偉人たちのセカンドキャリア 歴史作家 河合(かわい)敦(あつし) 第11回 難病と闘いながら俳優の道を貫いた喜劇王 榎本(えのもと)健一(けんいち) 病気による右足つま先の切断から義足で舞台に復帰  エノケンこと榎本健一は、浅草の劇場で喜劇俳優として人気を博し、松竹に属して一座を立ち上げ、映画界にも進出、その後は東宝へ移って喜劇王と呼ばれました。  しかし戦後、エノケン一座は解散します。大勢の座員を経済的に面倒を見れなかったのに加え、左足に強い痛みを感じるようになったからです。病名は特発性脱疽(だっそ)。手足の血管が細くなり血液がとどかず壊疽(えそ)する原因不明の難病です。1952(昭和27)年10月、今度は右足が激しく痛むようになります。ちょうど巡業中で、広島公演はどうにか終えますが、次の岩国では激痛で靴も履けず、公演をとりやめました。  鎮痛薬も睡眠薬も効かず、一睡もできない状態が続きます。担当医師から「右足を膝下から切断しなくてはならない」と宣告されました。エノケンは飛び上がらんばかりに驚きました。そんなことをしたら役者生命が終わるからです。そこでこれを拒否し、ほかの病院で診察してもらうと「つま先の壊疽部分を切り落とせば何とかなる」といわれました。足ごと切るよりはましと考え、思い切って手術を受けました。歩きづらいので指だけの義足を探しますがありません。そこでエノケンは自分でゴムの足形をつくってはめこみ、懸命に訓練して駆け足ができるまでになったのです。驚くべき役者魂です。そして、1955年には舞台に復帰したのです。 息子との別れ だれも笑わない公演  しかし1957年7月、エノケンに大きな不幸が襲います。息子の^一(えいいち)が26歳で結核のために亡くなったのです。危篤になったとき電話で妻から知らせを受けますが、テレビ中継が入る公演をしていたので「舞台に穴を開けるわけにはいかない」と帰りませんでした。公演後、急いで家に戻ると、^一はぐったりしていました。エノケンは励ましてやりたい一心で、「ばかやろう、だらしねえぞ。しっかりしろ」と叱咤してしまいました。  すると、^一はぽろっと涙を流したのです。これまで十分がんばってきたのは親のエノケンが一番よくわかっていました。にもかかわらず、そんな言葉を吐いた自分に、エノケンは生涯悔やみ続けたといいます。  翌月、稽古中に妻の電話でエノケンは息子の死を知ります。それでも宝塚の公演を休みませんでした。客を笑わそうと、いつにも増して滑稽な演技をしますが、だれも笑いません。なぜなら客は皆、エノケンが息子を失ったことを知っていたからです。  「僕の今日までの舞台の中で、この時の舞台ほど辛かったことはない。伜(せがれ)が死んで、悲しい最中、面白い芝居を見せて観客に笑ってもらわなければならない。それも僕の芝居で、『アッハッハ』と笑ってくれたら、僕も喜劇俳優として気も休まるのに、お客は僕に同情して、一生懸命芝居をやればやるほど場内がシーンとなるのだから、なんともいいようのない、辛い気持ちだった」(榎本健一著『榎本健一―喜劇こそわが命』日本図書センター)  そう回想しています。  息子を失って悲しいのは、エノケンの妻で^一の母である喜世子(きよこ)も同じでした。彼女は女優でしたが、同時にずっとエノケンを支えてきました。が、息子を失ったあと、喜世子はエノケンに離婚を申し入れたのです。芸に命をかけて家庭をかえりみず、浴びるほど酒を飲んで愛人を持ち、金銭感覚のない借金まみれのエノケンに愛想をつかしていたのです。けれどエノケンは、離婚に同意しませんでした。ただ、それ以後は、すっかり夫婦関係は冷め切りました。  1962年、脱疽が再発します。足指の切断から十年後のことです。激痛のため眠れませんでしたが、入院すれば足を切断しなくてはならないので、病院には行きませんでした。このため、東大病院にかつぎ込まれたときは、ひどく悪化していました。エノケンは膝から下にしてほしいと頼みますが、結局、右足は大腿部から切断せざるをえませんでした。舞台俳優にとって、死刑宣告に等しいものです。  退院して自宅に戻ったとき息子はおらず、広い屋敷には、よそよそしい妻とお手伝いさんだけ。この現実に耐え切れなくなって、エノケンは首に電気コードを巻きつけようとしますが、片足なのでバランスをくずして倒れ、音を聞きつけた妻に見つかって、自殺は未遂になりました。 右足を失ったあとも失われなかった舞台への情熱  しばらく放心の日々が続きますが、やがて「右足がなくても芝居はできる」と思い始めたのです。そして義足をつけて歩行訓練に励み、舞台でも座れるようバネで膝を曲げられる義足をつくりました。そして驚くべきことに、右足を失ってからわずか8カ月後(1963年5月)、エノケンは新宿コマ劇場の舞台に立ったのです。  ただ、義足で舞台に立つのは並大抵のことではありません。切断部がこすれて出血し、血で切断部の包帯にこびりつき、はがすとき激痛がはしりました。  1967年、妻の喜世子との協議離婚が成立します。エノケンはすでに還暦を過ぎ、62歳になっていました。ところがこの年、エノケンは戸塚(とつか)よしえと再婚しました。財産はすべて喜世子に渡し、風呂敷包み一つでよしえのところへ行ったそうです。  エノケンの最後の芝居は、1969年の帝国劇場の『最後の伝令』の演出でした。  車椅子のエノケンは、役者たちに厳しい演技指導を行いました。  「『最後の伝令』の幕切れ、戦場で瀕死の重傷を負ったトムが死んでいく場面の稽古で、車椅子から立ち上がった榎本健一は、自ら90度の角度で倒れて見せ、トム役の財津(ざいつ)一郎(いちろう)に手本をしめしました。固い稽古場の床に仰むけに倒れたエノケンは、義足のため立ちあがることができず、倒れたままのかたちで、目をうるませながら、『ここまで演らなきゃ駄目なんだ』と叫び、『喜劇を演ろうと思うな』」(矢野誠一著『エノケン・ロッパの時代』岩波新書)と怒鳴ったといいます。  翌年の元旦、体調不良と黄疸(おうだん)が激しいので家人が心配し「カメラを買いに行こう」とだまして日本大学駿河台病院に連れて行き、エノケンを強制入院させました。すでに末期の肝硬変でした。それから一週間後に容態が急変します。  「おーい。船が出るぞ。ドラだ。ドラが鳴っているよ」  というのが、エノケンの最後の言葉でした。享年65歳でした。  戦前は喜劇王とよばれたエノケン、戦後は不幸続きの人生でしたが、どんな苦難にあっても決してへこたれず、最後の最後まで俳優の道を捨てなかったその生き方は、敬服に値します。