技を支える vol.356 平らな漆喰(しっくい)の壁から擬木(ぎぼく)・擬岩(ぎがん)の造形まで 左官工 須森(すもり)孝幸(たかゆき)さん(69歳) 「住宅や商業施設から文化財まで、さまざまな現場で、モルタルから漆喰、石膏まで多様な材料を使いこなせるのが、左官の仕事の魅力です」 東京駅のドーム天井復元の技術職長を務める  写真は、2012(平成24)年に創建当時の姿に復元された東京駅丸の内駅舎のドーム天井。その漆喰による仕上げを担当したのが、左官工事全般を手がける吉村(よしむら)興業(こうぎょう)株式会社(東京都中野区)だ。  「下からだと小さく見えますが、実際はびっくりするほど大きいのです。工事は苦労しましたが、そのぶん達成感は大きかったです」  そう話すのは、技術職長として現場を取りまとめた須森孝幸さん。壁面には、落下防止のための安全対策として、モルタルをピンでコンクリートに定着させ、ネットで補強する「ピンネット工法」が用いられたが、その上に漆喰を塗るのは初めての経験で、現場での作業の段取りも大変だったという。 「全国左官技能競技大会」での優勝経験も  1957(昭和32)年創業の吉村興業は、一般的な左官工事から石膏(せっこう)装飾や擬木・擬岩などの造形まで幅広く手がけ、「全国左官技能競技大会」の優勝者を多数輩出している。代表取締役の吉村(よしむら)誠(まこと)さんは須森さんについて、「当社で一番のベテランであり、長年にわたり技術面のトップとして、若手職人の技術指導もになっています」と話す。  須森さんは山梨県出身。中学校を卒業後、親のすすめで吉村興業に入社した。  「先代の親方(吉村弘(ひろし)さん)が同じ山梨県出身で、同郷の先輩たちも働いていたので、楽しそうだなと思い、就職を決めました」  最初の仕事は、現場でモルタルなどの材料を練ること。初めのうちは重くて1人では持てなかったという。体力仕事に苦労しながらも、左官の奥深さに少しずつ魅力を感じるようになっていった。  「左官は壁塗りだけかなと思っていたんですが、親方は石をつくったり、木目(もくめ)を描くなど、いろいろな仕事をしていたので、『セメントと砂を練ったものがこんな形になるんだ』と、仕事が次第におもしろくなっていきました」  後に「現代の名工」や黄綬褒章(おうじゅほうしょう)を受賞する吉村弘さんに付いて、さまざまな現場を経験し、その仕事ぶりをまねしながら、技術を身につけていった。  須森さんが親方から仕事を任されるようになったのは30歳のころ。そのころ、親方にすすめられて全国左官技能競技大会に出場。2度目の挑戦で優勝を果たした。  「それからのほうが大変でしたね。周囲の見る目が違うので」  優勝は大きなプレッシャーをもたらしたが、その一方で技術向上への大きな励みとなった。  「左官で一番むずかしいのが、壁を平らに塗る技術です。手の感覚ですから、やはり数をこなさないと身につきません。昔は『10年はかかる』といわれたものです。自分もいまだに、まだまだだと思っています。一生勉強じゃないでしょうか」 現場に足を運び若手の技術指導に尽力  須森さんは現在も毎日のように現場に足を運び、若い職人たちに技術指導を行っている。  「なるべく自分では壁を塗らないようにしているのですが、後輩たちを見ていると、『そうじゃない』とつい手を出しちゃうんですよ(笑)」  須森さんが重視するのは基本技術の確実な習得だ。「上塗りばかりじゃなく、下塗り、中塗りがきちんとできないと、きれいな仕上がりにはなりません」と、見た目の派手さではなく、基礎の重要性を後輩たちに伝えている。  若手から求められれば、いついかなる場合も指導にあたる。しかし、技術の教え方には限界があることも認めている。  「『どうすればそんなにうまく塗れるんですか』と聞かれても、言葉で説明するのはむずかしい。上手な人をまねて、経験を積むしかありません」  これまでをふり返り、「この仕事が自分には向いていたんじゃないかと思います」と須森さん。伝統技術を次の世代に継承する使命感を胸に、今日も後輩たちと現場で汗を流す。 吉村興業株式会社 TEL:03(3990)3876 https://www.yoshimurasakan.com (撮影・羽渕みどり/取材・増田忠英) 写真のキャプション 造形用のモルタルを平らに塗り、その上に木目を描く「擬木」。コテを使って手際よく仕上げていく(63ページ左上の写真が完成した姿) 左官は材料を練るところから始まる。材料ごとに調合の基本は決まっているが、気候によって塗りやすさが変わるため、水の割合を変えることもある 顧客の依頼を受け、提供された資料をもとにカービング(彫刻)の技法で製作したサンプル。店舗の入口に飾られる予定のもの 資料を見ることもなく、あっという間に描かれた木の模様。材料を練り始めてから、この形ができあがるまで30分もかかっていない 吉村興業の倉庫には、若手職人が左官技能士の資格取得のために練習する場所が用意されている。練習の様子を見ながらアドバイスをする須森さん(左) 須森さんが手がけた蔵。漆喰で平らに塗られた壁の美しさに、技術の高さがうかがえる(写真提供:吉村興業株式会社) 須森さんがふだん使用している道具の数々。下の大小さまざまなコテは鍛冶職人の手によるもので、現在は入手困難だそうだ。上は造形用のコテ