほかのゼネコンで働いていた仙台の仲間たちからの協力も得て、2012(平成24)年に「NPO法人安全技術ネットワーク」を設立、理事長に就任しました。  NPO法人設立と同じ時期に、建設業労働災害防止協会(建災防)から声がかかり、東北復興事業に1年ほどかかわりました。「施工計画等に活用できる災害事例研究マニュアル検討委員会」の委員を務めるなど学ぶことも多かったですが、NPO活動に力を注ぎたいと思い退職しました。  建災防を1年で辞めたときには「建災防を辞めるなんてもったいない」と周囲から呆れられたという浮田さん。退職の理由は「自分のやりたいことがあるから」。やりたいことがあって楽しく働ける、これこそが生涯現役のヒントなのかもしれない。 働く人の役に立つ仕事を目ざして  私が労働安全コンサルタントを志したのは、建設業で働く多くの職人さんたちの役に立ちたいというひとすじの思いからです。仙台の拠点はいまも機能していますが、地方ではできることにもかぎりがあって、東京にも拠点をつくりました。このため次第に企業からの相談が増えたこともあり、2020(令和2)年に企業からの相談業務に対応するための株式会社を設立、代表取締役になりました。NPO法人と株式会社が支え合って活動するなど双方にとってよい面がたくさんあります。また、会社の経営には息子をはじめ家族が運営に協力してくれており、感謝しています。  NPO法人には18人が所属しており、半数が労働安全コンサルタントの資格を持っています。安全管理の知識が豊富なことはもちろん、話したり書いたりする能力も求められ、自分も含めて自らの研鑽(けんさん)がとても大切です。法律も頻繁に改正されますから、毎日が勉強です。  建設業は時代とともに発展を遂げていますが、時代遅れの部分は私が入社したころとあまり変わっていないような気がします。「建設女子」などという言葉もありますが、現場のパトロールを行う女性の職人にはピンクの保護帽を使用している企業もあって、これこそが女性差別ではないかと私は見ています。  私が60歳で定年を迎えたときには、後継者に女性を指名できるよういろいろ奔走しましたが、願いはかないませんでした。女性が管理職になり、中央省庁の幹部と対等に渡り合えるようになれば、建設業に対する見方も少しは変わるのではないかといまも信じています。 生涯現役に挑戦を  建設業界では「安全第一」を掲げる企業が多いですが、私は「安全」をお題目のように唱えることは好きではありません。むしろ、極力危険を排除することが重要であり、「安全に働けること」が必要だと私は思います。  いま、月に1回マレーシアのデベロッパー(土地や街を開発する事業者)が設立した現地法人で日本における建設業の安全衛生管理の実務を指導しています。そこで働く日本人の技術者たちは熱心に話を聞いてくれます。私からは、「まず現場をしっかり観察しなさい」ということをくり返し伝えています。「次々と現場に現れるリスクにどう対処するか」という気持ちに耳を傾けることが私たちにできることだと思います。月に一度の出張もだんだん身体にこたえるようになってきましたが、目を輝かせて聞いてくれる人たちの顔を思い出すと、もう少し続けようかという気持ちになるから不思議です。  現在、NPO法人の活動は順調で、やりがいを感じられる毎日です。健康に気をつけて少しずつ前に進み、NPOを立ち上げたときの初心を忘れず、働く人に寄り添える労働安全コンサルタントを目ざして、生涯現役の日々を楽しんでいこうと思っています。