偉人たちのセカンドキャリア 第12回 自分の余命を楽しんで生きた“東洋のルソー” 中江(なかえ)兆民(ちょうみん) 歴史作家 河合(かわい)敦(あつし) フランス留学から帰国し国政の舞台へ  中江兆民は、フランスの思想家ルソーの『社会契約論』を翻訳して『民約訳解』を出版し、自由民権思想を広めた人物です。すべての高校日本史の教科書に登場する重要人物で、当時から「東洋のルソー」と称えられていました。  土佐藩の足軽の家に生まれた兆民は、長崎でフランス語を学び、1868(明治元)年、欧米に岩倉使節団が派遣されることを知ると、政府の大久保(おおくぼ)利通(としみち)の馬丁と親しくなって邸内へ入り込み、いきなり大久保に留学を直訴しました。すると大久保は、この若者の無礼な頼みをかなえてやったのです。兆民25歳でした。兆民はパリで法律や哲学、歴史を学んで、1874年に帰国、当時としては極めて珍しい仏学塾を開きました。翌年、政府の元老院権少書記官に任ぜられましたが、1877年に退職して自由民権運動に邁進するようになります。1880年に『東洋自由新聞』を創刊、主筆として民権思想を世間に広め、やがて板垣(いたがき)退助(たいすけ)が創設した自由党に入って機関紙の自由新聞や東雲新聞の主筆として活躍しました。そして第1回の衆議院議員選挙が実施されると、大阪4区から出馬して当選したのです。  こうして代議士となった兆民でしたが、時の山県(やまがた)有朋(ありとも)内閣は自由党の代議士の一部を買収して政府の予算案を通過させます。これを知った兆民は「議会は血の通わぬ虫たちの陳列場だ」と激しく非難し、衆議院議長の中島(なかじま)信行(のぶゆき)(自由党副総理)に辞職願いを提出しました。そこには「小生事(私)、近日亜爾格児中毒病(アルコール依存症)相発シ、行歩艱難(歩行困難)、何分採決ノ数ニ列シ難ク、因テ辞職仕候」と国政を愚弄するような言葉が書き連ねてありました。 あちこちを走り回る波乱万丈の人生  さて、それからの兆民です。意外にも北海道の小樽に拠点を移して北門新報(新聞)を創刊しますが、翌年には東京に戻って再び総選挙に出馬したのです。ところが落選してしまいます。そこでまた小樽へ戻り、さらに札幌へ住居を移します。しかも新聞社を辞めて紙問屋をはじめ、山林伐採事業に手を出し、さらに諸鉄道の設立など投機的な商売をはじめました。けれど、どれも軌道に乗らずあちこち金策して回る状況に陥ってしまいました。啖呵を切って議員を辞職したまではよかったのですが、その後は転落していったのです。  ただ、そもそも若いころから兆民は常識人とはいいがたい性格で、死後すぐに『中江兆民奇行談』(岩崎(いわさき)徂堂(そどう)著)なる書籍が刊行されるほどでした。  見合いの席で酔っぱらって睾丸を引き延ばして酒を注いでみせたり、座敷の火鉢に向かって放尿したり、公道の天水桶に服を着たまま首まで浸かって警察官に咎められたりしています。このため一度目の結婚には失敗し、43歳のときに旅館「金虎館」の女主人である松沢ちのと再婚しました。  1898年、兆民は国民党を立ち上げますが、総選挙で一人の当選者も出すことができず、党は自然消滅しました。その後は、近衛(このえ)篤麿(あつまろ)の主宰する国民同盟会という国粋主義的な団体の遊説委員になるなど、それまでの主張とまったく異なる活動をはじめたのです。  1901年3月、兆民は練炭製造会社をつくろうと、大阪へ向かう準備をしていましたが、突然、喉が切れ大量の血を吐いてしまいます。前年から喉の調子はよくなかったのですが、病院では咽喉カタルだと診断されていました。出血はどうにか止まったので、兆民はそのまま大阪へ行きましたが、会った友人は憔悴した兆民を見て驚きました。大阪滞在中も喉の痛みは激しくなる一方で、呼吸も苦しくなってきました。そこでたまらず医師の診察を受けると、喉頭がんの可能性を指摘されたのです。 1年半の余命宣告 「楽む可き事」を重視して生きる  投薬治療を受けたものの、呼吸困難はひどくなるばかり。そこでついに兆民は、同年5月に気管の切開手術を受けました。これにより、声を失いました。兆民は担当医の堀内(ほりうち)謙吉(けんきち)に迫って自分の余命を聞き出します。当時、余命宣告はなかったので堀内はためらいますが、やがて兆民に「余命は1年半から2年である」と告げました。  すると兆民は、あと5〜6カ月の命だと思っていたので「1年とは余のためには寿命の豊年なり」と述べ、ただちに遺稿の執筆をはじめ、はやくも8月に脱稿しました。これが『一年有半』で、翌月、博文館から出版されるとベストセラーとなり、売上げは20万部に達しました。  著書のなかで兆民は、余命を尋ねた理由を次のように認めています。  「堀内(謙吉医師)を訪ひ、予め諱いむこと無く(余命を)明言(宣告)し呉れんことを請ひ、因て是より愈々(いよいよ)臨終に至る迄、猶幾日月有る可きを問ふ。即ち此間に為す可き事と又楽む可き事と有るが故に、一日たりとも多く利用せんと欲するが故に、斯く問ふて今後の心得を為さんと思へり」  このように兆民は寿命が尽きるのを冷静に受け入れ、「為す可き事」だけでなく、「楽む可き事」をその間に十分にしようと考えたのです。なんともポジティブな人です。  実際に兆民は『一年有半』の執筆に力を尽くすとともに、体調のよい日には芝居や寄席に出かけました。ただ、9月に東京へ戻った兆民は、喉の腫れと激痛のために寝るのもままならなくなり、枕の上に手を重ねて額を支え伏して休む状態になります。  そこで往診に来た東京帝国医科大学の岡田(おかだ)和一郎(わいちろう)医師に、兆民は再度死期を尋ねます。岡田医師が「来年の2〜3月ごろまでは大丈夫」と伝えると、兆民はこの苦しみがまだ半年も続くのかとがっかりした表情を見せたといいます。しかし医師が痛みは薬で抑えられるといったので、元気を取り戻した兆民は『続一年有半』を書きはじめました。このときのエネルギーはすさまじく、わずか10日間で原稿を書き上げました。10月15日、この本は再び博文館から出版され、好調な売れ行きを見せました。  が、それからまもなく兆民の衰弱は激しくなり、12月上旬になると意識は混濁していきました。そして12月13日、55歳の生涯を閉じたのです。死亡したとき、体重はわずか20キロしかなかったそうです。「1年半」と余命を宣告されてから8カ月後のことでした。  なお、兆民の遺体は生前の遺言によって、東京帝国大学医科大学病院で解剖に回されました。その結果、彼の病は喉頭がんではなく食道がんだったことが判明しました。  無神論者だった兆民の告別式は、青山会葬場において「無神無霊魂」(無宗教)で執行され、弔辞は盟友の板垣退助が読み上げ、遺骨は青山墓地に葬られました。