偉人たちのセカンドキャリア 歴史作家 河合(かわい)敦(あつし) 第13回 日本に戒律を伝えたその陰で… 鑑真(がんじん) 5回の失敗、12年の歳月をかけて日本へ渡海  朝廷で「唐から高僧を招こう」と決まったのは、733(天平5)年のことでした。仏教の戒律を受けなくては正式な僧と認められませんでしたが、我が国には戒を授けられる高僧が少なく、儀式も不十分なものでした。そこで唐に留学していた栄叡(ようえい)と普ふ照しょうが帰国に際し、楊州大明寺(ようしゅうだいめいじ)の鑑真を訪ねたのです。鑑真は4万人以上に戒を授けた戒律の師として有名だったからです。二人は鑑真に高弟を日本に招きたいと懇請しました。快諾した鑑真は渡海希望者を募りますが、だれも引き受け手がいません。すると鑑真は「仏教のためではないか。なぜ身命を惜しむのか。皆が行かぬのなら私が赴く」と述べたのです。  こうして鑑真の来日が決まりますが、5度も渡海を企てながら失敗をくり返し、ようやく6度目の挑戦で日本の地を踏むことができました。753(天平勝宝5)年12月のことでした。足かけ12年の月日が過ぎ、その間、鑑真は視力を失いました。  翌年2月、鑑真一行が奈良の都へ入ると、多くの貴族や僧が出迎えました。一行はそのまま東大寺へ入り、完成間近だった盧舎那(るしゃな)大仏を目にします。案内役の東大寺別当の良弁(ろうべん)が「唐にもこのような大きな仏像はございますか」と尋ねたところ、鑑真は「ありませんね」と答えたといいます。鑑真は朝廷が建てた東大寺境内の唐禅院(僧坊)に住むことになりました。同年3月、勅使・吉備真備(きびのまきび)が鑑真のもとを訪れ、聖武上皇の次の言葉を伝えました。  「遠く荒波を越えてやって来てくださったのは、私の意に沿い、たとえることができないくらい嬉しい。東大寺を造って十年余りが経つが、ずっと戒壇を設けて戒を伝授させたいと考えてきた。今後はあなたに授戒伝律のことをすべて一任したい」  以後、僧になるためには必ず鑑真から戒を受けることになりました。翌4月には聖武上皇が東大寺を訪れ、大仏殿の前に臨時に築いた戒壇で鑑真から菩薩戒を授けられ、同じく孝謙天皇や光明皇太后など400人以上が戒を受けました。 要職に就き活躍するもじつは反対派も多かった  同年7月、聖武上皇の実母・宮子太皇太后の病が重くなったとき、鑑真は薬を調合して与え、一時、病状を改善させました。じつは鑑真は最新の医学知識も有していたのです。鑑真がもたらしたのは薬の知識だけではなく、貴重な仏具、ガラス製の瓶、唐の最新建築や彫刻技術なども伝えました。さらに書聖と呼ばれ、4世紀に活躍した王(おう)羲之(ぎし)の貴重な直筆を持参し、日本の書道に発展をもたらしたのです。  10月、東大寺に戒壇院が完成します。ただ、「戒律を受けなくとも、これまでのやり方で十分」と主張する僧侶もおり、鑑真と反対派との公開討論が興福寺で行われました。論争は反対派の惨敗に終わりますが、その後も一部の反発は続きます。例えば756年4月、朝廷は重病の聖武上皇のために鑑真らに病の平癒を祈願させました。この折、参列した僧たちに鑑真が受戒をすすめると、興福寺の法寂(ほうじゃく)は暴言を吐きました。ところがそのとたん、法寂は昏倒してしまったのです。人びとは大いに驚いたといいます。  翌5月、聖武上皇は崩御しますが、その月に僧綱(仏教を管理するために設置された組織)での人事が刷新され、鑑真は大僧都(だいそうず)となりました。  758(天平宝字2)年、鑑真は大和上(だいわじょう)の尊号を朝廷から与えられますが、朝廷の官職からは離れることになりました。すでに71歳になっていたためです。翌年、鑑真は新田部(にいたべ)親王の旧宅を与えられました。そこで思し託たくや義静(ぎじょう)ら弟子を連れてこの地に移り住み、私寺を営むようになりました。寺の名は唐律招提、のちの唐招提寺です。  ただ、寺院の運営費が国費(備前の田圃百町の収益)から出ていることに対し、非難する僧たちがあったようです。ここからわかる通り、日本の僧たちの間では、鑑真ら唐僧をこころよく思わなかった勢力が根強く存在していたのです。  そこで唐僧の思託は、師の来日の意図が後世に正しく伝わるよう、鑑真の生前にその伝記を記しました。これが、『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』です。残念ながら鎌倉時代以降、文章が散逸してその内容はわからなくなってしまいました。  現在、一般に流布している鑑真の業績は、『唐大和上東征伝』に記された内容です。これは鑑真の弟子で、日本最古の図書館をつくった人物として教科書にも登場する淡海三船(おうみのみふね)が編纂した伝記です。779(宝亀10)年の成立ですが、もともとは思託の伝記を短くまとめたものだと伝えられています。 さまざまな逸話が残る鑑真の晩年  鑑真は、数年間を唐律招提で静かに過ごし、763年、76歳で没しました。亡くなる前、弟子の忍基(にんき)が唐招提寺の講堂の梁が砕け折れる夢を見ました。お堂の梁が折れる夢というのは、偉いお坊さんが没する前兆だとされています。  そこで忍基は、鑑真の死期が近いことを知り、大勢の弟子たちとともに鑑真の像をつくりました。じつはこれが、現在国宝になっている「鑑真和上坐像」です。まさに鑑真が生けるがごとき見事な像です。  鑑真は生前、「私は死ぬとき、坐したまま死にたいと考えている」と弟子たちに語っていましたが、まさにその通り、寺の宿房で西を向いて座ったまま亡くなりました。  亡くなる前、「死んだら私のために別に御影堂を建て、いま住んでいる僧房は、僧侶たちに与えて欲しい」と遺言したので、その通りにしたといいます。  ちなみに鑑真の死に関して、先に紹介した『唐大和上東征伝』に不可思議な伝承が記されています。鑑真の遺体は死後三日経っても、頭頂部が体温を保ったままだったというのです。このため、しばらくの間、その亡骸を葬ることができませんでした。しかも遺骸を火葬にした際、辺り一帯になんとも言えぬ良い芳香がただよったといわれています。  鑑真の訃報を知らせる朝廷の使いが唐の揚州に届くと、諸寺院の僧侶たちは喪服を身につけ、日本に向かって三日のあいだ哀悼の意を捧げ、さらに龍興寺に集まって大斎会(だいさいえ)を執り行いました。その後、龍興寺は火事のために焼けてしまいますが、鑑真が住んでいた宿坊だけが焼失を免れたので、人びとは鑑真の遺徳であると噂しあったといいます。  歴史の教科書には、「高僧・鑑真は苦難を乗り越え来日して戒律を伝えた」としか記されていませんが、じつは戒律以外にもさまざまな最新の知識や技術を伝え、戒律を日本仏教界に定着させるため反対派と戦い続けて亡くなったのです。