Leaders Talk No.119 50代で外部の交流に積極的に参加“学び”を通じて第2のキャリアが開花 大阪大学 ダイバーシティ&インクルージョンセンター 招へい教授日高乃里子さん ひだか・のりこ 製薬会社、調剤薬局勤務などを経て、帝人株式会社に入社。2012(平成24)年より人財部ダイバーシティ推進室長。定年後、半年間の再雇用勤務を経て、2020(令和2)年4月に大阪大学ダイバーシティ&インクルージョンセンター教授に就任、2024年4月より現職。  大阪大学ダイバーシティ&インクルージョンセンターで招へい教授を務める日高乃里子さんは、帝人株式会社のダイバーシティ推進室長などを務め、定年後再雇用を経て大学教授へ転身した異色のキャリアの持ち主。  今回は、そんな日高さんに、ご自身の経験をふまえ、キャリアの転機やキャリアチェンジのために行った“学び”などの準備についてお話をうかがいました。 キャリアを活かし大学のD&Iを推進 全国規模のプロジェクトにも参画 ―日高さんは、大阪大学ダイバーシティ&インクルージョン(以下、「D&I」)センターの教授を経て、現在も招へい教授として活躍されています。同センターではどんなお仕事をされてきたのですか。 日高 D&Iセンターは、大阪大学の教職員および学生のD&Iの推進を目的とした部署です。働き方改革や多様性の尊重と包摂に向けた取組み、そしてジェンダー平等に向けた均等支援などを行っています。具体的には、育児・介護支援、キャリアアップ支援、次世代育成支援など、さまざまな活動を展開しています。施設や職員数の規模も含め、D&I推進では国立大学のなかでは、早く取組みを始めました。東京大学をはじめ全国の大学や機関からヒアリングにいらっしゃいます。  私自身は5年前にD&Iセンターの教授に就任しました。就任時、文部科学省の補助金で大阪大学が全国の大学のダイバーシティネットワークを構築するプロジェクトを幹事校として展開しており、そちらを担当することになりました。全国180を超える大学のネットワークであり、Webページの管理やネットワークにご参加いただいている大学の理事クラスの会議の運営や、全国講演会の企画などを担当してきました。2024(令和6)年3月でプロジェクトは終了しましたが、文部科学省からは、最も高いS評価をいただきました。学内では、「ダイバーシティ&インクルージョンの世界」という新しい授業も開講し、毎年200人の学生が受講しています。65歳で定年となり、いまは招へい教授としてお手伝いをしています。 ―すばらしいお仕事と業績です。大阪大学の前は、帝人株式会社(以下、「帝人」)のダイバーシティ推進室で働かれていたそうですが、ご自身のキャリアについてお聞かせください。 日高 帝人には、33歳のときに中途採用で入社しました。大学の薬学部を卒業後、製薬会社に総合職で入社し、おもにRI(ラジオアイソトープ)検査薬のプロモーションの仕事を5年ほど担当していたころ、高校時代の同級生でもあった医師と結婚。専業主婦になったのですが、パートナーの帰りを待って毎日ご飯をつくるのが嫌になり、専業主婦は2週間で卒業しました(笑)。薬剤師の免許を活かし町の調剤薬局で働き、その後、パートナーの転勤で岡山県に引っ越し、製薬会社の営業所で管理薬剤師として働き始めました。仕事は薬の管理だけをしていればよいのですが、それではおもしろくありません。そこで、営業所の社員を相手に勝手に教材をつくって、薬や疾患について学ぶ研修会などを開催していました。  そこに1年半ほど勤務したころ、パートナーが大阪の大学病院に戻ることになり、大阪で新しい仕事を探すことになったのですが、それが新聞の求人広告で見つけた帝人の管理薬剤師の募集でした。このときは一般職での採用で、給与も一般職の賃金+諸手当のみです。何よりサポート的な仕事が多く、これもおもしろくない(笑)。もっと学術的な仕事がしたいと思い、総合職試験を受けました。晴れて総合職になったのですが、今度は妊娠していることがわかりました。出産後、半年ほど育児休職したのですが、のちに帝人での総合職の育休取得第1号だったことを知りました。  当時は学術部に所属し、営業部門の教育担当として、MR(医薬情報担当者)の資格試験の教材の開発や研修も行いました。本部は東京にあり、私は近畿圏全体を一人で担当し、研修教材作成などの会議のため月に2〜3回は東京に出張をしていました。 ―育児と仕事の両立を実践しながら、充実した日々を過ごされていたのですね。 日高 人に教えることはおもしろかったのですが、それだけではなく新薬の知識のインプットも必要です。ときには営業に帯同し、医師に対して新薬の紹介を行いました。そこでマーケットがどう考えているのかも理解することができました。介護や保険など疾患や治療以外の周辺の幅広い知識も必要になるので、自分でもかなり勉強しましたね。 50代で社内公募を利用しキャリアチェンジ 社外での学び・人脈が次のキャリアにつながる ―その後、ダイバーシティ推進室長になられるわけですが、新たなキャリアへの挑戦ですね。 日高 学術の仕事を20年近くやりました。課長職となり、最初女性は私一人でしたが、その後何人か配属され、後進の道もつくれたと思います。そのころには娘が大学進学で自宅を離れることになり、私も気兼ねなくどこにでも行けるということで、帝人の社内公募で「ダイバーシティ推進室長」に応募したのです。どんな仕事をするのか本当のところよく知らなかったのですが、それまでの実体験で「どうにかなる」と思ったのです。長く同じ部署にいたので「自分のポジションを空けなければ」という気持ちも応募のきっかけでした。  室長としては3代目です。当時の人財部は大阪にあり、1年ほどして部署ごと東京に移ることになりますが、異動後、外部の人との出会いが一挙に増えました。大阪では50社ぐらいの企業のダイバーシティ推進担当者が集まる「ダイバーシティ西日本勉強会」に参加し、仕事のアドバイスをもらったり、さまざまなことを学びました。勉強会は、もともと前任の室長が立ち上げたという経緯もあるため、帝人はダイバーシティのフロントランナーとして知られており、問合せへの対応も多く、そのたびに勉強しました。  単身赴任で東京に異動してからも、時間は自由に使えるので、ダイバーシティにかぎらず、人材開発やキャリア開発の勉強会にも積極的に参加しました。 ―まさに50代での“越境学習”ですね。当時は、どんなことを心がけて学んでいたのでしょうか。 日高 社外での交流が増えるにつれて、講演の機会がすごく増えました。「少し話をしてもらえないか」と誘いを受けたら、極力断らずに参加しました。それまで学術分野で教育業務を担当してきたので、説明会や講演会など人前で話すことに抵抗感はもともとありませんでしたし、議論することにも慣れていました。不安や怖さがないのは、これまでのキャリアの蓄積があったからだと思います。講演をきっかけに次の講演の機会も生まれますし、パネリストの重鎮の先生方など、知合いも増えます。社外の活動も厭いとわず、頼まれたことは断らないという姿勢は、50代になってもとても重要なことだと思います。 キャリアのふり返りは50代の前半で自分の方向性を決めたらそのための準備を ―そうした活動の成果の一つが、大阪大学の教授就任につながるのですね。あらためてふり返り、50代に積み重ねておくべき経験とは何でしょうか。 日高 定年の60歳になっても後任が決まらなかったこともあり、半年間だけダイバーシティ推進室に勤務し、その後は大阪に戻り、新たな自分の道を探そうと考えていました。社外の多くの友人にも半年後に大阪に帰ることを伝えていたところ、噂を聞いた知人から関西の私立大学での非常勤講師のお話をいただきました。大阪大学の仕事も知人の紹介で、大学の理事と面談し、道がひらけたという経緯があります。  あらためてふり返ると、自分の関心領域がどこにあるのかを理解し、そこに向けて勉強し知見を深めることが大事だと思います。そして人とかかわること。いろいろな人との出会いが何かを生む可能性を秘めています。人にかかわると「長くつき合わないといけない」と思いがちですが、50歳を過ぎたら好きな人だけとかかわればよいのです。薄くてもよいので、つながりを持っていれば次に進めるきっかけになると思います。 ―50代の人が新たなキャリアに目覚め、60代以降のキャリア形成に取り組んでいくために企業ができることは何でしょうか。 日高 50代の比較的早いうちにキャリア研修などで気づきの機会を与えることです。帝人では、50代前半に役職に関係なく2日間かけてキャリア研修を実施しており、私も研修を担当していました。1回30人程度のメンバーをグループに分け、お互いに幼いころにやりたかったことのふり返りから始まり、最終的に自分の10年後、20年後のキャリアマップを描き、そのマップをもとにキャリアカウンセリングを行います。研修プログラムをつくりながら、私自身もキャリアをふり返る機会になり、進むべき道が決まりました。  こうした研修は、55歳では少し遅すぎます。女性も男性も含めて50代の早い時期に研修を実施し、自分の進むべき方向性がある程度決まったら、仕事をしながら勉強し、スキルを磨いていくなど準備を始めるほうがよいでしょう。  役職を降りたら時間にも余裕ができます。昔と違い、いまは夜でも学校など勉強ができる場所はたくさんあります。60歳前に準備し、新しいスタートを切るのが理想的だと思います。 (インタビュー/溝上憲文 撮影/安田美紀)