偉人たちのセカンドキャリア 歴史作家 河合(かわい)敦(あつし) 第11回 難病と闘いながら俳優の道を貫いた喜劇王 榎本(えのもと)健一(けんいち) 病気による右足つま先の切断から義足で舞台に復帰  エノケンこと榎本健一は、浅草の劇場で喜劇俳優として人気を博し、松竹に属して一座を立ち上げ、映画界にも進出、その後は東宝へ移って喜劇王と呼ばれました。  しかし戦後、エノケン一座は解散します。大勢の座員を経済的に面倒を見れなかったのに加え、左足に強い痛みを感じるようになったからです。病名は特発性脱疽(だっそ)。手足の血管が細くなり血液がとどかず壊疽(えそ)する原因不明の難病です。1952(昭和27)年10月、今度は右足が激しく痛むようになります。ちょうど巡業中で、広島公演はどうにか終えますが、次の岩国では激痛で靴も履けず、公演をとりやめました。  鎮痛薬も睡眠薬も効かず、一睡もできない状態が続きます。担当医師から「右足を膝下から切断しなくてはならない」と宣告されました。エノケンは飛び上がらんばかりに驚きました。そんなことをしたら役者生命が終わるからです。そこでこれを拒否し、ほかの病院で診察してもらうと「つま先の壊疽部分を切り落とせば何とかなる」といわれました。足ごと切るよりはましと考え、思い切って手術を受けました。歩きづらいので指だけの義足を探しますがありません。そこでエノケンは自分でゴムの足形をつくってはめこみ、懸命に訓練して駆け足ができるまでになったのです。驚くべき役者魂です。そして、1955年には舞台に復帰したのです。 息子との別れ だれも笑わない公演  しかし1957年7月、エノケンに大きな不幸が襲います。息子の^一(えいいち)が26歳で結核のために亡くなったのです。危篤になったとき電話で妻から知らせを受けますが、テレビ中継が入る公演をしていたので「舞台に穴を開けるわけにはいかない」と帰りませんでした。公演後、急いで家に戻ると、^一はぐったりしていました。エノケンは励ましてやりたい一心で、「ばかやろう、だらしねえぞ。しっかりしろ」と叱咤してしまいました。  すると、^一はぽろっと涙を流したのです。これまで十分がんばってきたのは親のエノケンが一番よくわかっていました。にもかかわらず、そんな言葉を吐いた自分に、エノケンは生涯悔やみ続けたといいます。  翌月、稽古中に妻の電話でエノケンは息子の死を知ります。それでも宝塚の公演を休みませんでした。客を笑わそうと、いつにも増して滑稽な演技をしますが、だれも笑いません。なぜなら客は皆、エノケンが息子を失ったことを知っていたからです。  「僕の今日までの舞台の中で、この時の舞台ほど辛かったことはない。伜(せがれ)が死んで、悲しい最中、面白い芝居を見せて観客に笑ってもらわなければならない。それも僕の芝居で、『アッハッハ』と笑ってくれたら、僕も喜劇俳優として気も休まるのに、お客は僕に同情して、一生懸命芝居をやればやるほど場内がシーンとなるのだから、なんともいいようのない、辛い気持ちだった」(榎本健一著『榎本健一―喜劇こそわが命』日本図書センター)  そう回想しています。  息子を失って悲しいのは、エノケンの妻で^一の母である喜世子(きよこ)も同じでした。彼女は女優でしたが、同時にずっとエノケンを支えてきました。が、息子を失ったあと、喜世子はエノケンに離婚を申し入れたのです。芸に命をかけて家庭をかえりみず、浴びるほど酒を飲んで愛人を持ち、金銭感覚のない借金まみれのエノケンに愛想をつかしていたのです。けれどエノケンは、離婚に同意しませんでした。ただ、それ以後は、すっかり夫婦関係は冷め切りました。  1962年、脱疽が再発します。足指の切断から十年後のことです。激痛のため眠れませんでしたが、入院すれば足を切断しなくてはならないので、病院には行きませんでした。このため、東大病院にかつぎ込まれたときは、ひどく悪化していました。エノケンは膝から下にしてほしいと頼みますが、結局、右足は大腿部から切断せざるをえませんでした。舞台俳優にとって、死刑宣告に等しいものです。  退院して自宅に戻ったとき息子はおらず、広い屋敷には、よそよそしい妻とお手伝いさんだけ。この現実に耐え切れなくなって、エノケンは首に電気コードを巻きつけようとしますが、片足なのでバランスをくずして倒れ、音を聞きつけた妻に見つかって、自殺は未遂になりました。 右足を失ったあとも失われなかった舞台への情熱  しばらく放心の日々が続きますが、やがて「右足がなくても芝居はできる」と思い始めたのです。そして義足をつけて歩行訓練に励み、舞台でも座れるようバネで膝を曲げられる義足をつくりました。そして驚くべきことに、右足を失ってからわずか8カ月後(1963年5月)、エノケンは新宿コマ劇場の舞台に立ったのです。  ただ、義足で舞台に立つのは並大抵のことではありません。切断部がこすれて出血し、血で切断部の包帯にこびりつき、はがすとき激痛がはしりました。  1967年、妻の喜世子との協議離婚が成立します。エノケンはすでに還暦を過ぎ、62歳になっていました。ところがこの年、エノケンは戸塚(とつか)よしえと再婚しました。財産はすべて喜世子に渡し、風呂敷包み一つでよしえのところへ行ったそうです。  エノケンの最後の芝居は、1969年の帝国劇場の『最後の伝令』の演出でした。  車椅子のエノケンは、役者たちに厳しい演技指導を行いました。  「『最後の伝令』の幕切れ、戦場で瀕死の重傷を負ったトムが死んでいく場面の稽古で、車椅子から立ち上がった榎本健一は、自ら90度の角度で倒れて見せ、トム役の財津(ざいつ)一郎(いちろう)に手本をしめしました。固い稽古場の床に仰むけに倒れたエノケンは、義足のため立ちあがることができず、倒れたままのかたちで、目をうるませながら、『ここまで演らなきゃ駄目なんだ』と叫び、『喜劇を演ろうと思うな』」(矢野誠一著『エノケン・ロッパの時代』岩波新書)と怒鳴ったといいます。  翌年の元旦、体調不良と黄疸(おうだん)が激しいので家人が心配し「カメラを買いに行こう」とだまして日本大学駿河台病院に連れて行き、エノケンを強制入院させました。すでに末期の肝硬変でした。それから一週間後に容態が急変します。  「おーい。船が出るぞ。ドラだ。ドラが鳴っているよ」  というのが、エノケンの最後の言葉でした。享年65歳でした。  戦前は喜劇王とよばれたエノケン、戦後は不幸続きの人生でしたが、どんな苦難にあっても決してへこたれず、最後の最後まで俳優の道を捨てなかったその生き方は、敬服に値します。 偉人たちのセカンドキャリア 第12回 自分の余命を楽しんで生きた“東洋のルソー” 中江(なかえ)兆民(ちょうみん) 歴史作家 河合(かわい)敦(あつし) フランス留学から帰国し国政の舞台へ  中江兆民は、フランスの思想家ルソーの『社会契約論』を翻訳して『民約訳解』を出版し、自由民権思想を広めた人物です。すべての高校日本史の教科書に登場する重要人物で、当時から「東洋のルソー」と称えられていました。  土佐藩の足軽の家に生まれた兆民は、長崎でフランス語を学び、1868(明治元)年、欧米に岩倉使節団が派遣されることを知ると、政府の大久保(おおくぼ)利通(としみち)の馬丁と親しくなって邸内へ入り込み、いきなり大久保に留学を直訴しました。すると大久保は、この若者の無礼な頼みをかなえてやったのです。兆民25歳でした。兆民はパリで法律や哲学、歴史を学んで、1874年に帰国、当時としては極めて珍しい仏学塾を開きました。翌年、政府の元老院権少書記官に任ぜられましたが、1877年に退職して自由民権運動に邁進するようになります。1880年に『東洋自由新聞』を創刊、主筆として民権思想を世間に広め、やがて板垣(いたがき)退助(たいすけ)が創設した自由党に入って機関紙の自由新聞や東雲新聞の主筆として活躍しました。そして第1回の衆議院議員選挙が実施されると、大阪4区から出馬して当選したのです。  こうして代議士となった兆民でしたが、時の山県(やまがた)有朋(ありとも)内閣は自由党の代議士の一部を買収して政府の予算案を通過させます。これを知った兆民は「議会は血の通わぬ虫たちの陳列場だ」と激しく非難し、衆議院議長の中島(なかじま)信行(のぶゆき)(自由党副総理)に辞職願いを提出しました。そこには「小生事(私)、近日亜爾格児中毒病(アルコール依存症)相発シ、行歩艱難(歩行困難)、何分採決ノ数ニ列シ難ク、因テ辞職仕候」と国政を愚弄するような言葉が書き連ねてありました。 あちこちを走り回る波乱万丈の人生  さて、それからの兆民です。意外にも北海道の小樽に拠点を移して北門新報(新聞)を創刊しますが、翌年には東京に戻って再び総選挙に出馬したのです。ところが落選してしまいます。そこでまた小樽へ戻り、さらに札幌へ住居を移します。しかも新聞社を辞めて紙問屋をはじめ、山林伐採事業に手を出し、さらに諸鉄道の設立など投機的な商売をはじめました。けれど、どれも軌道に乗らずあちこち金策して回る状況に陥ってしまいました。啖呵を切って議員を辞職したまではよかったのですが、その後は転落していったのです。  ただ、そもそも若いころから兆民は常識人とはいいがたい性格で、死後すぐに『中江兆民奇行談』(岩崎(いわさき)徂堂(そどう)著)なる書籍が刊行されるほどでした。  見合いの席で酔っぱらって睾丸を引き延ばして酒を注いでみせたり、座敷の火鉢に向かって放尿したり、公道の天水桶に服を着たまま首まで浸かって警察官に咎められたりしています。このため一度目の結婚には失敗し、43歳のときに旅館「金虎館」の女主人である松沢ちのと再婚しました。  1898年、兆民は国民党を立ち上げますが、総選挙で一人の当選者も出すことができず、党は自然消滅しました。その後は、近衛(このえ)篤麿(あつまろ)の主宰する国民同盟会という国粋主義的な団体の遊説委員になるなど、それまでの主張とまったく異なる活動をはじめたのです。  1901年3月、兆民は練炭製造会社をつくろうと、大阪へ向かう準備をしていましたが、突然、喉が切れ大量の血を吐いてしまいます。前年から喉の調子はよくなかったのですが、病院では咽喉カタルだと診断されていました。出血はどうにか止まったので、兆民はそのまま大阪へ行きましたが、会った友人は憔悴した兆民を見て驚きました。大阪滞在中も喉の痛みは激しくなる一方で、呼吸も苦しくなってきました。そこでたまらず医師の診察を受けると、喉頭がんの可能性を指摘されたのです。 1年半の余命宣告 「楽む可き事」を重視して生きる  投薬治療を受けたものの、呼吸困難はひどくなるばかり。そこでついに兆民は、同年5月に気管の切開手術を受けました。これにより、声を失いました。兆民は担当医の堀内(ほりうち)謙吉(けんきち)に迫って自分の余命を聞き出します。当時、余命宣告はなかったので堀内はためらいますが、やがて兆民に「余命は1年半から2年である」と告げました。  すると兆民は、あと5〜6カ月の命だと思っていたので「1年とは余のためには寿命の豊年なり」と述べ、ただちに遺稿の執筆をはじめ、はやくも8月に脱稿しました。これが『一年有半』で、翌月、博文館から出版されるとベストセラーとなり、売上げは20万部に達しました。  著書のなかで兆民は、余命を尋ねた理由を次のように認めています。  「堀内(謙吉医師)を訪ひ、予め諱いむこと無く(余命を)明言(宣告)し呉れんことを請ひ、因て是より愈々(いよいよ)臨終に至る迄、猶幾日月有る可きを問ふ。即ち此間に為す可き事と又楽む可き事と有るが故に、一日たりとも多く利用せんと欲するが故に、斯く問ふて今後の心得を為さんと思へり」  このように兆民は寿命が尽きるのを冷静に受け入れ、「為す可き事」だけでなく、「楽む可き事」をその間に十分にしようと考えたのです。なんともポジティブな人です。  実際に兆民は『一年有半』の執筆に力を尽くすとともに、体調のよい日には芝居や寄席に出かけました。ただ、9月に東京へ戻った兆民は、喉の腫れと激痛のために寝るのもままならなくなり、枕の上に手を重ねて額を支え伏して休む状態になります。  そこで往診に来た東京帝国医科大学の岡田(おかだ)和一郎(わいちろう)医師に、兆民は再度死期を尋ねます。岡田医師が「来年の2〜3月ごろまでは大丈夫」と伝えると、兆民はこの苦しみがまだ半年も続くのかとがっかりした表情を見せたといいます。しかし医師が痛みは薬で抑えられるといったので、元気を取り戻した兆民は『続一年有半』を書きはじめました。このときのエネルギーはすさまじく、わずか10日間で原稿を書き上げました。10月15日、この本は再び博文館から出版され、好調な売れ行きを見せました。  が、それからまもなく兆民の衰弱は激しくなり、12月上旬になると意識は混濁していきました。そして12月13日、55歳の生涯を閉じたのです。死亡したとき、体重はわずか20キロしかなかったそうです。「1年半」と余命を宣告されてから8カ月後のことでした。  なお、兆民の遺体は生前の遺言によって、東京帝国大学医科大学病院で解剖に回されました。その結果、彼の病は喉頭がんではなく食道がんだったことが判明しました。  無神論者だった兆民の告別式は、青山会葬場において「無神無霊魂」(無宗教)で執行され、弔辞は盟友の板垣退助が読み上げ、遺骨は青山墓地に葬られました。 偉人たちのセカンドキャリア 歴史作家 河合(かわい)敦(あつし) 第13回 日本に戒律を伝えたその陰で… 鑑真(がんじん) 5回の失敗、12年の歳月をかけて日本へ渡海  朝廷で「唐から高僧を招こう」と決まったのは、733(天平5)年のことでした。仏教の戒律を受けなくては正式な僧と認められませんでしたが、我が国には戒を授けられる高僧が少なく、儀式も不十分なものでした。そこで唐に留学していた栄叡(ようえい)と普ふ照しょうが帰国に際し、楊州大明寺(ようしゅうだいめいじ)の鑑真を訪ねたのです。鑑真は4万人以上に戒を授けた戒律の師として有名だったからです。二人は鑑真に高弟を日本に招きたいと懇請しました。快諾した鑑真は渡海希望者を募りますが、だれも引き受け手がいません。すると鑑真は「仏教のためではないか。なぜ身命を惜しむのか。皆が行かぬのなら私が赴く」と述べたのです。  こうして鑑真の来日が決まりますが、5度も渡海を企てながら失敗をくり返し、ようやく6度目の挑戦で日本の地を踏むことができました。753(天平勝宝5)年12月のことでした。足かけ12年の月日が過ぎ、その間、鑑真は視力を失いました。  翌年2月、鑑真一行が奈良の都へ入ると、多くの貴族や僧が出迎えました。一行はそのまま東大寺へ入り、完成間近だった盧舎那(るしゃな)大仏を目にします。案内役の東大寺別当の良弁(ろうべん)が「唐にもこのような大きな仏像はございますか」と尋ねたところ、鑑真は「ありませんね」と答えたといいます。鑑真は朝廷が建てた東大寺境内の唐禅院(僧坊)に住むことになりました。同年3月、勅使・吉備真備(きびのまきび)が鑑真のもとを訪れ、聖武上皇の次の言葉を伝えました。  「遠く荒波を越えてやって来てくださったのは、私の意に沿い、たとえることができないくらい嬉しい。東大寺を造って十年余りが経つが、ずっと戒壇を設けて戒を伝授させたいと考えてきた。今後はあなたに授戒伝律のことをすべて一任したい」  以後、僧になるためには必ず鑑真から戒を受けることになりました。翌4月には聖武上皇が東大寺を訪れ、大仏殿の前に臨時に築いた戒壇で鑑真から菩薩戒を授けられ、同じく孝謙天皇や光明皇太后など400人以上が戒を受けました。 要職に就き活躍するもじつは反対派も多かった  同年7月、聖武上皇の実母・宮子太皇太后の病が重くなったとき、鑑真は薬を調合して与え、一時、病状を改善させました。じつは鑑真は最新の医学知識も有していたのです。鑑真がもたらしたのは薬の知識だけではなく、貴重な仏具、ガラス製の瓶、唐の最新建築や彫刻技術なども伝えました。さらに書聖と呼ばれ、4世紀に活躍した王(おう)羲之(ぎし)の貴重な直筆を持参し、日本の書道に発展をもたらしたのです。  10月、東大寺に戒壇院が完成します。ただ、「戒律を受けなくとも、これまでのやり方で十分」と主張する僧侶もおり、鑑真と反対派との公開討論が興福寺で行われました。論争は反対派の惨敗に終わりますが、その後も一部の反発は続きます。例えば756年4月、朝廷は重病の聖武上皇のために鑑真らに病の平癒を祈願させました。この折、参列した僧たちに鑑真が受戒をすすめると、興福寺の法寂(ほうじゃく)は暴言を吐きました。ところがそのとたん、法寂は昏倒してしまったのです。人びとは大いに驚いたといいます。  翌5月、聖武上皇は崩御しますが、その月に僧綱(仏教を管理するために設置された組織)での人事が刷新され、鑑真は大僧都(だいそうず)となりました。  758(天平宝字2)年、鑑真は大和上(だいわじょう)の尊号を朝廷から与えられますが、朝廷の官職からは離れることになりました。すでに71歳になっていたためです。翌年、鑑真は新田部(にいたべ)親王の旧宅を与えられました。そこで思し託たくや義静(ぎじょう)ら弟子を連れてこの地に移り住み、私寺を営むようになりました。寺の名は唐律招提、のちの唐招提寺です。  ただ、寺院の運営費が国費(備前の田圃百町の収益)から出ていることに対し、非難する僧たちがあったようです。ここからわかる通り、日本の僧たちの間では、鑑真ら唐僧をこころよく思わなかった勢力が根強く存在していたのです。  そこで唐僧の思託は、師の来日の意図が後世に正しく伝わるよう、鑑真の生前にその伝記を記しました。これが、『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』です。残念ながら鎌倉時代以降、文章が散逸してその内容はわからなくなってしまいました。  現在、一般に流布している鑑真の業績は、『唐大和上東征伝』に記された内容です。これは鑑真の弟子で、日本最古の図書館をつくった人物として教科書にも登場する淡海三船(おうみのみふね)が編纂した伝記です。779(宝亀10)年の成立ですが、もともとは思託の伝記を短くまとめたものだと伝えられています。 さまざまな逸話が残る鑑真の晩年  鑑真は、数年間を唐律招提で静かに過ごし、763年、76歳で没しました。亡くなる前、弟子の忍基(にんき)が唐招提寺の講堂の梁が砕け折れる夢を見ました。お堂の梁が折れる夢というのは、偉いお坊さんが没する前兆だとされています。  そこで忍基は、鑑真の死期が近いことを知り、大勢の弟子たちとともに鑑真の像をつくりました。じつはこれが、現在国宝になっている「鑑真和上坐像」です。まさに鑑真が生けるがごとき見事な像です。  鑑真は生前、「私は死ぬとき、坐したまま死にたいと考えている」と弟子たちに語っていましたが、まさにその通り、寺の宿房で西を向いて座ったまま亡くなりました。  亡くなる前、「死んだら私のために別に御影堂を建て、いま住んでいる僧房は、僧侶たちに与えて欲しい」と遺言したので、その通りにしたといいます。  ちなみに鑑真の死に関して、先に紹介した『唐大和上東征伝』に不可思議な伝承が記されています。鑑真の遺体は死後三日経っても、頭頂部が体温を保ったままだったというのです。このため、しばらくの間、その亡骸を葬ることができませんでした。しかも遺骸を火葬にした際、辺り一帯になんとも言えぬ良い芳香がただよったといわれています。  鑑真の訃報を知らせる朝廷の使いが唐の揚州に届くと、諸寺院の僧侶たちは喪服を身につけ、日本に向かって三日のあいだ哀悼の意を捧げ、さらに龍興寺に集まって大斎会(だいさいえ)を執り行いました。その後、龍興寺は火事のために焼けてしまいますが、鑑真が住んでいた宿坊だけが焼失を免れたので、人びとは鑑真の遺徳であると噂しあったといいます。  歴史の教科書には、「高僧・鑑真は苦難を乗り越え来日して戒律を伝えた」としか記されていませんが、じつは戒律以外にもさまざまな最新の知識や技術を伝え、戒律を日本仏教界に定着させるため反対派と戦い続けて亡くなったのです。 偉人たちのセカンドキャリア 歴史作家 河合(かわい) 敦(あつし) 第14回 歌舞伎の歴史に名を刻む偉大な初代 市川(いちかわ)團十郎(だんじゅうろう) 歌舞伎に革新をもたらした新星  歌舞伎に新風を吹き込んだ名優・市川團十郎(初代)は、1673(延宝元)年、14歳で初めて舞台にのぼります。このとき「四天王稚立(してんのうおさなだち)」という演目で坂田(さかた)金時(きんとき)(金太郎)役を演じましたが、その演技に観客たちは度肝を抜かれてしまいます。というのは、顔に紅と墨で異様な化粧をほどこし、斧を片手に舞台上で跳ね、飛び、廻りといった激しいアクションを披露したからでした。このような演出や躍動的な動きは、それまでの歌舞伎には一切見られないものでした。以後、團十郎の激しい演技は荒事(あらごと)と呼ばれ、たちまち江戸歌舞伎の人気俳優の仲間入りを果たしたのです。  29歳のとき、ようやく跡継ぎの九蔵(二代目團十郎)も生まれ、まさに飛ぶ鳥を落とすような勢いを見せた團十郎でしたが、それから数年も経つと、ぱたりと座元(興行主)から出演契約の依頼が来なくなってしまったのです。  原因の一つは、團十郎の尊大さにありました。人気俳優であることを鼻にかけ、座元や役者仲間に冷淡で、どうもひんしゅくを買っていたようです。ただ、最大の理由は、契約料の高騰でした。團十郎は座元と三百両で契約していましたが、当時として破格の高値だったので、座元たちは團十郎との契約を解除し、もっと安く使える女形や立役(成人した役者)と契約を結んで顔見世興行を華やかにしたほうが儲かると考えたのです。  これを知った團十郎は大いに反省し、次のような願文(がんもん)(神仏への誓約書)をしたためています。  「私はこの苦境を脱するため、これからは三宝荒神(さんぽうこうじん)、上野両大師、不動明王、愛染明王など神仏への参拝や参詣を怠らず、父母存命中は禁酒し、妻以外の女と交わらず、男色を断つことを誓う」  これを見ると、当時の彼の生活がいかに乱れていたかがよくわかります。ただ、偉いのは、初演から数えて20年(34歳)のベテラン俳優だったのに、己の運命を開くために思い切った行動に出たことです。團十郎は、拠点である江戸を離れることを決め、妻子や弟子を連れ、思い切って上方へ向かったのです。じつはこの時期の歌舞伎は、江戸より上方歌舞伎のほうが盛んでした。團十郎は歌舞伎の本場で己の力を試そうと考えたのです。 関西でスタートしたセカンドキャリア  1694(元禄7)年正月、京都の村山座(村 山平右衛門が座元)での團十郎の出演が決まりま した。すでに上方でも團十郎は名優として知られ ていました。だから噂を聞きつけ芝居小屋に20 00人が詰めかけたのです。演目「巡逢恋七夕(めぐりあいこいのたなばた)」の牽牛(けんぎゅう)役としての團十郎の演技は大いに評判となり、大坂や堺からも客が集まってきました。こうして上方で大当たりをとった團十郎は、江戸へ戻りました。短期間でしたが、團十郎は上方歌舞伎からさまざまなものを吸収し、演技もかなり変化したといわれています。  それだけではありません。上方歌舞伎に啓発され、三升屋(みますや)兵庫(ひょうご)というペンネームで次々と新作の歌舞伎脚本を書き、その作品を自分で演じるようになったのです。現在もよく知られている「不破(ふわ)」、「暫(しばらく)」、「象引(ぞうひき)」、「勧進帳(かんじんちょう)」なども、團十郎のオリジナル作品です。合作も含めると、作品数は60本を超えるといわれています。己の演技を一番よく知るのは自分自身。だからこそ、他人の脚本を演じるのではなく、自分に適した筋を書くことで舞台上で一番輝けるようにしたのだと思います。  團十郎は舞台装置にも工夫をこらすようになりました。1700(元禄13)年の森田座の公演では、はじめて「宙乗り」を披露し、客をアッといわせました。曾我兄弟の敵討ちで知られる曾我五郎役を演じた團十郎が、念を込めて息を放つと、なかから曾我五郎の分身が姿をあらわし、空中で自在に動くというものです。その分身役を演じたのは、九歳の息子・九蔵(くぞう)でした。大ヒットを連発したこともあって、團十郎の契約料もアップし、最終的に八百両まで上がったといいます。 45歳で早逝も、その演技と不屈の精神は後世へ  このように團十郎は、江戸歌舞伎で頂点に立った後、落ち目になった人気を挽回すべく、思い切って上方に進出し、そこで多くのものを学び、再び江戸で見事な復活をとげたのです。こうして絶頂期を迎えた團十郎でしたが、45歳のとき、にわかに亡くなりました。病死や事故死ではなく、殺害されたのです。  1704年2月19日、その日はやってきました。團十郎は市村座で自分の脚本(狂言)「移徒十二段」で佐藤忠信役を演じていました。忠信は源平時代に活躍した源義経の重臣で、最後は頼朝の軍勢に襲撃され京都で奮戦のすえ自害した人。そんな悲劇の武将を演じている最中、役者仲間の生島(いくしま)半六(はんろく)が團十郎に近づき、なんと、舞台上で刺殺したのです。  残念ながら、どんな殺され方をしたのかなどは一切記録に残っていません。殺された原因もはっきりしません。女性関係のもつれだとか、半六が不倫を團十郎に諫められて逆上したとか、半六の息子・善次郎を團十郎がいじめたからだなどといわれていますが、本当のところはわかっていません。これほどの名優が舞台で殺されたのに詳細がわからないのは、関係者が完全に口をつぐんだからだと思います。何か知られてはまずい重大な秘密があったのでしょう。いずれにせよ、あっけない幕切れでした。  ただ、團十郎の死は大いに惜しまれ、翌年には『宝永(ほうえい)忠信(ただのぶ)物語(ものがたり)』と題し、團十郎を追悼する書物が刊行されています。そのなかに同じ年に没した初代・坂東(ばんどう)又太郎(またたろう)があの世の賽(さい)の河原で新作をつくって興行を行うという話が登場します。服部幸雄氏によると、「名優が没すると、西方浄土の極楽芝居へ出演するために旅立ったとする追善の文章や死絵が制作されることが多い。この本はその早い例」(『市川團十郎代々』講談社学術文庫)だといいます。  さて、このとき九蔵(二代目團十郎)はまだ17歳でした。しかし、幼いころから父に舞台に引き出され、子役として第一線で活躍していたため、間近で父親の演技をみていました。けれど、やっかみもあったのか、父の死後は軽い役しか与えられず、かなり悔しい思いをしたようです。しかしめげずに精進と努力をかさね、最終的に父親を超える千両役者になっています。  悲惨な最期をとげた初代團十郎でしたが、己の演技と不屈の精神を息子に継承することができたわけです。以後、市川團十郎家は代々名優を輩出し、歌舞伎界になくてはならない存在となり、現在十三代を数えるまでになっています。 偉人たちのセカンドキャリア 歴史作家 河合(かわい)敦(あつし) 最終回 生涯現役で絵を描き続ける 葛飾(かつしか)北斎(ほくさい) 絵を描くのが好きだが、生活はいい加減  葛飾北斎といえば富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろくけい)が有名ですが、彼が描いた絵は3万点を超えています。これほどの多くの作品を送り出すことができたのは、長生きであったうえ生涯現役だったからです。今回は、北斎の生き方に焦点をあてていこうと思います。  1760(宝暦10)年に江戸の本所割下水(ほんじょわりげすい)で生まれた北斎は、幼いころから絵を描くのが好きで、19歳で勝川(かつかわ)春章(しゅんしょう)の弟子となり、勝川(かつかわ)春朗(しゅんろう)と名乗って浮世絵師として活躍します。ところが30代半ばで勝川派を破門になり、仕方なく俵屋(たわらや)一派に入って2代目俵屋宗理(そうり)として肉筆画を描いていました。しかし10年後に浮世絵の世界に戻って葛飾北斎と号し、読本作家・曲亭馬琴(きょくていばきん)の挿絵で名が知られるようになりました。  北斎は毎日朝から晩まで描き続け、腕が萎え目が疲れてようやく筆を置くのが日課でした。9月下旬から4月上旬までは炬燵のなかで仕事をし、夜も炬燵で寝、掃除をしないので炬燵ぶとんはシラミだらけでした。炊事もせず、3度の食事は近くの煮売屋に運ばせ、料理を包む竹皮や重箱は部屋に放置したので散らかり放題。ゴミだらけになると転居したといいます。なんと生涯に93回も引っ越しています。  60歳を過ぎたころには有名画家となり、原画は高額で買い取られましたが、北斎は紙に包まれた礼金を確かめもせず、部屋にほうり投げておきました。このため食費や絵の具代などを徴収に来る商人たちは、ゴミのなかから包まれた礼金を勝手に持ち出し、思った以上に金が入っていれば超過分は着服、不足の際は残金を催促に来たそうです。そんな無頓着な北斎が、唯一執着したのが長生きをすることでした。 70歳を超えても止まらない向上心  75歳になった1834(天保5)年、北斎は富嶽三十六景に続いて大作『富嶽百景(ひゃっけい)』を刊行しますが、巻末に次のような言葉を記しています。  「6歳から絵を描いてきたが、70歳前まで描いた絵はじつに取るに足らないものだった。73歳になって少しだけうまく様子を描くことができるようになった。きっと87歳になればもっと上手になり、90歳で奥義(おうぎ)をきわめ、100歳で神妙(しんみょう)の域に達するだろう。百数十歳になれば一点一格がまるで生きているがごとくに描けるはず。どうか長生きした方々は、私の予言があたったことを見てほしい」  このように北斎は絵がうまくなるため長生きを目ざし、ひたすら描き続けたのです。  あるとき北斎の弟子・露木(つゆき)為一(いいつ)が北斎の娘・阿栄(おえい)に「筆がうまく運ばない。才能がないのかもしれない」とため息をつきます。すると阿栄は笑って「父は幼いころから80歳のいまにいたるまで毎日描き続けていますが、この前、腕を組んで、私は猫一匹もきちんと描くことができないと涙を流し、嘆息しておりました。己はダメだと自らを棄てようとするときこそ、じつは上達する機会なのです」と助言しました。すると、横で娘の言葉を聞いていた北斎は「まさにその通りだ」と大きく頷いたといいます。  北斎のあくなき絵画上達への執念がわかります。晩年の北斎は肉筆画に力を入れます。83歳のときからは、門弟の高井(たかい)鴻山(こうざん)の依頼によってたびたび信濃国小布施(おぶせ)村を訪れ、娘の阿栄とともに祭屋台の天井画をはじめ、いくつもの作品を遺しました。特に88歳のときに描いた岩松院(がんしょういん)本堂の天井画「八方睨み鳳凰図(ほうおうず)」は20畳を超える大きさ。力強く鮮やかな色彩で、とても卒寿の老人が描いたとは思えない見事さです。この年には鳳凰図のほか、北斎は多くの肉筆画を描いています。  当時の北斎のことを記した手紙(戯作者の笠亭(りゅうてい)仙果(てんか)の医師・平出(ひらで)順益(じゅんえき)宛書簡)には、北斎が「眼鏡をかけず曲描きや細かな版下絵が描け、背もかがんでいなかった。春ごろには雨降りに足駄(雨天用の二枚歯の高下駄)をはき、西両国から日本橋まで行き来しても、何ともない達者であった」(永田生慈著『葛飾北斎』〈吉川弘文館〉)と記されています。  89歳の1848(弘化5)年に刊行した「絵本彩色通」の跋ばつ文ぶんには、「90歳になったらまた画風を一新し、100歳以降はこの画道を改革することだけに邁進する」と述べています。驚くべき気力の充実と、進歩への希求といえるでしょう。 好きなことをやり続けて生涯を終える  しかし、北斎も不死身ではありません。卒寿(90歳)になった年、にわかに病にかかり、薬も効かない容態となってしまいました。  医師は阿栄に向かって「老衰だから、治らない」と宣告したそうです。それ以来、阿栄のほか門人たちも入れ替わり立ち替わり献身的に看病しましたが、北斎の衰弱は激しく、ついに浅草聖天町(あさくさしょうでんちょう)の遍照院(へんじょういん)境内にある仮宅でいよいよ臨終のときを迎えます。  このおり多くの門人や友人たちが集まってきましたが、北斎は嘆息し「天があと10年、いや5年の命を長らえさせてくれたら、私は真正の画工になれたのに」と告げ、そのまま亡くなったそうです。1849(嘉永2)年4月18日未明のことでした。  辞世は「飛と魂でゆくきさんじや夏の原」  「気晴らしに、人魂になって夏の草原をゆらゆらと飛んで行こうかな」という意味で、北斎らしい粋(いき)な句です。  さて、改めて北斎が生涯現役を貫くことができた理由ですが、いま述べたように、絵を描くこと以外は何もしなかったことが大きいと思います。煩わしい人付き合いも避けました。道ばたで知人にあっても「こんにちは」、「やあ」というだけで、立ち止まって挨拶をすることはなかったそうです。ときには歩きながら法華経をとなえ続け、知人が目に入らないふりをしたともいいます。  金や権力にも無頓着でした。例えば南部藩主・津軽氏が北斎に屏風絵を描かせようと家臣を遣わしたことがあります。その家臣は北斎に5両をにぎらせて同行を求めましたが、いうことを聞きません。怒った武士は「お前を殺してこの場で腹を切る」と叫びますが、それでも北斎が首を縦にふることはありませんでした。ところが、です。それから数カ月後、北斎はふらりと南部藩邸を訪れ、屏風絵を描きはじめたそうです。  「やりたくないことは、どんなに金を積まれても脅されてもやらない。しかし気分が乗れば、喜んで筆をとる」。そうした気質が健康と長生きにつながり、結果として売れっ子絵師になることができたのだと思います。人に一切媚びたりせず、ひたすら大好きなことだけをやり続けて生きていくことができた北斎。しかも生涯現役、何ともうらやましい人生といえるでしょう。