偉人たちのセカンドキャリア 歴史作家 河合(かわい)敦(あつし) 第10回 悪人正機説を提唱した浄土真宗の祖 親鸞(しんらん) 法然(ほうねん)のもとで頭角を現すも流罪で越後の地へ  親鸞は1173(承じょう安あん3)年に貴族の日野(ひの)有範(ありのり)の子として生まれ、9歳のときに比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)にのぼって20年間修行に励みましたが、さまざまな迷いが生じ、山を下りてやがて法然のもとへ出向きます。  法然は「念仏(南無阿弥陀仏)を唱え続ければ、人は往生できる」と説きました。厳しい修行を必要としないことから多くの人びとを惹き付けていました。親鸞はすぐに法然を信用せず、100日の間通って、その人柄を見極めました。結果、親鸞は「念仏は浄土に生まれる種なのか、それとも地獄に落ちる業なのか、私にはあずかり知らぬこと。でも、たとえ法然にだまされ、念仏して地獄におちたとしても後悔しない」と法然を心から信じて弟子になり、めきめき頭角を現していきました。  一方、比叡山延暦寺や奈良の興福寺(こうふくじ)は、法然の信者の増大を懸念し、朝廷に念仏停止を訴えました。1207(承元(じょうげん)元)年、後鳥羽(ごとば)上皇はこれを取りあげ、念仏を禁じ、法然と弟子たちを配流(はいる)したのです。このとき親鸞も連座して越後に流されることになりました。親鸞が恵信尼(えしんに)を妻としたのは、この前後のことだといわれています。 教義が共感を集め門徒が急速に拡大したが…  7年後、親鸞は赦免されましたが、京都へは戻らず、しばらく越後にとどまった後、関東の笠間郡稲田郷(茨城県笠間市)に庵を結びました。流罪という困難を仏の愛と深い配慮の賜物として受け取り、関東という新天地で人々の救済に取り組もうと不退転の決意をしたのです。  親鸞は「たった一度だけ、心から念仏(南無阿弥陀仏)を唱えたら、人は必ず極楽往生できる」と唱えました。しかも「阿弥陀様は、悪人を率先して救ってくれる」と断言したのです。これを悪人正機説(あくにんしょうきせつ)といいますが、親鸞のいう悪人は、悪い人間という意味ではありません。どうしても煩悩を捨てきれず、自分の力では悟りを得られないと自覚した者をさしているのです。「自力ではどうにもできない」という自覚を持った人間は、全面的に仏の力にすがろうとします。だから阿弥陀如来も、悪人のほうが救いやすいというわけです。  さらに親鸞は「私は妻をもち、僧でなくなったのだから在家(一般人)と変わらない。それに、私のもとに集まった人々は、私の力で念仏をとなえるようになったわけではない。すべては阿弥陀様のお計らい。だからどうして彼らを弟子などといえようか。私には一人の弟子もいない」と語り、信者たちを「御同朋(おんどうぼう)」、「御同行(おんどうぎょう)」と呼びました。  このように肉食妻帯(にくじきさいたい)を許し、仏のもとの平等を説いたうえ、たった一度、心から念仏を唱えたら極楽へ行けるという教義は、当時の人びとにとって極めて魅力的なものでした。このため親鸞のもとには大勢の人びとが救いを求めて殺到するようになりました。  熱心で有力な門徒たちは、親鸞の教えを貪欲に学んで道場(他宗でいう寺院)を開き、信者を集めました。こうして教団が強大化した1235(嘉禎(かてい)元)年、親鸞は20年近く住んだ関東を去って、にわかに故郷の京都へ戻りました。63歳でした。  関東を離れたのは、鎌倉幕府が念仏に警戒の念を向け始めたからだといいます。  信者のなかに悪人正機説を都合よく解釈し、悪さをしたり酒飲肉食をしたり、平然と異性とみだらな行為にふける者が現れたのです。領主に反抗して年貢を納めぬケースもあり、幕府も看過できなくなったようです。親鸞はこうした信者たちを「獅子身中の虫」、「地獄にも落ち、天魔ともなり候」と非難しますが、異端的な行為は下火にならず、権力の弾圧を避けるため、仕方なく京都へ拠点を移したようです。親鸞が去ると、門徒は寄りどころを失って、ますます異端は増加し、道場主と呼ばれる有力門徒らが勢力争いや信者争奪戦を始めました。 息子・善鸞(ぜんらん)との対立を経て亡くなる直前まで読経  老齢の親鸞は関東へ下って事態を沈静化する体力はなく、息子の善鸞を派遣しました。  善鸞は父の期待にこたえるため、異端の者を改心させようと努力しますが、成果があがりません。焦った善鸞は、禁じ手を使ってしまいました。  「道場主から伝えられた親鸞の教えは間違いだ。萎れた花のようなもので、ただちに捨てなければならない。じつは私は、親鸞から直接秘伝(法文)を授けられている。これを知らなければ、あなたがたは決して極楽に往生できぬ」  もちろん、秘伝など存在しません。善鸞は人々を惹きつけるためウソをいい始めたのです。ただ、善鸞の言葉は絶大な効果をもち、たちまちにして大教団をつくりあげてしまったのです。関東の各道場主たちは驚き、京都にいる親鸞に訴えました。親鸞はまさか我が子が異端思想を広めているとは信じられず、「そう考えるのは、お前たちの信心が足りないからだ」と逆に道場主たちを叱責しました。けれどしばらくすると、親鸞も事実だとわかってきました。  そこで親鸞は、激しく言葉で善鸞を叱りつける手紙を送りましたが、善鸞はごまかしやいい逃れでうまく父をあしらい、その言動を改めません。それでも親鸞は何度も手紙で息子を諫(いさ)めようとします。すると善鸞は開き直り、鎌倉幕府に対し「念仏の道場主たちは、信者たちを扇動して風紀を乱している」と訴えを起こしたのです。こうして関東の道場主たちは、数年にわたる法廷闘争を余儀なくされました。  ここにおいて親鸞は、意を決して1256(康元(こうげん)元)年5月29日に善鸞と親子の縁を切る義絶状を送ったのです。「私に虚言をいうのは、父を殺したのと同じ。お前がしたことを伝え聞くに、その浅ましさはいうことができないほどだ。もう私はお前の親ではない。お前を子と思わない。悲しいことである」と記されていました。  そして親鸞は、義絶した事実を全国の門徒たちに伝え、事態の収拾をはかりました。まさに苦汁の選択でした。このとき親鸞84歳。本来なら善鸞に関東のことはすべてゆだね、京都でゆっくり余生を過ごせていたはずです。  親鸞はその後、正しい教えが伝わるよう著述に没頭し、己の著書を有力門徒たちに送付しました。門徒の質問に対しても、書簡を通じて正しくていねいに回答するようにしました。こうした生活が数年続き、1262(弘長(こうちょう)2)年11月になると、親鸞は念仏以外に何も言葉を発しなくなり、同月28日、低くとなえ続けた念仏が途絶え、頭を北にし顔を西側に向けたまま絶命しました。90歳という、当時としては大往生でした。