偉人たちのセカンドキャリア 歴史作家 河合(かわい)敦(あつし) 第1回 社会改良に心血を注いだセカンドキャリア 板垣(いたがき)退助(たいすけ) 明治維新を戦い抜き政府要職へ63歳で政界から引退  歴史人物のなかには、功成遂げてから悠々自適の晩年を送らず、まったく違ったセカンドキャリアを過ごす人物も少なくありません。そこで今回からは意外な後半生を送った偉人たちを紹介していきます。  板垣退助は自由民権運動のリーダーとして知られ、かつては百円札の肖像でしたので、その容貌を思い出せる方も多いと思います。暴漢に襲われたとき「板垣死すとも、自由は死せず」と叫んだという逸話も有名ですね。  退助は1837(天保8)年、土佐藩士乾(いぬい)正成(まさしげ)の長男として高知城下に生まれ、幕末になると、藩の上士武士でありながら郷士(下級武士)と結んで倒幕派の中心となり、戊辰(ぼしん)戦争では土佐軍を率いて抜群の活躍をしました。そのため新政府から永世禄千石を下賜(かし)され、幼なじみの後藤(ごとう)象二郎(しょうじろう)とともに政府の参議になりました。けれど1873(明治6)年、征韓論(朝鮮を武力で征伐するという主張)に敗れ、薩摩の西郷(さいごう)隆盛(たかもり)らと下野(げや)(辞職)します。  翌年、退助は下野した参議たちと民撰議院(国会)設立の建白書を政府へ提出、有司(一部の人々)専制を批判します。この主張は人々に感銘を与え、自由民権運動のきっかけとなり、やがて退助は日本初の政党・自由党を創設して総裁(党主)となり、政党内閣を目ざして薩長藩閥政府と激しく対立しました。  日清戦争後、自由党は伊藤(いとう)博文(ひろぶみ)に近づき、第二次伊藤内閣で退助は内務大臣を務めますが、その後袂たもとを分かち、大隈(おおくま)重信(しげのぶ)の進歩党と合同して憲政党をつくり、1898年、同党を背景に組織された第一次大隈内閣で、退助は副総理格として内務大臣に就任します。しかし数カ月後、与党内不一致で同内閣は瓦解してしまいました。  このころから退助は、党利党略による醜い争い、政治家の金権体質、ひどく解散を恐れる代議士など、政治の世界に愛想を尽かすようになり、翌1899年に引退を表明しました。63歳でした。  ただ、その後に悠々自適な人生を送ったわけではありません。社会改良運動に力を注いでいったのです。 政界引退後、社会のさまざまな問題を解決するための活動をスタート  翌1900年2月、退助は西郷(さいごう)従道(じゅうどう)(隆盛の弟)と中央風俗改良会を立ち上げ、従道を会長に自分は副会長として社会改良運動を始めました。この運動は、家庭の改良、自治体の改良、公娼の廃止、小作や労働者の待遇改善といった、社会のさまざまな問題を解決して日本をよりよくしようという幅広いものでした。  退助は、社会をよくするためにはまず家庭の改良に着手することが必要だといいます。  「家庭は人類の共同生活の第一段階で、人は家庭のなかで智徳を養成し、社会の一員として活動することができるからだ。ところが日本の家族制度は家父長制という封建制度の悪しき風習が残っており、家族はずっと家長に絶対服従を強いられてきた。これはまるで、専制国家の君主と人民の関係だ。すでに我が国では立憲制が確立されている。その仕組みを家庭にも取り入れ、個人の自由を加味するなどして家長は家族を立憲制下の国民のように取り扱う必要がある」※1  そう語っています。さらに退助は、第二段階として自治体の改善も主張します。  「自治体は老年組、中年組、青年組の三組織で構成し、村から不良者が出たときは同年齢集団でこれを矯正し、争いも各集団で仲裁する。それでも治まらないときは三組織の連合会を開いて解決すべきだ。また、自治体は常に基金を蓄え、内部の貧者や困窮者に対して救護すべきだ」※2と述べています。  退助はこうした独自の考え方を各地で講演し、積極的に新聞取材にも応じ国内に広めて行こうと努め、1903年には風俗改良会の機関誌『友愛』を創刊します。  翌年、日露戦争が勃発し、戦死者や負傷兵も膨大な数に上りました。退助は兵士の遺族や身体に障害を負った兵士を支援する活動も積極的に展開していきました。  1907年、退助は850人の華族(元大名・公卿(くぎょう)、維新の功労者の家柄)に自分の意見書を送りました。華族という名称をなくし、爵位の世襲を廃止すべきだというものでした。退助は書面で意見に対する賛否を問いましたが、回答したのは37人。賛同者はそのうち12人でした。  退助は皇室を除いて、国民一般の間に階級という垣根を設けることは四民平等の理念に反すると考えており、華族(爵位)が世襲されることに疑問を持っていました。退助は、刑罰が子孫に及ばないのと同様、爵位の恩典も子孫に及ぼすべきではないとして「一代華族論」を主張、天皇と国民のあいだに華族という特権階級をつくれば、両者の間に溝をつくることになると非難しました。  さらに退助は、小作人の保護、公娼の廃止をとなえ、女性犯罪者の子どもを保護する施設を支援し、目の不自由な人から職を奪わぬよう、健常者が按摩(あんま)になることを禁止すべきだと主張しました。  ユニークなのは「米麦官営論」です。国民の常食である米や麦が投機の対象として価格が変動しているのを憂い、国が米麦を管理して国民に安く提供し、生活の心配を取り除くべきだと主張したのです。労働者のストライキについても、労働者の正当防衛だと擁護しています。ただ、暴力に訴えることには反対しました。 私財を投げ打って社会改良運動に後半生を注ぐ  人間平等や弱者に優しい社会をつくろうとした退助でしたが、社会主義や共産主義には賛同しませんでした。社会主義は無競争を生みだし、個人の才能や特技を発揮することができず、勤勉な人を怠け者にする考え方だと断じています。個人間や集団間での競争こそが、人類を進歩・向上させるのだという信念を持っていたのです。  功成り遂げた人間が、余暇と財産を持てあまして慈善事業に走るケースがありますが、退助の場合は単なる金持ちの道楽ではありませんでした。社会改良運動では己のもてる財産、賜金、寄付金などすべてを投げ出して活動しています。このため家屋敷も手放し、晩年住んでいたのは竹内(たけうち)綱(つな)からもらった屋敷でした。部屋が20以上もある大邸宅ですが、金がないので手入れもできず、すべての部屋が雨漏りするほどだったそうです。  このように退助は後半生、ほとんど政党とかかわりを持たず、社会改良会の総裁に就き、もっぱら社会問題の解決に後半生を注いだのです。  1919(大正8)年7月16日、退助は83歳で没しました。生前、一代華族論をとなえて世襲制に反対していたため、その子・鉾太郎(ほこたろう)は、亡父の遺志を継いで爵位を受けませんでした。 ※1・2 板垣(いたがき)守正(もりまさ)編『板垣退助全集』(原書房)より 第2回 旧幕府軍から新政府の要職に就任 若くして始まったセカンドキャリア 榎本(えのもと)武揚(たけあき) 戊辰(ぼしん)戦争最後の舞台・箱館でセカンドキャリアがスタート  榎本武揚は、幕臣・榎本(えのもと)円兵衛(えんべえ)の次男として1836(天保7)年に生まれ、長崎の海軍伝習所で学んでオランダに留学した後、海軍奉行を経て海軍副総裁に就任しました。  鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川家は、江戸城を無条件で新政府軍に明け渡しますが、このとき武揚は旧幕府艦隊の引き渡しを拒み、1868(明治元)年7月、軍艦8隻で品川から脱走し、新政府に敵対する東北諸藩を海上から支援。その後、仙台に集結した旧幕府方の兵を乗船させ10月に蝦夷地へとわたり、全島を制圧して箱館の五稜郭を拠点に政権を打ち立てました。しかし翌年5月、上陸してきた新政府軍に敗れて降伏しました。  当初、新政府内では武揚を処刑すべきだという声が強かったのですが、新政府軍参謀として武揚と戦った黒田(くろだ)清隆(きよたか)が強く助命を主張したことで、1872(明治5)年に釈放されました。そしてなんと開拓使の官僚として新政府に雇用されたのです。開拓使は北海道開拓のためにおかれた省庁で、開拓使次官の黒田清隆が武揚を引き入れたのです。同年、武揚は箱館付近の鉱物調査のため3年ぶりに箱館を訪れました。市街の建物には弾痕も痛々しく残っていたと思われ、きっと武揚の心にさまざまな思いが去来したことでしょう。後に武揚は箱館戦争で生き残った仲間と金を出し合い、高さ8メートルの巨大な慰霊碑(碧血碑(へっけつひ))を建てました。 ロシアとの領土問題など外交で手腕を振るう  1874年正月、ロシアとの領土問題を解決するため、新政府は武揚を特命全権公使に任じペテルブルクに派遣します。幕末の日露和親条約で日露の国境は、択捉島(えとろふとう)から南を日本領、得撫島(うるっぷとう)より北をロシア領とし、樺太(からふと)(サハリン)については両国人雑居の地となっていました。  ところがその後、ロシアが樺太支配をもくろみ、囚人や軍人を送って日本人の村に圧迫を加えるようになります。日本政府は北海道の開拓だけで手一杯だったので、やむなく樺太を放棄することにしました。その交渉役としてオランダに留学経験があり、外交交渉も巧みな武揚が全権使節に任じられたのです。  渡海前、武揚は海軍中将に任命されました。海軍大将は存在しなかったので、海軍の最高位でした。日本全権としてふさわしい地位を与えたのだといいます。  交渉で武揚は樺太を放棄するといわず、あえて日露の国境を定めてほしいと主張しました。しかしロシア側は全島の領有を主張。これに妥協するかたちで武揚は、得撫島と近くの三島、ロシアの軍艦、樺太のクシュンコタンを無税の港とすることを要求したのです。最終的に、樺太を渡すかわりにロシアに「千島列島を日本領とすること。十年間のクシュンコタンの無税化。近くでの漁業権」を認めさせ、1875年5月に千島・樺太交換条約を結びました。  条約締結後、武揚はヨーロッパ各地をめぐって見聞を広げ、その後はペテルブルクでロシアの情報を調べて本国に送り、1878年に帰国します。帰国にあたって武揚は、ペテルブルクから馬車でシベリアの一万キロ以上を踏破して北海道から日本へ戻ってこようと思いたちました。  家族宛の手紙には、「日本人はロシア人を大いに恐れ、今にも北海道を襲うのではないかと言っている。そんなことは全くのデマであることを私はよく知っている。だから私はロシアのシベリア領を堂々と踏破し、その臆病を覚ましてやるのだ」といった内容が書かれています。  そして帰国旅行では、シベリアの政情、軍事、経済、文化、施設や工場、言語や自然、住人や宗教などあらゆるものを書きとめました。例えば、狼が急に現れて馬車に伴走し身の危険を感じたこと。南京虫や蚊、アブやブヨに苦しまされたこと。罪人の流刑地での悲惨な生活。蜂の巣のまま蜂蜜を食べる風習など。こうした記録は、いまとなってはたいへん貴重なものといえます。  帰国後の1879年、武揚は外交的手腕を買われて外務大輔(次官)に登用されますが、翌年には海軍卿に就任しています。さらに1882年、駐在特命全権公使となって清国に赴任。次いで伊藤(いとう)博文(ひろぶみ)が初代総理大臣として組閣した際、武揚は幕臣で唯一入閣し、逓信大臣となりました。いま述べたほかに、皇居造営御用掛、農商務大臣、文部大臣、外務大臣を務めています。このように武揚は何をやらしてもソツなくこなしてしまう万能の人でした。 61歳で政界を引退 碧血碑の前で何を思う  1891年、旧幕臣で慶應義塾の福沢(ふくざわ)諭吉(ゆきち)は、幕臣でありながら新政府の顕官になった勝海舟(かつかいしゅう)と榎本武揚を批判する論稿を書き上げ、本人たちに送りつけて意見を求めました。諭吉は、武揚が幕臣として蝦夷地で新政府に抵抗したことを評価しつつ、その後の身の処し方について「社会から身を潜めて質素に暮らすべきなのに、降伏した後に新政府に出仕して富や名誉を得た。戦死した仲間や落ちぶれた旧友に対し、慚愧(ざんぎ)の念がないのか」と批判し、「まだ遅くはないので非を改め、遁世(とんせい)すべきだ」と武揚に引退を要求したのです。  武揚はこの書を黙殺していましたが、諭吉がしつこく回答を求めたので、仕方なく「あなたの述べていることは事実と違うこともあり、私の考え方もある。しかし、いまは多忙なので後日、愚見を述べる」と返書しました。  ただ、それから6年後の1897年、武揚は政界からの引退を決意します。  原因は足尾銅山の鉱毒問題でした。鉱毒が周辺地域の農業や漁業に多大な被害を与えていました。栃木県出身の衆議院議員・田中(たなか)正造(しょうぞう)は、議会でこの問題を取り上げていました。1894年、銅山を管轄する農商務大臣になった榎本武揚は、大臣として初めて被害農民の代表と会い、現地へも視察に出向きました。そして、被害の大きさに衝撃を覚えて鉱毒調査委員会を設置します。しかし銅山側と政府高官が結託していたらしく、なかなかそれ以上の対応がむずかしく、責任を感じた武揚は大臣を辞職、以後、政府の要職から去ったのです。  政界を引退してからの武揚は、徳川育英会など14団体もの名誉会長をつとめ、精力的に会合に出席して運営にかかわったり、墨ぼく堤ていの自宅に知己を招いて旧事を談じ大杯を傾ける日々を送ったそうです。  1907年、武揚は久しぶりに函館(箱館)へ出向き、戦友が眠る碧血碑を詣でました。すでに71歳になり病気がちだったので、訪問できる最後の機会だと思ったのかもしれません。いったい碑前で何を思ったのでしょうか。  翌1908年10月27日、武揚は息を引き取りました。セカンドキャリアでは新政府の顕官となった武揚。葬儀にはそんな彼の徳を慕い8000人が会葬に訪れたといいます。 第3回 粘り強く己を磨き徳川3代に仕えたセカンドキャリア 立花(たちばな)宗茂(むねしげ) 秀吉の寵愛を受けた鎮西(ちんぜい)一≠フ猛将  立花宗茂は、九州柳川(やながわ)の戦国大名です。宗茂が関ヶ原合戦の際に西軍(石田(いしだ)三成(みつなり)方)に身を投じたのは、亡き太閤(豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし))の恩に報いるためだったといいます。  かつて宗茂は、豊後の大友(おおとも)宗麟(そうりん)の重臣でした。関ヶ原合戦から14年前の1586(天正14)年、薩摩の島津氏の大軍が大友宗麟の豊後領内へ攻めこんできました。次々と大友方の城や砦が落ち家臣たちが降伏していくなか、宗茂は攻め寄せる島津の大軍をたびたび奇襲攻撃で翻弄し、相手が撤退するのを見ると、猛追して撃破したのです。このときまだ、宗茂は二十歳でした。  援軍にきた豊臣秀吉がこの奮闘を知ると、宗茂を「鎮西一」とたたえ、翌年、筑後国柳川13万2000石を与えて独立の大名に取りたて、豊臣の直臣としたのです。  まさに大抜擢でした。それからも秀吉の寵愛をうけ、皆の前で「宗茂は本多(ほんだ)忠勝(ただかつ)(家康の重臣)と並んで東西無双の者どもだ」といったそうです。こうした厚恩をうけたので、宗茂は豊臣政権を破壊して天下を握ろうとする家康に対し、迷うことなく敵対したのでしょう。  しかし、宗茂は東軍(家康方)に寝返った京極(きょうごく)高次(たかつぐ)の大津城を攻めていたので、関ヶ原本戦には間に合いませんでした。そこで味方の敗北を知ると、すぐに大坂城へ出向いて総大将の毛利(もうり)輝元(てるもと)に抗戦を説きましたが、すげなく拒まれてしまいました。このため仕方なく、海路で柳川へ戻って籠城の準備を整えました。しかし東軍の大軍に包囲され、到底かなわないと判断して降伏しました。  宗茂には改易(取り潰し)という厳しい処分がくだされました。  宗茂が柳川城から去る際、領民たちが集まって行く手をふさぎ、「出ていく必要はございません。私たちが命を捨てる気持ちは、あなたの家臣と変わりありません。どうぞ城にお残りください」と哀願したといいます。すると宗茂はわざわざ馬から下り、領民に礼を述べ、「柳川の支配は今後も変わりないので安心せよ。お前たちがこのようなことをすれば、却って私のためにならぬ。さあ、帰るのだ」と説得しました。この言葉に農民たちは声をあげて泣いたといいます。宗茂が領民に慕われていたことがよくわかる逸話です。  こうして戦国大名としての宗茂のキャリアは終わりを告げました。 さまざまなスキルの習得を経て大名として復活を遂げる  宗茂はその後、旧臣の多くを熊本城主の加藤(かとう)清正(きよまさ)に預け、わずかな供回りを連れて上方へのぼりました。徳川家に御家再興を求めるためでした。じつは宗茂は、立花家の養子でした。自分の代で家を潰してしまったことに後悔し、どうしても再び大名に返り咲きたいと考えたのです。しかし、家康からよい返事がもらえないまま1年、2年と時間だけが過ぎていき、宗茂が上方に滞留している間、立花家中の分裂・崩壊が進み、家臣たちのほとんどは他家へ仕官してしまいました。  同じく西軍に加担した長宗我部(ちょうそかべ)盛親(もりちか)などは御家再興をあきらめ、寺子屋の師匠になりました。しかし宗茂はあきらめきれず、家康にアプローチし続けました。ただ、宗茂の偉さは、そうした活動の余暇を利用して己のスキルを向上させていったことです。訓練に励んで弓術の免許を獲得したり、妙心寺の了堂宗歇(りょうどそうけつ)に帰依して禅の修行にも励んだりしました。連歌や茶道、香道、蹴鞠、狂言などに通じていたことも判明しており、そうした文芸に磨きをかけたのも、おそらくこの時期だったと考えられます。  自暴自棄にならず、心身の鍛練に励んだ宗茂、結果としてそれが自身の才能に磨きをかけ、のちに将軍秀忠や家光の信頼を勝ち得ることになっていくのです。  1606(慶長11)年の夏、宗茂は江戸へ向かいました。家康の命令でした。宗茂は将軍秀忠の直臣(大番頭)として5000石で仕えることになったのです。かつて倒そうとした徳川家に再就職したわけです。同世代の秀忠は宗茂を大いに気に入り、それからまもなく5000石を加増し、棚倉(たなくら)(福島県棚倉町)1万石の地を与えました。  そうです、ついに宗茂は、大名(1万石以上の武士)として復活を遂げたのです。なんと、関ヶ原合戦から足かけ6年の月日が過ぎていました。その後宗茂は、秀忠の信頼を得て慶長15年までに漸次加増され、領地は3万石に増えました。すると、立花家の旧臣たちが次第に宗茂のもとに戻ってきました。 73歳で出陣 徳川家の信頼厚い名参謀  大坂夏の陣で宗茂は将軍秀忠に従って上洛し、秀忠に近侍して参謀として大いに活躍しました。1620(元和6)年、田中(たなか)忠政(ただまさ)が死去しました。忠政の田中家は、宗茂に代わって柳川城に入った大名家です。ただ、忠政が嗣子なくして没したため、田中家は改易となりました。これにかわって柳川城主となったのが、なんと宗茂だったのです。そう、旧領に復帰できたのです。しかも石高は約11万石。3万石の大名から一気に4倍に領地はふくれあがり、ほぼ、関ヶ原合戦以前と同じ規模になったのです。関ヶ原合戦で改易された大名は90家以上。そのうち大名に復活し、旧領を取り戻した人物は宗茂ただ一人でした。翌年2月、宗茂は旧領へ下向し、20年ぶりになつかしき柳川城に入りました。城は田中氏の大規模改修によって変貌していましたが、城下から眺める景色は昔のままだったはずです。その風景を目にした宗茂は、これまでの苦労を思い感無量だったことでしょう。  宗茂はかつて城を出ていく際、泣いて止めてくれた領民たちを呼び出し、一人ひとりに声をかけたと伝えられます。  それからの宗茂は3代将軍家光にも実父のように敬愛され、外出の際、家光は老齢の宗茂にたびたび供を命じるほどでした。また、その智将ぶりをかわれ、島原の乱が起こると、73歳の高齢にもかかわらず参謀として出陣しています。そしてそれから4年後の1643(寛永19)年11月25日、宗茂は江戸において76年の生涯を閉じました。当時としては大往生でした。  以上、立花宗茂のセカンドキャリアをみてきましたが、失領した宗茂が旧領を取り戻せた最大の理由は、諦めなかったことにあると思います。大名に復帰するまで6年の歳月を費やしており、すべてをなくし浪人となった宗茂には、非常に長い時間でした。どんなに文武に秀でた人格者であっても、もし宗茂に粘り強さが足りなかったら大名に復帰できなかったはず。ただひたすらに耐え、己を磨いて時を待ったからこそ、幸運の女神がほほえんだのです。 第4回 生涯現役で朝廷を支えた政治家 吉備(きびの)真備(まきび) 遣唐留学生の経験を経て 地方役人から国政へ  吉備真備は、日本史(日本史探究)の教科書すべてに掲載されている最重要人物です。奈良時代に唐(中国)に渡り、帰国後は朝廷で大きな活躍をした政治家です。  真備は、備中(びっちゅう)国(岡山県)の下級役人(下道国勝(しもつみちのくにかつ))の子として生まれましたが、たいへん優秀だったので遣唐留学生に選ばれ、17年の長きにわたって唐で学びました。最新の学問知識をおさめるだけでなく、帰国の際に貴重な書籍や楽器、武器などを大量に持ち帰ったので、正六位上を与えられ大学寮の大学助につきました。大学寮は中央の官吏養成機関、大学助は大学の副学長のような職です。その後、従五位下に昇進します。従五位以上は貴族に分類されるので、地方役人の子としては異例の出世といえるでしょう。そして以後は、橘(たちばなの)諸兄(もろえ)政権のブレーンとして活躍するようになりました。740(天平12)年、藤ふじ原わらの広ひろ嗣つぐが吉備真備などの排除を求めて九州で反乱を起こしていることからも、真備の政治力がわかります。  翌741年、真備は皇太子・阿倍(あべ)内親王の東宮学士、いわゆる教育係となり、彼女に『礼記』や『漢書』などを講じ、帝王としてのノウハウを伝授しました。跡継ぎの教育を任せるほど、時の聖武(しょうむ)天皇は真備を信頼していたわけです。743年には春宮大夫(とうぐうのだいぶ)(皇太子の家政機関をつかさどる職)になります。こうした功績を評価され、749(天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元)年に阿倍内親王が即位して孝謙(こうけん)天皇となると、従四位上に叙されています。 50代で左遷され再び中国へ  ところが、です。それからわずか半年後、真備は九州の国守として左遷されてしまいました。さらに翌年11月、なんと遣唐副使に任命されたのです。17年間も遠く離れた異国の地(唐)で苦学してきたのに、50代後半(当時は老齢)になって、またも唐へ行けというのはあまりにひどい話です。当時の航海はたいへんな危険をともなうもので、途中で遭難して日本にもどって来られない遣唐使船も少なくありませんでした。  しかも、遣唐大使の藤原(ふじわらの)清河(きよかわ)の身分は従四位下。つまり、副使の真備より位階が低かったのです。そういった意味では、屈辱的なあつかいを受けたといえるでしょう。  こうした真備の失脚劇は、藤原(ふじわらの)仲麻呂(なかまろ)の策略だったと考えられています。このころ、政界では橘諸兄が力を失い、光明(こうみょう)皇太后(聖武天皇の皇后)の後ろ盾を得た仲麻呂が台頭してきました。仲麻呂は孝謙天皇が敬愛する真備を危険視し、中央政府から遠ざけたのでしょう。  753年冬、真備は無事に唐の都・長安に入って玄宗(げんそう)皇帝に謁見、翌年どうにか帰国することができました。しかし、その後も厳しい現実が待ちうけていました。  大役を果たしても位階は上がらず、それどころか、帰国してすぐに大宰大弐に任命されたのです。大宰府は博多の近くにある迎賓館兼役所で、大弐はその責任者。つまり、またも九州に飛ばされてしまったわけです。しかも、その在職期間は9年の長きにわたりました。このように、仲麻呂に恐れられた結果、悲惨な晩年をおくることになったのです。  ただ、ちょうどこのころ、日本と新羅(しらぎ)(朝鮮の国家)の関係が悪化し、仲麻呂は新羅征伐を計画するようになります。このとき仲麻呂の命令で遠征計画を立てたのが真備でした。海外事情に精通し、兵法や築城術にくわしかったからです。真備は詳細な遠征計画を立てるとともに、甲冑などの武器製造を開始、同時に新羅軍から九州を防衛するため怡土(いと)城を築城しました。しかし結局、遠征は中止されました。 若いころからの学びを活かし70代まで国政の最前線へ  764(天平宝字(てんぴょうほうじ)8)年、真備は70歳をむかえます。当時としてはたいへんな高齢で、体調も思わしくないので朝廷に辞表を提出しました。引退を考えたのです。しかし、それが受理される前に、造東大寺司(ぞうとうだいじし)に抜擢されて平城京に戻ることになりました。このころ、仲麻呂と孝謙上皇の関係が悪化していたので、おそらく孝謙上皇が敬愛する真備を呼びもどしたのでしょう。けれど、帰洛しても真備はすぐに出仕せず、しばらく療養生活をおくっていたようです。慎重に当時の政治状況を見極めようとしていたのかもしれません。  この間、政変がおこったのです。  孝謙上皇の寵愛する道鏡(どうきょう)に実権をうばわれそうになったので、仲麻呂が挙兵したのです(恵美押勝(えみのおしかつ)の乱)。このとき老齢だったにもかかわらず、真備は己の軍事知識を総動員して乱の平定に動きました。  『続日本紀』には、「大臣(吉備真備)、その(仲麻呂が)必ず走らむ(逃亡する)ことを計りて(予測して)、兵を分けこれ(仲麻呂軍)を遮る。指麾(しき)(指揮)部分、はなはだ籌略(ちゅうりゃく)(謀や計略)あり。賊(仲麻呂軍)ついに謀中(策略)におちいり、旬日にして悉く平ぐ(平定された)」とあります。  つまり、仲麻呂の逃走経路を想定して軍を二手にわけ、挟撃して倒すという作戦を立てたのです。こうして仲麻呂は追い詰められ、敗死しました。  この働きが評価され、真備は従三位に叙され、参議(太政官の議政官)中衛大将(武官の高官)にのぼりました。地方役人出身の真備にとって、異例の栄達でした。さらにその後、大納言に昇進します。いまでいえば閣僚クラスの役職です。  このように、壮年期は橘諸兄政権のもとで政治力をふるった真備ですが、50歳を過ぎてその存在を危険視され、長年不遇の生活をおくることになりました。しかし、それにめげずに腐らず、己の職務を淡々とこなし、ここぞというときにすばやい行動に出て、70歳を過ぎてから再び返り咲いたのです。それが可能だったのは、若いときに獲得した兵学などの知識やスキルのおかげでした。  閣僚となった真備は、朝廷に申請して民の直訴制度を設けます。中壬生門に二本の柱を立て、一本の柱前では役人たちの圧政に対する直訴、もう一本の前では無実の罪を負わされた者の訴えを聞いたといいます。これによって役人の綱紀をただし、民をしいたげることのないようにしたのです。  766(天平神護(てんぴょうじんご)2)年、真備は正二位を与えられ、右大臣となりました。いまでいえば副首相の地位にあたります。すでに72歳になっていましたが、在職中は律令(法律)の改定などに力を注ぎました。その後、老齢ゆえに引退を申し出ますが、なかなか認められず、ようやく許可が出たのは77歳のときのことでした。そしてそれから4年後、真備は81歳で生涯を閉じました。 第5回 精巧な日本地図をつくった偉人 伊能(いのう)忠敬(ただたか) 49歳で隠居した後に 夢であった学問の道へ  伊能忠敬は、日本中を歩いて正確な日本地図『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』をつくった人物です。しかもその偉業は、セカンドキャリアでなされたものでした。今回は、そんな忠敬について紹介したいと思います。  上総国(かずさのくに)小関村(こせきむら)で生まれた忠敬は、幼いときに母を亡くし、婿養子だった父は再婚してしまいます。そこで忠敬も18歳のとき、下総国(しもうさのくに)佐原村(さわらむら)の伊能家に婿入りしました。伊能家は酒造業や米の売買などを営む商家でした。学問好きな忠敬は学者として身を立てたいと考えていたのですが、大好きな学問を絶って家業に専念しました。これまでの商売に加え、炭問屋や運送業など手広く商いを広げ、巨額の財を成しました。  37歳のときに佐原村の名主に選ばれ、在任中は利根川の堤防工事に力を尽くしました。また、飢饉で苦しむ村人を私財で救ったので、人々から尊敬を集めました。  功成り名遂げた忠敬は、長男の景敬(かげたか)に家督をゆずって隠居しました。まだ49歳でしたが、当時としてはすでに老年です。隠居後は余生をゆったり過ごすのが一般的でしたが、翌年、忠敬は住居をにわかに江戸の深川(ふかがわ)へ移し、江戸幕府の天文方・高橋至時(よしとき)に弟子入りしたのです。若いころに断念した学問へ夢をかなえようとしたのです。どうしても学者になる思いを断ち切れなかったのだと思います。  天文方というのは、天文観測や改暦、測量や地誌の編纂などを行う幕府の役職です。ただ、師の至時は忠敬より19歳も年下でした。けれど忠敬は心から至時を尊敬し、だれよりも熱心に知識を吸収しようとしました。すでに老年でしたから、物覚えはよくありません。けれど、そのハンデを努力で補いました。そんな根気強さと熱意に打たれた至時は、持ちうるかぎりの知識や技術を老弟子に伝授していきました。結果、忠敬は5年ほどで至時の持つすべての学識を習得し、第一の高弟と目されるようになったのです。たとえ能力が高くなくても、コツコツ真面目にやることが大切だとわかります。  忠敬は天文学や測量学を好み、なんと、自宅に天文観測所をつくってしまいます。そしてなるべく外出をひかえ、用事も午前中ですまし、午後に準備を調え、夕方から嬉々として天文観測に励みました。  物事に入れこむ質だったようで、天文観測に凝っているときは人とあまり話をせず、師の至時と学問上の討議をしているときも夕方近くになるとそわそわし、途中で席を立って帰宅することもありました。脇差しをはじめ身の回りの持ち物を忘れていくこともしばしばでした。 私財を投げ打ち蝦夷地の測量へ その精巧さに幕府も驚嘆  やがて忠敬は、地球の大きさを知りたいと考えるようになります。同じ経度にある2点の距離と緯度の差から地球の大きさは計測できます。そこで自宅(深川)から天文方の屋敷(暦局)がある浅草の蔵前(くらまえ)までたびたび歩測測量を行いました。ただ、2点の距離は離れていればいるほど、正確な数値が算出できます。そこで忠敬は、至時を通じて蝦夷地を測量して正確な実測図をつくりたいと幕府に申し入れました。  1800(寛政(かんせい)12)年閏うるう4月にようやく許可が出ますが、測量費用は忠敬の私財があてられ、幕府はわずかな補助しか提供しないことになりました。しかし喜んだ忠敬は少人数で同月19日に深川を出発、海岸沿いを歩測しながら北へと向かっていきました。険しい岸壁もよじ登って測量したので、襟裳岬(えりもみさき)近くの岩場で草鞋(わらじ)が切れ、素足のまま立ち往生することもありました。  ただ、完成した地図を見た幕府の閣僚はその精巧さに目を見張り、翌1801(享和(きょうわ)元)年、今度は三浦・伊豆半島から房総・常磐・三陸・下北半島までの測量を命じたのです。さらに翌年の第三次測量では、費用のすべてを幕府が負担し、測量隊の人数も大幅に増員されました。  1804(文化元)年、師の至時が41歳の若さで病没してしまいます。洋書の翻訳と研究に没頭し、無理が祟って病に倒れたといわれています。記録には残っていませんが、きっと忠敬は大いに嘆き悲しんだことでしょう。  同年8月、忠敬は東日本の地図を仕上げて幕府に献上しましたが、この地図は将軍家斉(いえなり)も上覧し、忠敬は十人扶持を与えられ幕臣(小普請組)に登用されました。ただ、それからも忠敬は測量の旅を続けました。心底、地図づくりが好きだったのです。測量のためなら命も惜しくないと思っていたようで、1811年の九州とその島々を実測する長旅では、出立の際、資産分配を記した書簡を家族に与えています。このとき忠敬は66歳でした。  この旅では、右腕として頼りにしてきた弟子の坂部(さかべ)貞兵衛(ていべい)が感染症にかかり、手当ての甲斐もなく43歳で亡くなりました。ショックだったのでしょう、以後、忠敬は測量隊員たちを叱らなくなったといいます。このとき忠敬は「鳥が翼をもがれたようなものだ」と辛い心情を家族に手紙で伝えていますが、じつはこのとき、長男の景敬も病死していたのです。家族は測量に障ることを恐れ、その事実を忠敬に知らせなかったのです。 情熱を持って偉業を成し遂げた忠敬のセカンドキャリア  1816年8月、忠敬は幕府から江戸府内の地図作成を命じられ、自ら陣頭指揮をとり10月末に完了しました。これが、忠敬の最後の測量となりました。忠敬が測量に費やした時間は9年半、測量した距離はおよそ4万km。地球を一周する長さでした。  いつも測量が順調に進んだわけではありません。弟子や近親の不幸、測量隊の不和があり、さらに持病のマラリアや喘息、痔に苦しみながらの測量旅でした。  最後の測量を終えた忠敬は、持病の喘息の発作をたびたびくり返すようになり、翌年春には床につくことが多くなり、1818年、73歳で永眠しました。  臨終の際、忠敬は「このような事業を成し遂げることができたのは、高橋至時先生のお陰だ。先生の傍らに葬ってほしい」と遺言。こうして忠敬は至時が眠る浅草の源空寺の墓の隣に埋葬されました。未完成だった忠敬の地図は、至時の子・景保(かげやす)の手によって仕上げられ、1821(文政4)年に『大日本沿海輿地全図』として幕府の老中らに提出されました。  あらためて伊能忠敬のセカンドキャリアをみて思うに、「情熱さえあれば、人はいくつになっても偉業を成し遂げることは不可能ではない」ということがわかります。 第6回 町奉行から大名相当にキャリアチェンジ 大岡(おおおか)越前守(えちぜんのかみ)忠相(ただすけ) 異例の人事で苦労をするも百戦錬磨の経験を活かし信頼を獲得  大岡越前守忠相は、名奉行として知られていますが、彼の見事なお裁きを集めた『大岡政談』はフィクションです。ただし、非常に有能な幕府の官僚であったことは間違いありません。  日本史の教科書でも、八代将軍徳川吉宗(よしむね)の享保(きょうほう)の改革を支えた江戸町奉行として登場します。例えば、江戸の防火対策として、屋根の瓦葺きと土蔵造を奨励したり、延焼防止や避難場所確保のため多くの火除地を新設したり、町火消を組織して消火活動に町人を参入させたりしています。また、将軍吉宗が小石川薬園内に貧民のための無料診療所(養生所)をつくることを決めた際に、実際に開設に尽力したのは忠相でした。  さらに地方御用掛(ごようがかり)も兼務し、地方功者と呼ばれる田中(たなか)丘隅(きゅうぐ)ら農政官僚を使って武蔵野新田を造成したり、堤防強化と浄水のため小金井を中心に玉川上水両岸に桜樹を植えたり、酒匂(さかわ)川に強固な堤防を構築させたりもしています。救荒用作物としてサツマイモの栽培を普及すべきだと献策した青木(あおき)昆陽(こんよう)を登用したのも忠相でした。  このように江戸町奉行として20年にわたって八面六臂の活躍をした忠相でしたが、還暦を迎えた1736(元文(げんぶん)元)年8月、大名しか就けない寺社奉行に栄転しました。  寺社奉行とは、譜代大名が就く役職です。異動の際、2000石を加増されたとはいえ、約6000石の旗本に過ぎない忠相がなれる役職ではありません。実際、異例の人事で、旗本の寺社奉行は前代未聞のことでした。  このため、忠相は同僚たちのいじめを受けてしまいます。例えば、江戸城に登城した際、忠相が寺社奉行の控え室に入ろうとすると、相役の井上(いのうえ)正之(まさゆき)から「ここは奏者番の詰め所であって、あなたが入れる部屋ではない」と入室を拒まれました。じつは寺社奉行は、奏者番を兼務するのが慣例だったのですが、忠相は旗本だったこともあり奏者番には任命されていなかったのです。これを逆手にとって、井上ら寺社奉行の面々は嫌がらせをしたのでした。  また、寺社奉行は、将来、若年寄や老中になる前途有望な青年大名の出世コースでもありました。そのため、還暦の忠相とほかの奉行たちとは、親子以上の歳の開きがありました。つまり、石高だけでなく、年齢のうえでも異例な存在ゆえ、周りから煙たがられてしまったのでしょう。  忠相にとって、新しい職場は針のむしろだったはずです。なお、冷遇されていることを聞き知った将軍吉宗は、哀れに思って忠相のために特別な詰め所をつくってあげたそうです。  ただ、さすが百戦錬磨の忠相、しばらくすると相役たちから敬愛されるようになりました。同僚が自分を見下しても怒らず、むしろ積極的に彼らの仕事を補佐したり、助言をしたりしたからです。いずれも若い譜代大名たち、経験値では到底、忠相にはかないません。そこで彼らは忠相を頼りにするようになり、ついには師とあおぐようになったと伝えられています。  忠相は、老骨にむち打って70歳を過ぎても寺社奉行の仕事に専念し、火事で焼失した上野寛永寺のお堂の再建、徳川家康の130回忌法会、将軍の寺社参詣の下見などを精力的にこなしていきました。 徳川吉宗に仕えた生涯 いまなお愛される大岡越前  長年仕えてきた将軍吉宗が引退を表明したのは、1745(延享(えんきょう)2)年9月1日のことです。このとき吉宗は62歳でした。このおり忠相は吉宗に直々に呼び出され、相談にあずかったといわれています。忠相も69歳の老齢でしたが、吉宗の信頼が厚かったことがわかります。  新たに将軍になった家いえ重しげ(吉宗の長男)は、すでに35歳になっていましたが病弱で、引っ込み思案でした。そのため幕閣では、吉宗の三男で聡明な田安(たやす)宗武(むねたけ)を推す声も強かったのですが、吉宗は長子相続制度を遵守したのです。  こうして家重とその側近が江戸城本丸に入り、吉宗は西丸へ移って大御所と呼ばれました。「大御所」は、将軍を引退した人の呼称ですが、大御所になったのは家康、秀忠に次いで吉宗が三人目となります。通常、大御所は将軍の背後にあって絶大な政治力を持つのが常でした。当然、吉宗もそうしようと考えていたと思われます。ところが引退した翌年11 月、中風※の発作に倒れてしまいました。幸い命に別状はなく、翌年3月1日に床上げの祝いが行われました。ただ、家重の後見をするのはむずかしかったようです。  一方忠相は、1748(寛延(かんえん)元)年にようやく奏者番に就任し、寺社奉行と兼務するようになりました。このおり4080石を加増され、石高は1万石に達しました。そう、ついに大名に栄達したのです。  きっと吉宗の配慮があったのでしょう。しかし、その吉宗は1751年5月に再び中風の発作を起こし、6月20日に息を引き取ってしまいました。68歳でした。  吉宗の葬儀は、老中の松平(まつだいら)武元(たけちか)や若年寄の板倉(いたくら)勝清(かつきよ)が総責任者となり、同年閏6月10日、寛永寺において執行され、忠相は葬儀の準備委員となって支度に奔走しました。ただ、かなり体調が悪く、それをおしての仕事だったそうです。  同年11月、忠相は寺社奉行と奏者番の辞任を申し入れました。寺社奉行の辞職は認められたものの、奏者番については却下されました。しかし、それから一月後の12月2日、まるで吉宗の後を追うかのように75歳の生涯を閉じたのです。遺体は、相模国堤村(つつみむら)(神奈川県茅ヶ崎市)浄見寺(じょうけんじ)に葬られました。いずれにせよ、忠相は生涯現役を貫いたのです。  ところで、現在の赤坂見附(あかさかみつけ)駅近くに忠相の下屋敷があったのですが、忠相は屋敷地に豊川稲荷社を分霊して深く信仰していました。明治時代になって稲荷社は屋敷地から青山通りの対岸に遷されました。これが現在の豊川稲荷東京別院です。だから境内には、いまも大岡越前御廟があります。このほかさまざまな神の祠があり、商売繁盛や家内安全、金運や福徳開運など多くの御利益があるとされています。テレビ局に近いこともあって、芸能人の信仰も厚いようです。  また、江戸後期から明治時代に成立した大岡政談によって大岡越前守は名奉行となり、小説や映画となりました。そうしたこともあり、1912(大正元)年には政府から従四位が贈られ、翌年にはその墓前(浄見寺)で贈位祭(奉告祭)が大々的に行われました。なんと1万人が参列したといわれており、その人気のほどがわかります。以後、毎年大岡越前祭が開かれるようになり、関東大震災や戦争のために中断したものの、1956(昭和31)年に復活し、それ以後は茅ヶ崎市、茅ヶ崎商工会議所、大岡奉賛会、茅ヶ崎市観光協会などが後援する茅ヶ崎市の大きなイベントとして続き、2025(令和7)年4月には70回を数えるほどになっています。 ※ 中風……脳血管障害のこと 第7回 多方面で活躍した「郵便の父」 前島(まえじま)密(ひそか) 明治政府の官僚として活躍した後46歳で教育機関へと転身  1871(明治4)年、明治政府は官営の郵便制度をスタートさせましたが、この制度をもうけたのが前島密です。密は越後国の豪農の家に生まれましたが、のちに幕臣の前島家に養子に入りました。優秀だったので開成所(かいせいじょ)(幕府の教育機関)教授に抜擢されますが、新政府軍に降伏した徳川家が静岡へ移封となると、静岡藩(駿河府中藩)の留守居役や遠州中泉(えんしゅうなかいずみ)奉行などを歴任。しかし1869年、請われて明治政府の民部・大蔵省の役人となり、鉄道の敷設や税法改革に尽力、そして郵便制度を立案・実現させたのです。  その後は内務省で出世し、1880年には内務大輔(次官)にのぼり、翌年、これまでの功績により、政府から勲三等旭日中綬章を賜わりました。ところが同年、密は役人を依願退職してしまいます。まだ46歳なので、隠居には早すぎる年齢です。じつは同年、参議の大隈(おおくま)重信(しげのぶ)が伊藤(いとう)博文(ひろぶみ)ら薩長閥によって政府から駆逐されました(明治14年の政変)。このおり大隈派だった密は、野に下って大隈と行動を共にしたのです。  翌年、大隈は国会開設に備えて立憲改進党を立ち上げますが、密も党の幹部となりました。ただ、政治活動より教育のほうに興味があったようで、大隈が創建した東京専門学校(現・早稲田大学)の評議員となり、校長の小野(おの)梓(あずさ)が急逝すると、密は大隈に頼んで校長職に就かせてもらっています。こうして密は、政府の高級官僚から教育職への意外な転身を遂げたのです。  ちなみに当時、東京専門学校の経営は苦しく、大隈個人が資金を提供して経営が成り立っていました。密は、学問の独立を果たすには自営すべきだと考え、大隈からの支援を断ち、授業料を大幅にアップしたのです。また、横浜の富豪のもとに出向き、渋る彼を説き伏せて大金を寄付させました。こうした苦労のすえ、経営は安定していったのです。 転職をくり返したセカンドキャリア  この時期、密は「国語独立論」を主張しています。「長いあいだ漢文を尊んできたが、日本人は漢字を廃してかな文字をつかうべきだ」と主張し、新政府にも漢字の廃止をたびたび提言したのです。1873年には『ひらがな しんぶんし』を発刊しています。この新聞は仮名文字だけで記されており、なんとも斬新な試みでした。  1887年、密は新設された私鉄・関西鉄道会社の社長に就任します。今度は実業家の道を歩み始めたのです。ところが翌年、社長の地位をあっさり降り、東京専門学校の校長職も辞めてしまいます。なんと密は、再び官界へ戻ったのです。  3年前、逓信(ていしん)省しょうが新設され、通信分野とともに郵便業務も同省の管轄となりました。初代逓信大臣は、密と同じ旧幕臣の榎本(えのもと)武揚(たけあき)でした。そこで榎本はかつての密の手腕に期待し、「政府に戻って逓信次官に就いてもらいたい」と要請したのです。当時、逓信省内では、新たな電話事業を官営にするか民営にするかでもめていました。  ともあれ、密は53歳で逓信省の次官として政府に復帰したのです。在任中は、郵便局と電信局を合併して郵便電信局や郵便電信学校をつくったり、電話事業を官業として成立させるなどの功績を残し、3年後の1891年に退職しています。榎本の後任・後藤(ごとう)象二郎(しょうじろう)と意見が合わず、我慢できなかったからだといいます。密の短気は有名でした。何か気に入らないことがあれば、だれにでもどこにでも雷を落とし、手当たり次第にモノをぶん投げました。  こんな話もあります。密の自宅に空き巣が入ったことがありました。すぐに盗難届を出したのですが、数日後、警察から「盗人を逮捕したので盗品の確認に来てほしい」との連絡が入ります。そこで密が書生を使わしたところ、いつまで経っても戻ってきません。夜に帰ってきた書生がいうには「盗難届にない品物がたくさんあるが、なぜ漏れたのか」と警察に厳しく質問されたので、「当時、狼狽していたので届け漏れがあった」と弁解、その旨を書類に記したら夜になってすべての品を下げ渡してくれることになったと密に報告しました。  すると、これを聞いた密の顔色がみるみる変わり、大声で書生を一喝したあと、「狼狽とは何事ぞ!俺は盗難ぐらいであわてたりせぬわ。誤解されるのは面白くない。すぐにこれから警察署へ戻り、狼狽の二文字を取り消してこい。そもそも盗難を予期して品物を取り調べておく人間がいるわけないだろう!届け漏れがあるのは当然だ。それを調査し、調べる機関がおまえたち警察なんだ。そういってこい」と厳命したのです。こんな性格だったので、人ともよくぶつかりました。 キャリア晩期は実業界や教育分野など多方面で活躍 さて、電話事業にかかわったことで密は電気学会(1888年創立)の副会長となりますが、このころから電気の魅力にとりつかれるようになりました。というより、電気を神の如くあがめるようになったのです。密が自伝に書いた一文(電気の美的形象)を紹介しましょう。  「嗚呼(ああ)偉(い)なる哉、電気の力、神なるかな其徳、(略)万里の遠信以て通すべし、或(あるい)は光明灼燿闇黒(こうみょうしゃくようあんこく)を照し、円転疾徐其機に応じて工作を利す其力偉にして実に大なり(略)其功之を何とか言はん、只(ただ)是れ神と称せんのみ」  このように密は、電気の効用をほめたたえて崇敬し、電気に神秘さを感じ、電気の姿を美しく偶像化したいと願うようになります。するとある日、夢のなかに白衣の観音様に似た慈悲の瞳と威厳を持った女性があらわれたのです。その女性は、右手を天に向け、左手を地に伏せ、眉間から光線を発射していたそうです。そこで密は、夢の記憶を友人の西田(にしだ)春耕(しゅんこう)にくわしく語り、じっさいに電気像を描かせました。しかし、それは満足できる姿ではなかったといいます。それにしてもここまで電気を崇拝するのは珍しいし、思い込みが激し過ぎる気もします。  いずれにせよ、役人から身を引いた密は、その後も東京馬車鉄道会社、北越鉄道会社、韓国京釜鉄道会社、日清生命保険株式会社、東海汽船会社などの社長・取締役や理事、監査役を務めるなど実業界で活躍するとともに、帝国教育会や盲学校、日本海員掖済会を積極的に支援・育成するなど勢力的な活動をみせました。  68歳の1902年に男爵を授けられて華族に列せられ、1904年には貴族院議員となりました。ただ、75歳になった1910年ごろから何をするのもおっくうになり、貴族院議員や会社の役員も次々辞してしまいました。その年、保養のために九州の周遊旅行をしています。その後は神奈川県三浦郡葦名(あしな)の地に山荘をかまえ、翌1911年からはこの地で作庭などを楽しみながら静かな暮らしを送り、1919(大正8)年に84歳で大往生を遂げたのです。 第8回 教育者に転進した 日本騎兵の父 秋山(あきやま)好古(よしふる) 軍人から教育者へキャリアチェンジ  秋山好古は、日本海海戦の作戦を立案・指揮した真之(さねゆき)の実兄です。伊予松山出身で陸軍士官学校に入ると騎兵科を選び、フランスに留学して最新の騎兵学を学びました。1894(明治27)年の日清戦争では1000の騎兵で2万の敵を食い止める活躍をみせました。戦後は陸軍乗馬学校(後の騎兵学校)の校長として後進の指導にあたりますが、1904年の日露戦争で再び騎兵第1旅団(約8000人。秋山支隊とも呼ばれる)を率いて出征。敵地へ潜行して情報を集めたり、道路や橋などを破壊し後方を攪乱したりする挺進騎馬隊を組織します。翌年1月、秋山支隊はロシア軍10万の猛攻に耐え抜き、戦後、好古は「日本騎兵の父」、「最後の古武士」と讃えられました。  1909年に陸軍中将、1916(大正5)年に陸軍大将に昇任し、63歳の1923年に予備役に編入されました。定年となったのです。しかし、「人は一生働き続けるものだ」というのが好古の信念で、第二の人生として教職を選び、翌年、故郷松山の私立北ほく予よ 中学校の校長に就きました。学校理事の井上(いのうえ)要(かなめ)が上京して好古に校長就任を依願したからです。  日露戦争で活躍した乃木(のぎ)希典(まれすけ)も大将から校長(院長)になりましたが、その学校は皇族や華族を教育する学習院です。対して好古は、故郷の中学校校長。ですから北予中学校の理事会は「田舎の中学校校長を打診するのは非礼だし、承諾してもらえないだろう」と考えていたようです。ところが井上が直接談判したところ、好古は「俺は中学の事は何も知らんが、外に人がいなければ校長の名前は出してもよい。日本人は少しく地位を得て退職すれば遊んで恩給で食ふことを考へる。それはいかん。俺でも役に立てば何でも奉公するよ」(『秋山好古』秋山好古大将伝記刊行会 昭和11年)と快諾してくれたのです。  井上は大いに歓び、「当分でも校長の名をお貸し下さい。そうして時々学校へ来て生徒と遊んで下さい」(『前掲書』)と伝えましたが、なんと、好古は伊予松山に単身赴任し、毎日出勤したのです。じつは若いころ、好古は小学校の教師をしていたのです。けれど体格がよかったので、盛んに知人たちに軍人になることをすすめられ、陸軍士官学校に入ったという経緯がありました。 好古の人柄に触れ校風が変わる  驚くべきことに、 校長を務めていた6年間、好古は無遅刻無欠勤でした。いつも始業の20分前に学校へ出勤するので、学校沿いの人々は好古の姿を見て時計の針を直すほどだったといいます。不良少年のたまり場といわれた北予中学校は、好古が着任したことで大きく変わりました。教員も生徒もみな勉強家となり、欠勤や欠席するものが著しく減ったのです。とくに教員が欠勤すると、好古が自ら授業をするので、安易に休めなくなったようです。といっても好古が高圧的に職員や生徒に接することはありませんでした。  「将軍は恐ろしい顔をしてゐたが、併し将軍の怒つた顔を見た者はなかつた。又叱られた生徒も一人もなかつた。毎日々々変りなき慈眼温容で、終始ニコニコと笑みを浮べながら、校の内外を見廻り、時々経歴実話を交へた温い訓話をした」(『前掲書』) 軍服も一切身に付けず、背広姿に鳥打ち帽をかぶって馬で出勤しました。校長室は狭くて夏はきわめて暑い部屋でしたが、好古は一度も暑いと嘆かず、上着を脱ぐこともせず、洋服のボタンも上まできちんと閉めていたそうです。校長室の整理整頓のみならず、ゴミも自分で始末しました。  粗暴な生徒のせいで、校内の破損や壊れた物品がかなりあったのですが、好古は夏休みの間にすべて修理し、二学期のはじめに全校生徒を集め、「物が壊れては、お互いに困るから気をつけいよ」(『前掲書』)とたった一言注意したそうです。以後、校舎の破損はほとんどなくなったといいます。 教育に捧げた第二の人生  1928(昭和3)年の夏休み、数人の生徒が乱暴を働いて警察の尋問を受けました。これを知った好古は、その責任を感じて理事の井上要に宛てて退職届を書いたのです。じつはこのころ、足の神経痛がひどくなり、歩行に困難を来すようになっていたことも、退職理由の一つでした。しかし井上や理事たちが平身低頭して留任を願ったので、仕方なく好古は退職届を取り下げました。しかし翌年正月の新年会で「自分はもう七十歳なので、校長を辞めたい」と述べたことが地元の新聞に載ってしまいました。すると同年三月の卒業式で井上理事は、演壇から「諸君は秋山校長先生が罷められると云ふて、大に心配してゐるそうであるが、校長先生は非常に責任を重んずる人である。先生に代わるべき立派な後任のない以上、断じて諸君を見捨てることはない。諸君安心せよ」(『前掲書』)と断言したのです。これを聞いた好古は「君があんな演説をすると、当分罷められないじゃないか」と笑ったといいます。しかし足に激痛を感じるようになり、これ以上の勤務はむずかしいと判断。翌年4月、ついに6年以上務めた校長の椅子をおりたのです。そして、それからわずか半年後、好古はこの世を去りました。  足痛は神経痛ではなく、糖尿病悪化による血管の閉塞から来る痛みだったのです。伊予から東京に戻った好古でしたが、痛みのために睡眠すらままならなくなり、ついに壊疽がはじまり、左足の先端部が腐りはじめました。医師は左足の切断をすすめました。好古も「この痛みさえ去れば、足の一本はなくてもいい」と納得し、手術が行われました。麻酔から目ざめた好古は「これですっきりした」と笑顔を見せましたが、翌日から傷口が静脈炎を起こして高熱を発し、腹部にも炎症が広がっていきました。それから三日間、好古は現実と夢の間を行き来したようです。ときおり口から出る言葉は、「騎兵」、「奉天」といった日露戦争に関するものばかりで、夢のなかでロシア軍と戦っているようでした。  死は免れないと思った親族は、紅茶にコニャックをまぜて好古の口に含ませてあげました。ちょうど陸軍士官学校で同期だった本郷(ほんごう)房太郎(ふさたろう)がお見舞いに来て「俺がわかるか」と尋ねると、好古は「本郷か、ちょっと起こしてくれ」と頼みました。そこで身体を起こしてやると、しばらくして息を引き取ったそうです。  日本陸軍の騎兵をつくり上げ、大将にまで昇り詰めた軍人・秋山好古は、無休主義をかかげ、中学校の校長という第二の人生を見事に全うして昇天したのです。71歳でした。 第9回 室町幕府最後の将軍のセカンドキャリア 足利(あしかが)義昭(よしあき) 室町幕府滅亡後の義昭の行方  日本史の教科書には、15代将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放された1573(元亀(げんき)4)年をもって、室町幕府は滅亡したと書かれています。  ですが義昭は、その後も将軍として活動し、大きな力を持ち続けていたのです。今回はそんな最後の将軍・足利義昭のセカンドキャリアについて紹介していこうと思います。  13代将軍足利義輝(よしてる)が畿内を制する三好(みよし)氏によって暗殺されたとき、弟の義昭も命を狙われますが、どうにか京都から脱して転々と居所を変え、やがて尾張の織田氏を頼ります。1568(永禄11)年、義昭は信長に奉じられて上洛し、15代将軍となることができました。しかし、後に信長と対立するようになり、多くの大名や宗教勢力と結んで信長包囲網をつくりました。信長はそうした敵を次々と押さえ込み、1573年7月、大軍を派遣して義昭の居城・槇島(まきしま)城を攻め立てたのです。かなわないと考えた義昭は、息子を人質に出して降伏し、河内国若江(かわちのくにわかえ)城(じょう)(東大阪市)へ退去しました。これをもって室町幕府は滅亡したといわれます。義昭37歳のときのことでした。  けれど、これで義昭が屈したわけではありませんでした。若江城から紀伊国(きいのくに)由良(ゆら)の興国寺(こうこくじ)へ入ったのです。この地域は反信長勢力の強固な地盤で、紀伊国内には雑賀(さいが)一揆(いっき)、高野山(こうやさん)、根来衆(ねごろしゅう)、粉河寺(こかわでら)、熊野三山(くまのさんざん)など、強力な仏教勢力が存在し、石山本願寺と結んで信長と敵対していたからです。さらに義昭は、越後の上杉謙信や甲斐の武田(たけだ)勝頼(かつより)、近江の六角(ろっかく)承禎(しょうてい)、本願寺顕如(けんにょ)と連絡をとり、信長の打倒を目ざします。結果、いったん信長と講和した石山本願寺の顕如は、再び戦う決意をかためました。 打倒信長に傾注したセカンドキャリア  1576(天正4)年、義昭は居所を備後国(びんごのくに)鞆(とも)の浦(うら)に遷します。ここは毛利氏の領内。つまり当主の毛利輝元(てるもと)は信長との敵対を決意したのです。義昭が強く毛利氏に働きかけた結果でした。義昭は輝元を副将軍に任じ、多くの大名や宗教勢力を結集し、再び信長包囲網をつくり上げたのです。京都を追い払われた義昭ですが、抜群の交渉能力により、室町将軍としての権威を保ち続けていたのです。  同年7月、毛利輝元が八百艘の船団を送って木津川口で織田水軍を撃破し、石山本願寺に兵糧を入れることに成功します。さらに越後の上杉謙信も翌1577年9月、織田方の七尾城(ななおじょう)を落とし、手取(てどり)川の戦いで柴田勝家率いる織田軍を大敗させました。信長の重臣・荒木村重(むらしげ)が織田を裏切ったのも、義昭の工作だったといわれています。  三重大学の藤田(ふじた)達生(たつお)教授によれば、本能寺の変の黒幕も義昭だといいます。変から11日後、義昭が乃美(のみ)宗勝(むねかつ)(毛利水軍のリーダー)に送った御内書がありますが、文面には「信長討果上者、入洛之儀急度可馳走由、対輝元・隆景申遣条、此節弥可抽忠功事肝要…」とあります。藤田氏は、冒頭部分は「信長を打ち果たした上は」と読めるので、義昭が旧臣の光秀を動かして信長を討ち果たしたと解釈しています。  いずれにせよ、本能寺の変の黒幕が義昭ならば、きっと当人は信長の死後は京都に戻って室町幕府を再興し、自分が天下人として君臨しようと考えていたことでしょう。  ところが、大番狂わせが起こります。本能寺の変からわずか11日後、中国地方から京都へ馳せ戻った羽柴秀吉が、山崎の合戦で光秀を倒してしまったのです。  すると義昭は、光秀を倒した秀吉に連絡を取り、自分の帰洛を要求しました。いったん了解した秀吉ですが、まもなく前言を反故にしています。宣教師のルイス・フロイスによれば、義昭は「信長が死んだので、自分を天下人にしてほしいと頼んだ」といいます。  秀吉は自分が信長の後継者になろうと考えていたので、その頼みは聞くことができません。  すると義昭は、今度は秀吉と対立する織田家一の重臣・柴田勝家に接近していきます。また、吉川(きっかわ)元春(もとはる)(毛利輝元の叔父)を通じて毛利・柴田連合を画策し、1583年、秀吉を挟撃すべく盛んに輝元に出兵をうながしたのです。しかし、小早川(こばやかわ)隆景(たかかげ)(輝元の叔父で元春の弟)は、秀吉に将来性を見出し強く反対したので、輝元は傍観を決めました。かくして義昭のもくろみは崩れ、柴田勝家は賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで秀吉に敗れ、北庄(きたのしょう)城を囲まれて妻のお市と自刃しました。  1584年2月、秀吉は義昭の帰洛を認めました。約10年ぶりの京都です。すでに義昭を庇護する毛利氏は秀吉に屈しており、京都に戻っても政権をにぎれる(幕府を再興できる)可能性はなく、形ばかりの将軍でした。しかも秀吉は「自分を猶子にしてほしい」といってきたのです。おそらく幕府(武士政権)を開こうとしたのでしょう。将軍になるには清和源氏の一族でなくてはなりません。秀吉は庶民階層の出身だったので、義昭の猶子になろうとしたのだと思います。  もし義昭が了解していたら、秀吉を将軍として大坂(豊臣)幕府が開かれていたはずです。ですが、義昭は己の血統を秀吉に渡しませんでした。秀吉の依頼をきっぱりと拒否したのです。おちぶれたとはいえ、義昭は将軍としての矜持を見せたのです。仕方なく秀吉は、朝廷の権威を利用し、太政大臣や関白となり、天皇から新たに豊臣姓をもらい、豊臣政権を樹立しました。 政治能力を活かし晩年は秀吉を補佐  その後も義昭は将軍の地位を保ち、秀吉を補佐するかたちで外交力を振るいました。たとえば1587年には、薩摩の島津氏と豊臣氏の講和を斡旋しています。しかし翌1588年正月、すでに秀吉が天下人として政治を動かしているなかで、将軍であり続けることはできないと考え、朝廷に将軍職を返上しました。ここにおいて室町幕府は完全に消滅したのです。  こうした功績が評価され、義昭は1588年に朝廷から三后(さんごう)に准ぜられ、秀吉からも一万石を与えられました。御伽衆として秀吉の良き話し相手になりました。  1592(文禄元)年に朝鮮出兵が始まると、秀吉に従って肥前名護屋へ赴いています。そのおり、義昭はりりしく武装し、3500人の兵を引き連れていたといいます。しかし、これが最後の晴れ姿となりました。1597(慶長2)年8月28日、体にできた腫れ物が悪化し、義昭は大坂において61歳の生涯を閉じました。  いずれにせよ、足利義昭は京都から追い出された後も、幕府再興のために根気強く信長と戦い続け、その死後も将軍として積極的に政治活動を行ったのです。まさに執念のセカンドキャリアだといえるでしょう。 第10回 悪人正機説を提唱した浄土真宗の祖 親鸞(しんらん) 法然(ほうねん)のもとで頭角を現すも流罪で越後の地へ  親鸞は1173(承じょう安あん3)年に貴族の日野(ひの)有範(ありのり)の子として生まれ、9歳のときに比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)にのぼって20年間修行に励みましたが、さまざまな迷いが生じ、山を下りてやがて法然のもとへ出向きます。  法然は「念仏(南無阿弥陀仏)を唱え続ければ、人は往生できる」と説きました。厳しい修行を必要としないことから多くの人びとを惹き付けていました。親鸞はすぐに法然を信用せず、100日の間通って、その人柄を見極めました。結果、親鸞は「念仏は浄土に生まれる種なのか、それとも地獄に落ちる業なのか、私にはあずかり知らぬこと。でも、たとえ法然にだまされ、念仏して地獄におちたとしても後悔しない」と法然を心から信じて弟子になり、めきめき頭角を現していきました。  一方、比叡山延暦寺や奈良の興福寺(こうふくじ)は、法然の信者の増大を懸念し、朝廷に念仏停止を訴えました。1207(承元(じょうげん)元)年、後鳥羽(ごとば)上皇はこれを取りあげ、念仏を禁じ、法然と弟子たちを配流(はいる)したのです。このとき親鸞も連座して越後に流されることになりました。親鸞が恵信尼(えしんに)を妻としたのは、この前後のことだといわれています。 教義が共感を集め門徒が急速に拡大したが…  7年後、親鸞は赦免されましたが、京都へは戻らず、しばらく越後にとどまった後、関東の笠間郡稲田郷(茨城県笠間市)に庵を結びました。流罪という困難を仏の愛と深い配慮の賜物として受け取り、関東という新天地で人々の救済に取り組もうと不退転の決意をしたのです。  親鸞は「たった一度だけ、心から念仏(南無阿弥陀仏)を唱えたら、人は必ず極楽往生できる」と唱えました。しかも「阿弥陀様は、悪人を率先して救ってくれる」と断言したのです。これを悪人正機説(あくにんしょうきせつ)といいますが、親鸞のいう悪人は、悪い人間という意味ではありません。どうしても煩悩を捨てきれず、自分の力では悟りを得られないと自覚した者をさしているのです。「自力ではどうにもできない」という自覚を持った人間は、全面的に仏の力にすがろうとします。だから阿弥陀如来も、悪人のほうが救いやすいというわけです。  さらに親鸞は「私は妻をもち、僧でなくなったのだから在家(一般人)と変わらない。それに、私のもとに集まった人々は、私の力で念仏をとなえるようになったわけではない。すべては阿弥陀様のお計らい。だからどうして彼らを弟子などといえようか。私には一人の弟子もいない」と語り、信者たちを「御同朋(おんどうぼう)」、「御同行(おんどうぎょう)」と呼びました。  このように肉食妻帯(にくじきさいたい)を許し、仏のもとの平等を説いたうえ、たった一度、心から念仏を唱えたら極楽へ行けるという教義は、当時の人びとにとって極めて魅力的なものでした。このため親鸞のもとには大勢の人びとが救いを求めて殺到するようになりました。  熱心で有力な門徒たちは、親鸞の教えを貪欲に学んで道場(他宗でいう寺院)を開き、信者を集めました。こうして教団が強大化した1235(嘉禎(かてい)元)年、親鸞は20年近く住んだ関東を去って、にわかに故郷の京都へ戻りました。63歳でした。  関東を離れたのは、鎌倉幕府が念仏に警戒の念を向け始めたからだといいます。  信者のなかに悪人正機説を都合よく解釈し、悪さをしたり酒飲肉食をしたり、平然と異性とみだらな行為にふける者が現れたのです。領主に反抗して年貢を納めぬケースもあり、幕府も看過できなくなったようです。親鸞はこうした信者たちを「獅子身中の虫」、「地獄にも落ち、天魔ともなり候」と非難しますが、異端的な行為は下火にならず、権力の弾圧を避けるため、仕方なく京都へ拠点を移したようです。親鸞が去ると、門徒は寄りどころを失って、ますます異端は増加し、道場主と呼ばれる有力門徒らが勢力争いや信者争奪戦を始めました。 息子・善鸞(ぜんらん)との対立を経て亡くなる直前まで読経  老齢の親鸞は関東へ下って事態を沈静化する体力はなく、息子の善鸞を派遣しました。  善鸞は父の期待にこたえるため、異端の者を改心させようと努力しますが、成果があがりません。焦った善鸞は、禁じ手を使ってしまいました。  「道場主から伝えられた親鸞の教えは間違いだ。萎れた花のようなもので、ただちに捨てなければならない。じつは私は、親鸞から直接秘伝(法文)を授けられている。これを知らなければ、あなたがたは決して極楽に往生できぬ」  もちろん、秘伝など存在しません。善鸞は人々を惹きつけるためウソをいい始めたのです。ただ、善鸞の言葉は絶大な効果をもち、たちまちにして大教団をつくりあげてしまったのです。関東の各道場主たちは驚き、京都にいる親鸞に訴えました。親鸞はまさか我が子が異端思想を広めているとは信じられず、「そう考えるのは、お前たちの信心が足りないからだ」と逆に道場主たちを叱責しました。けれどしばらくすると、親鸞も事実だとわかってきました。  そこで親鸞は、激しく言葉で善鸞を叱りつける手紙を送りましたが、善鸞はごまかしやいい逃れでうまく父をあしらい、その言動を改めません。それでも親鸞は何度も手紙で息子を諫(いさ)めようとします。すると善鸞は開き直り、鎌倉幕府に対し「念仏の道場主たちは、信者たちを扇動して風紀を乱している」と訴えを起こしたのです。こうして関東の道場主たちは、数年にわたる法廷闘争を余儀なくされました。  ここにおいて親鸞は、意を決して1256(康元(こうげん)元)年5月29日に善鸞と親子の縁を切る義絶状を送ったのです。「私に虚言をいうのは、父を殺したのと同じ。お前がしたことを伝え聞くに、その浅ましさはいうことができないほどだ。もう私はお前の親ではない。お前を子と思わない。悲しいことである」と記されていました。  そして親鸞は、義絶した事実を全国の門徒たちに伝え、事態の収拾をはかりました。まさに苦汁の選択でした。このとき親鸞84歳。本来なら善鸞に関東のことはすべてゆだね、京都でゆっくり余生を過ごせていたはずです。  親鸞はその後、正しい教えが伝わるよう著述に没頭し、己の著書を有力門徒たちに送付しました。門徒の質問に対しても、書簡を通じて正しくていねいに回答するようにしました。こうした生活が数年続き、1262(弘長(こうちょう)2)年11月になると、親鸞は念仏以外に何も言葉を発しなくなり、同月28日、低くとなえ続けた念仏が途絶え、頭を北にし顔を西側に向けたまま絶命しました。90歳という、当時としては大往生でした。