新連載 高齢社員の心理学 ―加齢でこころ≠ヘどう変わるのか― 神戸大学大学院人間発達環境学研究科 准教授 増本康平 第1回 「老いること」に対する偏見が高齢社員の活躍を妨げる  高年齢者雇用安定法の改正により就業期間の延伸が見込まれるなかで、高齢者が活き活きと働ける環境を整えていくためには、これまで以上に高齢者に対する理解を深めることが欠かせません。そこで本稿では、高齢者の内面、こころ≠ノ焦点を当て、その変化や特性を解説します(編集部)。 はじめに  今月から「高齢社員の心理学」について執筆することになりました。「心理学」と聞くと心理カウンセリングを想像する人も多いと思いますが、私の専門は、人の記憶、注意、感情、意思決定といった情報処理の仕組みを、心理実験や脳イメージング計測、遺伝子解析といった方法を組み合わせて解明する認知心理学です。これまでに高齢者を対象とした研究を20年行ってきました。この記事では、研究から得られた知見に基づいて、加齢にともない心理機能がどのように変化するのか、またそのような老いにともなう変化にどのように対応できるのか、といった点について、解説していきます。  第1回目のテーマは、「老いに対して正しい知識を持つことの大切さ」についてです。日本は世界で最も高齢化が進んだ超高齢社会です。そのため老いに関する情報についてのニーズは高く、身体機能、認知機能の低下やその予防、改善についてのさまざまな情報が溢(あふ)れています。ですが、それらの情報は必ずしも正しいわけではありません。そのため、私たちがあたり前だと思っている老いに対する前提が誤っていることもあります。 年齢を理由にした根拠のない思い込みや偏見「エイジズム」  「高齢者は全体的に能力が衰えているに違いない」、「高齢者に新しいことなんて身につけられるはずがない」と思っていませんか? 例えば、70歳を超えてプログラミングを勉強し、ゲームのアプリケーションを作成した高齢者がいます。ルービックキューブのすべての面を記憶し、目隠しで完成させる「目隠しルービックキューブ」を70代半ばから始め、80歳を超えても完成させられる高齢者もいます。歳をとってからでも新しいことにチャレンジし、達成する人がいるのですから、「年齢を理由に新しいことができない」と考えるのは誤りです。このような「もう歳だから〇〇できない」、「もう歳なのに〇〇するなんて」といった、年齢を理由にした根拠のない思い込みや偏見は、「エイジズム」と呼ばれています。 老いに対する否定的な考えがさまざまな機能に悪影響を及ぼす  偏見や差別は他者に対して抱くものと思われがちですが、エイジズムはそうではありません。いまは若くても、生き続ければ例外なく私たちは歳をとり、いずれは高齢者になります。そのため、高齢者に対する偏見は、自分が歳をとったときに、そのまま自分自身への評価として跳ね返ってくるのです。痛み止めの薬といわれて、成分的にはまったく効果が期待できない偽物の薬を服用しても、痛みがやわらぐプラセボ効果があるように、人の思い込みの影響は馬鹿にはできません。実際、老いに対する間違った思い込みは、私たちにさまざまな影響を及ぼします。これまでの研究から自分に対して向けられるエイジズムは、精神的健康の悪化や生活意欲の低下、記憶を含む認知機能の低下につながるだけでなく、疾患からの回復を損ない、寿命にさえ悪影響を及ぼすことがわかっています。  例えば、図表1を見てください。横軸は年齢を、縦軸は記憶の成績を表しています。点線が老いに対して否定的な考えを強く持っている人たち、実線は老いに対して否定的な考えをあまり持っていない人たちです。これを見ると、60歳では記憶成績に差は見られませんが、歳を重ねるにしたがい、老いに対して否定的な考えを強く持っている人たちの記憶成績が顕著に低下しています。図表2はストレスを感じたときに分泌されるコルチゾールの量を縦軸に、横軸に最初の計測からの経過年数を表しています。老いに対して偏見を持っている人たちは、老いを肯定的にとらえる人と比べて、歳をとるにしたがってストレスが増加していることがわかります。 エイジズムをなくすためには正しい知識を知ること  私たちの思い込みは、普段接する情報によって形成されます。例えば、テレビなどのメディアは、低下する機能に焦点をあてる傾向があり、歳をとっても維持される、あるいは向上する機能について報じることはあまりありません。「加齢とともに機能が低下していく」という情報に何度もさらされ続けると、加齢とともに全体的に機能が低下するという認識を持ってしまうのは必然ともいえます。裏を返すと、加齢がどのような心理機能に影響し、また反対に影響しないのか、加齢にともなう変化について正しい知識を得る機会はほとんどないといえます。  個人差はありますが、加齢とともにすべての記憶が低下するわけでも、高齢者の判断がいつも鈍るわけでもありません。老いに対して正しい知識を持つことは、高齢社員が自分自身に向けるエイジズムを回避し、歳をとっても活躍できるという気持ちを醸成し、仕事のパフォーマンスを高めることにつながります。また、高齢者を雇用する企業にとっても、適切な知識を持つことで高齢社員のモチベーションを高め、活躍できる環境を整えることにつながるはずです。 ※1 Levy, B. R., Zonderman, A. B., Slade, M. D., & Ferrucci, L. (2012). Memory shaped by age stereotypes over time. The Journals of Gerontology:Series B, 67(4), 432-436. ※2 Levy, B. R., Moffat, S., Resnick, S. M., Slade, M. D., & Ferrucci, L. (2016). Buffer against cumulative stress: Positive age self-stereotypes predict lower cortisol across 30 years. GeroPsych: The Journal of Gerontopsychology and Geriatric Psychiatry, 29 (3), 141?146. 図表1 老いに対する考えが記憶成績の低下に及ぼす影響 記憶成績 年齢 老いに対して否定的な考えをあまり持たないグループ 老いに対して否定的な考えを持つグループ 出典:Levy et al.(2012)※1より抜粋、一部改変 図表2 老いに対する肯定的・否定的な考えがストレスに及ぼす影響 ストレスレベル(コルチゾール) 最初にコルチゾールを測定してからの経過年数 老いに対して否定的な考えを持つグループ 老いに対して肯定的な考えを持つグループ 出典:Levy et al.(2016)※2より抜粋、一部改変 第2回 加齢にともない衰える記憶と維持される記憶  高年齢者雇用安定法の改正により就業期間の延伸が見込まれるなかで、高齢者が活き活きと働ける環境を整えていくためには、これまで以上に高齢者に対する理解を深めることが欠かせません。そこで本稿では、高齢者の内面、こころ≠ノ焦点を当て、その変化や特性を解説します(編集部)。 加齢にともなう脳の変化  前回は、「老い」に対する偏見や思い込みが、記憶成績の低下やストレスの増加につながるため、仕事のやる気やパフォーマンスを高めるうえで、老いに対して適切な知識を持つことが大切であることをお話ししました。  今回は、多くの人が加齢により機能が低下すると考えている「記憶」を取り上げ、高齢期の特徴について解説します。  私たちが生まれてからこれまでに経験した出来事、獲得した知識、身につけたスキル、日常生活での習慣といったさまざまな情報はすべて脳に蓄えられています。生まれたときには400g程度だった私たちの脳は、20歳くらいで1200〜1400gと3倍になり成長のピークを迎えます。脳には千億個の神経細胞があるといわれていますが、脳のシワがある表面の大脳皮質にかぎっても、20歳以降は1日に約8万5千個、1秒に約一つの脳神経細胞が失われ、90歳のときにはピーク時に比べ10%ほどの脳神経細胞が減少します。  このような脳の変化が起きるため、加齢にともなう記憶機能の低下は個人差はありますが避けることはできません。  しかし興味深いのは、脳全体が均等に加齢の影響を受けるわけではないということです。図表の脳のイラストは、加齢の影響を受けやすい場所(色のついている箇所)を表しています。情報の入力や検索に関連する前頭前野、記憶の定着をになう海馬において脳の変化が顕著にみられますが、それ以外の箇所は高齢になっても比較的保たれます。そのため、記憶機能全般が低下し、これまでに獲得したすべての情報が失われるわけではないのです。 高齢者でも維持される記憶  知識、スキル、習慣に関する記憶は加齢の影響を受けにくいことがわかっています。例えば知識のピークは70代です。知識は脳全体のネットワークによって形成されているため、特定の脳機能の低下の影響を受けにくいのです。70代半ばから知識も徐々に失われますが、低下はなだらかです。  これまでに獲得したスキルも失われるわけではありません。スキルは長年の訓練によって形成されるもので、専門家や職人、スポーツ選手の優れたパフォーマンスもスキルの記憶を基盤としています。例えば、将棋の熟達者は盤面を少し見ただけで、状況や次の手を瞬時にある程度把握することができます。仕事においても何か問題が起きたときに、その問題の原因がどのプロセスで生じているのか、おおよその予測がすぐにできるのは、長年の訓練や経験によって形成されたスキルがあるからです。  また、規則正しい生活、お酒、たばこ、挨拶をする、運動をする、メモをとる、といった日々の生活のなかで身につけた習慣も高齢になっても維持されます。修道女を対象とした研究では、死亡後の解剖によって認知症を発症したことが判明した人でも、規則正しい生活習慣が失われていなかったため、生前は周囲が認知症であったことに気がつかなかったことを報告しています。このようなスキルや習慣と関連する大脳基底核、小脳といった脳部位は加齢の影響を受けにくく、そのため高齢になっても維持されるのです。 加齢とともに低下する記憶  エピソード記憶、ワーキングメモリと呼ばれる記憶は、加齢にともなう脳の変化が顕著にみられる前頭前野や海馬と関連しているため、高齢期になると低下します。  エピソード記憶は過去の経験(思い出)の記憶を意味します。「今日会ったあの人の名前は…?」、「昨日の晩御飯何食べたかな?」、「鍵がない! どこに置いたっけ?」。このような物忘れは、エピソード記憶のエラーの結果生じます。ただ、物忘れがあるからといってすぐに認知症を心配する必要はありません。アルツハイマー病などの認知症では初期の段階でエピソード記憶に重篤な障害がみられますが、それは健康な人が経験する物忘れとはまったく異なります。人と会ったことを思い出せない、ご飯を食べたことを思い出せない、と行動そのものを忘れてしまうのです。結果として、忘れたことを忘れるので自身の記憶障害に気づかないこともあります。  ワーキングメモリは、頭の中に複数の情報を展開し、操作するための作業スペースで、複雑な課題や思考を行う際に特に重要となる記憶です。若いときは、頭の中の作業スペースが広いので、さまざまな情報を展開し、順番を入れ替えたり、修正したりして複雑な課題をこなすことができます。しかし、作業スペースが狭くなってくると展開できる情報の量がかぎられ、必要な情報を取り出すのにも時間がかかるようになります。この結果、判断が若い人よりも遅れたり、複数のことを同時にこなすことがむずかしくなるのです。  このように加齢にともない一部の記憶機能が低下するのは事実です。しかしながら、記憶成績の低下が仕事のパフォーマンスの低下を意味するわけではありません。衰えに適応し、維持されたスキルや知識を活かすことで社会でも活躍する高齢者はたくさんいます。次回は、このような記憶を含む認知機能の低下に、どのように対応すればよいのかについてお話しします。 【参考文献】 増本康平(2018)『老いと記憶〜加齢で得るもの失うもの』中央公論新社 ※1 Buckner, R. L. (2004). Memory and executive function in aging and AD: multiple factors that cause decline and reserve factors that compensate.Neuron, 44(1), 195-208. 図表 脳の加齢変化 加齢 前頭前野 海馬 第3回 ミスを防ぎ、新しいスキルを身につけるには  高年齢者雇用安定法の改正により就業期間の延伸が見込まれるなかで、高齢者が活き活きと働ける環境を整えていくためには、これまで以上に高齢者に対する理解を深めることが欠かせません。今回は、高齢者と新しいスキルの習得の関係について解説します(編集部)。 記憶に頼る方法では物忘れは防げない  「人の名前を忘れる」、「ものを置いた場所を忘れる」、「漢字が思い出せない」、高齢者の多くが訴える日常生活の物忘れです。しかし、これらは高齢者だけの問題なのでしょうか? 大学生に高齢者の記憶愁訴※1のリストを見せ、そのリストにある物忘れをこの1週間で経験した人に手を挙げさせると、上の写真のように約9割の学生が手を挙げます。記憶力がもっとも高い20歳前後の大学生でさえ、日々の生活のなかで頻繁に物忘れをするのですから、記憶に頼って覚えようと努力するだけでは物忘れを防ぐことはできません。ではどうすればよいのでしょうか? 逆説的ですが、覚えなければ忘れることもありません。そのため物忘れやし忘れを防ぐもっともよい方法は、「覚えていなくても、思い出せなくても対処できるように工夫すること」です。 認知機能の役割が変わってきている  歳をとると身体機能が衰えるので、若いときのように速く歩いたり、走ったりすることができなくなります。そして、身体機能の衰えは、公共交通機関がなかった昔なら、移動の制限に直結していました。しかし、交通機関が発展した現代では、身体機能が衰えた高齢者でも新幹線や飛行機を使うことで、東京から大阪、日本からアメリカといった長距離を、身体能力をはるかに超えた速さで、若年者と同じスピードで移動することができます。  認知機能はどうでしょうか。覚えられる量、記憶の正確性、情報を処理するスピードは若いときと比べて低下します。一方で、そのような機能低下を補ってくれる道具はたくさんあります。例えば、予定を忘れないように手帳を使用している人は多いでしょう。私たちが行った研究でも、日常生活の物忘れは、記憶検査の得点で説明できず、手帳やメモを使用しているかどうかで説明できるという結果が示されています。現在はインターネットも普及し、だれでも大量の情報にアクセスできるようになっただけでなく、スマートフォンやタブレットの登場で、外出先でもそれらの情報にアクセスすることが可能になりました。その結果、人の記憶をはるかに超えた桁違いの量の情報をいつでも扱うことができるようになったのです。  このような道具を使いこなすことは、認知機能の衰えをカバーするだけでなく、若年者と同じ情報量を扱うことを可能とするため、高齢となっても社会で活躍するうえで、強力な武器になります。  一方で、そのような道具に頼っていたら、認知機能がどんどん低下していくと心配される方がいらっしゃいます。しかし「道具に頼ると認知機能を使用しない」というのは誤解です。まず、道具を使用するには、その使用方法を覚える必要があります。また、インターネットやパソコン、タブレットが普及するまでは、私たちは情報そのものを記憶する必要がありました。現在は、情報そのものではなく、大事な情報をパソコンのどこに保存したか、どのサイトに行けば必要な情報が手に入るか、どのサイトの情報が信頼に足るのか、などを覚える必要があります。このように私たちの頭で処理すべき情報は、この20年で急速に変わってきているのです。 新しいことを身につけるにはどうすればよいのか  道具の使い方のようなスキルの獲得は、脳のなかでも加齢の影響を受けにくい大脳基底核という領域が関連しています。そのため、若いときよりも時間はかかりますが、歳をとってからでも新しいスキルを獲得することができます。  一方で、便利な道具があることがわかっていても、その使い方をわざわざ覚える気にならないこともあります。スキルの獲得を妨げるのは「歳だから無理」という偏見による、新しいスキルや知識を身につけることに対する意欲の低下です。図表は縦軸に記憶成績を、横軸に覚え方を表しています。「書いて覚える」、「読んで覚える」、「意味で覚える」の順に記憶成績が高まっていますが、最も記憶成績が高いのは「自己と関連づけて覚えた」場合です。脳は自分に関係がないと認識した情報を蓄えようとはしません。自分と関係づける最も効率的で労力を必要としない方法は、覚えたい対象に興味や関心を持つことです。人は自分にとって大切だと認識した情報や興味がある情報は、そうでない情報よりもずっと楽に覚えることができます。  そうはいっても、高齢になると新しい知識やスキルの獲得に苦労することも事実です。スキルの獲得には、すでに獲得しているスキルと関連するスキルの方が身につけやすい、という特徴があります。そのため、雇用側からすると高齢社員に与える仕事内容を考える際は、その社員がこれまでに獲得したスキルと関連させることも重要です。社員側からすれば将来的にどのような仕事をするかを見据えて、スキルを積み上げていく必要があります。そして興味があり情熱を傾けられる仕事であるほど、効率的に知識やスキルは蓄積していきます。 【参考文献】増本康平(2018)『老いと記憶〜加齢で得るもの、失うもの』中央公論新社 ※1 記憶愁訴…自分の記憶力の低下について自覚すること ※2 R ogers, T. B., Kuiper, N. A., & Kirker, W. S(.1977). Self-reference and the encoding of personal information. Journal of personality and socialpsychology, 35(9), 677-688. 図表 自分と関係する情報は記憶されやすい 記憶成績 覚え方 書く 読む 意味 自己 出典:Rogers et al.,(1977)※2を元に筆者作成 写真のキャプション 約9割の学生が、高齢者と同じような物忘れを経験している 第4回 高齢社員の仕事と感情機能  高年齢者雇用安定法の改正により就業期間の延伸が見込まれるなかで、高齢者が活き活きと働ける環境を整えていくためには、これまで以上に高齢者に対する理解を深めることが欠かせません。そこで本稿では、高齢者の内面、こころ≠ノ焦点を当て、その変化や特性を解説します(編集部)。 高齢者は怒りっぽい?  「歳をとると怒りっぽくなる」ということを聞くことがありますが、本当にそうなのでしょうか? そう思ってしまう理由は三つあります。一つは、怒りっぽい高齢者の割合は以前と同じでも、高齢者人口が増えたため、怒りっぽい高齢者が目立つようになった。二つ目は、昔よりも寿命が伸びたため、感情のコントロールに支障をきたすタイプの認知症の方が増加した。三つ目は、独居高齢者の増加、年金などの経済的な不安、長寿による健康不安といった高齢者を取り巻く環境が以前と比べて厳しいため、怒りっぽい高齢者が増えた。ただ、これら三つの理由は、歳をとったことが直接的な原因ではありません。むしろ、感情のコントロールをになう感情機能は、若年者よりも高齢者の方が優れていることを心理学や脳神経科学の研究は示しています。 歳をとっても衰えない感情機能  高齢期は、得るものに対して失うものの割合が多くなる時期です。長く生きればだれもが、何らかの体の不調による「健康の喪失」、両親や友人、配偶者の死による「人間関係の喪失」、引退や子どもの自立などによる「役割の喪失」といった大きなストレスをともなう出来事を、多かれ少なかれ経験します。ですが、高齢者が不幸なわけではありません。図表にあるように、年齢を重ねると幸福感が高まることが示されています。  喪失の時期である高齢期の幸福感が、ほかの世代と比較して高いという矛盾は「エイジングパラドクス」と呼ばれ、この矛盾が生じる理由を解明しようと、これまでに多くの研究が行われてきました。そして現在では、感情をコントロールする脳のネットワークは加齢の影響を受けにくいこと、加齢とともにネガティブな情報ではなく、ポジティブな情報を重視する情報処理にシフトすることが明らかになっています。そのため、若いときよりもストレスフルな状況に上手に対処することができ、幸福感が高くなると考えられているのです。では、感情機能は仕事においてどのようなメリットをもたらすのでしょうか? 仕事のパフォーマンスと感情機能  これまでの連載のなかで、高齢社員の認知機能と仕事のパフォーマンスの関係については、歳をとると情報処理のスピードは低下し、頭のなかの作業スペースも小さくなるため、新しい状況での迅速な判断が求められたり、複雑な推論が必要となったりする場合、仕事のパフォーマンスが下がることを説明しました。一方で、経験から得られる知識や技能に関する記憶は高齢になっても維持されるため、経験が重視される仕事に関しては、高齢社員でも仕事のパフォーマンスが低下しないことも紹介しました。  このように、一人で行う作業のパフォーマンスは、こうした認知機能の状況によってある程度説明することができます。しかし、仕事の多くは一人でできるものではありません。部下や同僚、上司との良好な関係、顧客との信頼関係を築くことが必要となります。このような場合、素早く正確に情報を処理するための認知機能よりも、相手に共感したり、苦境にあっても感情的にならず冷静に対処することや、相手に自分の気持ちを伝えるための感情機能が必要となります。そのため、仕事のパフォーマンスに関する研究では、認知機能よりも感情機能の方が重視されることが多いのです。 高齢社員の感情機能  感情機能には、大きく分けると、感情の「知覚」、「理解」、「使用」、「管理」の四つがあります。「知覚」とは、声、表情などから他人の感情状態を把握する能力です。「理解」とは、感情についての知識や、感情やその変化がもつ意味を理解する能力をさします。「使用」とは、目標達成のために感情を利用することで、例えば、課題を達成するために気持ちを焦らせる、などがあります。「管理」は動揺しているときに、自分自身を落ち着かせたり、落ち込んでいる人を元気づけるなど、自分と他者の感情をコントロールする能力です。  これまでの研究は、四つのすべての要素において、高齢者が若年者よりも優れている、あるいは、少なくとも若年者と同等であることを示しています。そのため、高齢社員の方が、仕事によるストレスをうまくコントロールでき、燃え尽き症候群になりにくいとされています。また、自分だけでなく周りに対して気配りができるため、職場での衝突を回避でき、顧客の満足度が高いという結果もあります。一方で、高齢者はネガティブな情報よりもポジティブな情報に注意を向けやすいことから、現状に満足する傾向があり、変化を生み出すことが苦手であることも示唆されています。  認知機能と同じように感情機能にも個人差はあります。それでも、感情機能は経験によって向上し、高齢期でも維持されるため、職場において高齢社員が活躍できる場面は多くあります。年齢とともに仕事のパフォーマンスが低下するという認識は誤りであることを、感情機能に関する研究は示しています。 【参考文献】 増本康平(2018)『老いと記憶〜加齢で得るもの、失うもの』中央公論新社 Baltes, B., Rudolph, C. W., & Zacher, H. (Eds.). (2019).Work across the lifespan. Academic Press. 図表 歳をとるほど幸福感は高まる 縦軸 幸福感 横軸 年齢 出典:Mroczek, D. K., & Kolarz, C. M.(1998). The effect of age on positive and negative affect: a developmental perspective on happiness. Journal of Personality and Social Psychology, 75(5), 1333-1349. 第5回 高齢者の意思決定の特徴  高年齢者雇用安定法の改正により就業期間の延伸が見込まれるなかで、高齢者が活き活きと働ける環境を整えていくためには、これまで以上に高齢者に対する理解を深めることが欠かせません。そこで本稿では、高齢者の内面、こころ≠ノ焦点を当て、その変化や特性を解説します(編集部)。  仕事をマネジメントする際、社員がどの程度適切な意思決定ができるかは、その社員に任せる仕事内容を判断するうえで不可欠な情報です。また、社員にとっては自分の仕事に対する意思決定の裁量(例えば、仕事の仕方やスケジューリングなど)が大きければ仕事のやりがいにつながり、逆に小さければストレスを強く感じ精神的健康に影響します。今回は意思決定のメカニズムと加齢の関係についてお話します。 われわれの意思決定は合理的なのか?  「人生は選択の連続である(シェイクスピア『ハムレット』)」という言葉があります。何を食べるか、何を着るか、といったちょっとした選択から、どの学校を受験するか、どの会社に就職するか、だれと結婚するか、といった重大なものまで、私たちは日々、さまざまな選択を迫られます。  正しい選択肢がわかっている場合、私たちは基本的に合理的な判断が可能です。ですが、「どのプロジェクトに注力すべきか」、「顧客の満足度を高めるにはどのサービスがよいのか」といった、正解がその時点ではわからない不確実性の高い意思決定を行う際、私たちの判断には合理的な判断を阻害する、さまざまな思考の偏りがあることが明らかになっています。  例えば、「アメリカのサン・ディエゴとサン・アントニオ、どちらの人口が多いですか?」。サン・アントニオのほうが若干人口は多いのですが、多くの人が「サン・ディエゴ」と回答します。適当に答えれば半々になるはずですが、サン・ディエゴと回答する人が多いのはなぜでしょうか。人は自分が知っていることを過大に評価する傾向があり、サン・アントニオは聞いたことがないので、自分が知っているサン・ディエゴのほうが人口は多いだろう、という直感的な判断を行うからです。  次の二つの選択肢AとBを提示されたら、あなたはどちらを選びますか? A 90%の確率で10万円もらえる。 B 確実に9万円もらえる では次のCとDの場合はどうでしょうか? C 90%の確率で10万円失う。 D 確実に9万円失う。  AとBではどちらも期待値(確率×利得)は9で同じですが、多くの人は、確実に9万円をもらえるBを選択します。利益獲得の場面では、人は利益を得られなないリスクを避け、小さくても確実な利益を選択する傾向にあります。  CとDも期待値は-9でどちらも同じです。しかし、多くの人は罰金を払わなくてもすむ可能性のあるCを選択します。AとBの選択とは異なり、損失に関する選択の場合は、損失が大きくなるリスクがあっても、なるべく損失そのものを避ける選択をする傾向が人にはあります。  図表は利得と損失の心理的価値に関する有名なプロスペクト理論を示したものです。縦軸が心理的価値を、横軸は利得と損失を表しています。この図は、利得や損失が多くなれば心理的反応が強くなるだけでなく、利得よりも損失を1・5〜2・5倍ほど強く感じる非対称性があることを示しています。200万円を獲得して感じる満足よりも、200万円を損して感じる不満の方が強いのです。そのため人は損失を避ける選択(損失回避)をしがちであり、損失回避を重視した結果、チャンスを逃す選択をしてしまうこともあります。 なぜ意思決定には偏りがみられるのか?  私たちが何かを選択する際、頭の中では大きく二つの情報処理が行われます。一つは、好きか嫌いか、良いか悪いかといった感情的、直感的な情報処理、もう一つは分析的、論理的な熟考のための情報処理です。意思決定場面では、どのような選択であっても、まず直感・感情による判断が行われ、その後、その選択で適切かどうか分析的な判断が行われます。  「好き、嫌い」といった感情的判断や「損失を回避したい」という直感的判断は、論理的で客観的なものではありません。そのため、正解がわからないような意思決定の場合は、感情・直感的な判断に依存してしまい、合理的な判断ができない場面が生じます。 加齢にともなう意思決定の変化  だれしも、即決が求められ考える余裕がない状況や、選択肢が多数ある状況、いままで経験したことがない選択を行う状況では、誤った選択が多くなります。特に高齢期では、熟考のための情報処理が、加齢にともない低下する認知機能に依存しているため、それが顕著です。また、高齢者は自分が持っている知識を過大評価する傾向があるため、助言を受け入れにくくなるというデータもあります。  一方で、長い人生のさまざまな経験によってつちかわれた直感や、歳を重ねるごとに安定する感情が基盤となる直感・感情的な情報処理は、加齢の影響を受けにくく、むしろ洗練されます。そのため、一般的には複雑な選択であっても、経験をいかすことのできる判断が求められる場合、経験が少ない若年者より迅速で適切な判断が可能です。また、以前の連載でも説明しましたが、高齢者はポジティブな情報を重視する傾向があります。そのため、損失回避といったネガティブな情報を重視しすぎる結果生じる認知バイアスの影響を受けにくい、という研究もあります。  加齢が意思決定に及ぼす影響については、まだわからないことが多いのですが、経験に基づいた判断を必要とする仕事のパフォーマンスは、高齢期でも高い水準で維持されることは研究からも裏づけられています。 【参考文献】 ダニエル・カーネマン(2014)『ファスト&スロー(上・下)』早川書房 Baltes, B., Rudolph, C. W., & Zacher, H. (Eds.). (2019).Work across the lifespan. Academic Press. 図表 損失と利得の心理的価値 縦軸 心理的価値 横軸 金額 利得 損失 出典:ダニエル・カーネマン(2014)『ファスト&スロー(下)』早川書房. 最終回 高齢でも働くために必要なこと  高年齢者雇用安定法の改正により就業期間の延伸が見込まれるなかで、高齢者が活き活きと働ける環境を整えていくためには、これまで以上に高齢者に対する理解を深めることが欠かせません。そこで本稿では、高齢者の内面、こころ≠ノ焦点を当て、その変化や特性を解説します(編集部)。 高齢者の9割超が「働きたい」  「宝くじがあたったら仕事を辞める」というのは宝くじを買ったときに多くの人が思うことですが、働かなくてよいお金があれば本当に仕事を辞めるかというと、そうではないようです。  2020(令和2)年度の『高齢社会白書』によると、経済的な暮らし向きに心配がないと感じる60歳以上は74・1%となっています。一方で、図表にあるように何歳ごろまで収入をともなう仕事をしたいかという問いに対しては、約90%の人が高齢期でも働きたいと回答しています。ほかの調査でも職業、年齢、文化の違いを超えて、最大95%の人が、経済的な理由がなくても仕事を続けると答えています。 高齢社員のモチベーション  働く理由は、人生を通して変わります。お金がなければ生きてはいけませんが、子どもの教育費や住宅ローンなどの支出がなくなると、働く理由として金銭的理由は小さくなります。逆に仕事の内容や役割に意味を見出すことが、高齢期でも仕事に従事する大きなモチベーションとなってきます。  これまでの研究は、高齢社員のモチベーションを高めるためにいくつかの方法を提案しています。例えば、高齢社員が下の世代のメンターとして、経験に基づいた知識の共有を行ったり相談にのるといったことです。これは経験が乏しい若い社員にとって有益であると同時に、高齢社員にとってはこれまでの仕事をふり返り、その成果を次の世代に引き継ぐことができ、自分の仕事の意味を見出すことにもつながります。  また、高齢社員の多くは「実際の年齢より自分は若い」と思う傾向があり、この傾向は最大で20歳あるといわれています。加えて、自分が若いと思っている社員の仕事のパフォーマンスはそうでない社員よりも高いことが示されています。そのため、若い世代だけでなく「まだまだがんばれる!」と思っている高齢社員にも成長する機会を確保することは、社員のモチベーションだけでなく、企業の生産性の向上にもつながると考えられます。また、成長する意欲の高い高齢社員の存在は、若い世代の社員への刺激にもなるでしょう。 歳をとっても働くためには何が必要なのか?  65歳を過ぎて働くために必要なことをたずねた「60代の雇用・生活調査」((独)労働政策研究・研修機構/2020年)では、「健康・体力」が必要だという回答が82・0%と最も多く、「仕事への意欲」が58・9%、「仕事の専門知識・技能があること」が46・2%、「協調性(年下の管理監督者の下でも働けることなど)」が34・9%、「専門性よりは色々な仕事ができる能力や幅広い経験」が21・4%となっています。  年齢とともにさまざまな機能が衰えてくるのは仕方がないことですが、仕事が可能なだけの健康・体力づくりは日々心がける必要があります。また、コロナ禍が高齢社員の労働環境にどのような影響を与えるのかも気になるところです。高齢者のコロナ罹患のリスクの高さを考えると、高齢社員は在宅で仕事をするために、例えばパソコンのスキルを身につける必要があります。自分は高齢だから新しいスキルを身につけられなくても仕方ない、ということでは今後の変化に対応していくことができません。スキルの獲得に関する記憶機能は高齢でも保たれていますが、高齢になってゼロから新しいスキルを獲得するのは時間と労力を要します。そのため、常にスキルを更新し続けることが高齢になって環境の変化に適応するうえで重要であることを、コロナ禍は教えてくれている気がします。 連載の最後に  この連載の第1回で「高齢者に新しいことなんて身につけられるはずがない」といった、年齢を理由にした根拠のない思い込みや偏見であるエイジズム(年齢差別)についてお話ししました。職場でのエイジズムとしては、年齢を理由にした仕事の変更や退職の勧告があります。また、どちらかといえばこれまで高齢社員を守ってきた年功序列もエイジズムと解釈されることがあります。人種差別、性差別といった差別撤廃の動きが加速していますが、世界的に社員の高齢化が進むなか、エイジズムも例外ではありません。そのため、年齢に関係なく仕事ができるかどうかが、今後はより重視されるようになるでしょう。  また、仕事ができることが重視されるようになると、認知機能の検査によって高齢社員の仕事の適性を測ろうとする試みがでてくるかもしれません。たしかに、認知機能検査は認知症やその予備軍にみられる認知機能低下を判定することができます。しかしながら、仕事のパフォーマンスを決定する能力を測ることはできません。なぜなら、高齢社員の仕事のパフォーマンスを決定するのは、経験によってつちかった知識とスキル、対人ストレスや仕事の変化への適応力だからです。  人生100年時代といわれ、だれもが高齢になるまで生きることが考えられるいま、老いによる心理的な機能の変化について適切な知識を持つことは、企業にとっても、社員にとっても非常に重要なことだと思います。この連載が少しでも、老いに対する偏見や思い込みの払拭につながっていたら幸いです。 【参考文献】 Baltes, B., Rudolph, C. W., & Zacher, H. (Eds.). (2019).Work across the lifespan. Academic Press. Cubrich, M., & Petruzzelli, A. (2020). Advancing our und erstanding of successful aging at work: A socioemotion al selectivity theory perspective. Industrial and Organiza tional Psychology, 13(3), 369-373. Kooij, D. T. (2020). The impact of the Covid-19 pandem ic on older workers: The role of self-regulation and orga nizations. Work, Aging and Retirement, 6(4), 233-237. 図表 あなたは、何歳ごろまで収入をともなう仕事をしたいですか 全体 65歳くらいまで 25.6% 70歳くらいまで 21.7% 75歳くらいまで 11.9% 80歳くらいまで 4.8% 働けるうちはいつまでも 20.6% 仕事をしたいと思わない 13.6% 不明・無回答 1.9% 70歳・75歳・80歳くらいまでと働けるうちはいつまでもの合計 59.0% 収入のある仕事をしている者 65歳くらいまで 11.6% 70歳くらいまで 23.4% 75歳くらいまで 19.3% 80歳くらいまで 7.6% 働けるうちはいつまでも 36.7% 仕事をしたいと思わない 0.8% 不明・無回答 0.9% 70歳・75歳・80歳くらいまでと働けるうちはいつまでもの合計 87.0% ※調査対象は、全国の60歳以上の男女 出典:内閣府「高齢者の経済生活に関する調査」(令和元年度)