加齢による身体機能の変化と安全・健康対策  高齢従業員が安心・安全に働ける職場環境を整備していくうえでは、加齢による身体機能の変化などによる労働災害の発生や健康上のリスクを無視することはできません。そこで本連載では、加齢により身体機能がどう変化し、どんなリスクが生じるのか、毎回テーマを定め、専門家に解説していただきます。第5回のテーマは「自動車の運転適性」です。 福岡国際医療福祉大学 医療学部言語聴覚学科 教授 堀川(ほりかわ)悦夫(えつお) 第5回 自動車の運転適性 1 はじめに  個人の移動に関しては、モビリティ(移動行動全般)に関する最近の動向から、Maas(マース)※1やライドシェアの普及促進が叫ばれ、物流においては、インターネット通販の普及による宅配需要の増加というポジティブな側面が見られています。一方、労働力人口の減少や「2024年問題」に示されるような運転者不足、特に、バス、タクシー、トラックなどの職業運転者不足が深刻化しているというネガティブな側面も指摘されています。再就職などで運転業務にたずさわる方の年齢が高くなってきている傾向も見られます。  自動車運転は、モビリティの維持においてもっとも利便性が高く普及した手段といえますが、日ごろ、何気なく行っている自動車運転を、必要な要素に分解していくと、日本では「認知」・「判断」・「操作」の過程と考えられています。また、欧米で多用されるのが、3段階モデルで、「運転方略(どこへどのような経路で行くのか、など)」、「運転操作過程(ある場面で実際にどのような運転行動を選択するか、など)」、そして「実際の操作の実行(ペダルを踏む、ハンドルを切る、など)」から構成されています。運転は、さまざまな機能を総合した高度な行動といえます。その過程のいずれかに機能低下が生じる場合には自動車の運転が危険な状態になります。 2 運転が禁止となる一定の病気  その機能低下をもたらす要因として、疲労、疾患、服薬、加齢などがあげられます。道路交通法によって、一定の病気に関する運転禁止項目が規定されており、それらは、認知症、統合失調症、てんかん、再発性の失神、無自覚性の低血糖症、そううつ病、重度の眠気の症状を呈する睡眠障害などとされています。そのほか運転に支障のあるものとして、認知機能の低下、身体の麻痺、意識消失をともなうような各種疾患などが指摘されており、これらの疾患はいずれもその疾患がもとで、安全な運転能力が維持できなくなる恐れのあるものです※2。  本稿においては、急性に発症する場合と慢性的に発症する場合などに分けて、最近の研究成果の一部をご紹介いたします。 3 急性発症  国土交通省の資料によれば、運転中に発症して交通事故に至った人数は2465人(2013〜2021年の9年間)で、心筋梗塞、心不全などの心臓疾患が369人(15%)、脳梗塞、脳出血、くも膜下出血など脳卒中が339人(14%)、大動脈瘤および大動脈乖離が77人(3%)と報告されています(図表)。このなかには死亡に至った例があり、426人(17%)となっています。各疾患群ごとに分類した死亡事故比率は、心臓疾患55%、脳疾患、および大動脈解離などが各12%となり、運転時の心臓疾患発症の死亡率が高いことがわかります。  脳卒中は、高齢者にかぎったものではなく、壮年期の働き盛りの方にも発症の可能性がありますので就労者にとっても雇用者側にとっても重要な問題となります。意識を失う、あるいは身体の麻痺が発症すると、例えば、前方の車両に対して、ブレーキを踏まなければという認知・判断自体ができない、判断ができたとしてもアクセルからブレーキペダルに足を移動して停止させることもできなくなります。また運転中に発症し、意識消失が生じた場合には、1回の衝突だけではなく、多重事故になり複数台の車両や歩行者、そして道路標識、看板などの損害が発生することがあります。  また特定の疾患によらず、治療のために服用している薬の影響による交通事故もあります。病院からの処方薬あるいは処方箋なしに薬局で購入できる薬、いずれもが運転に影響する副作用を生じる場合があり、多くの薬剤の添付文書においても、運転を控えるべき、あるいは運転禁止というような添付文書が示されていますので注意が必要です。  では、「そのような心臓疾患や脳卒中を防止したい」、そして「運転中の発症リスクを下げたい」ということになりますが、CT、MRIなど医療機器の発達によって、われわれの脳の形態を断層撮影して可視化することがかなり鮮明にできるようになってきたものの、脳の働きを可視化することや発症の予測や事故の予兆検出の方法は未だありません。これらの疾患の発症を防ぐための公衆衛生的な知識が重要になります。  その第一は、健康診断や人間ドックで定期検診を受けていただき、脳卒中のリスクが高い方を見いだして、少しでもそのリスクを下げることが必要になります。また、要精密検査となった場合、確実に精密検査を受けていただくことが必要となり、職場での受診喚起も重要です。  運転を職業としている方々においては、9時から17時までの勤務の方、深夜勤務の方、さらには長距離を重量物を積載して運転される方など、勤務形態が大きく異なります。途中で仮眠をとってまた運転を続けるというようなことが職務の状態から必要になりますが、適切な休憩時間をとったとしても、睡眠時間の減少、生活リズムの変化、食事による栄養バランスの乱れ、そして運動不足、腰痛、肩こりなどが生じます。さらに、喫煙、飲酒習慣の良否などはいずれも心臓疾患や脳卒中の発症リスクを高める行動となります。  職場のなかで交通事故を起こさないということはもとより、働いている仲間の健康維持にも深くかかわっています。 4 慢性発症、特に変性疾患  加齢にともない、人間の心身機能は変化してきますが、特に自動車運転にかかわる注意すべき変化としては「認知機能の低下」があります。認知機能は記憶、注意などの複合的な脳機能によるものですが、これが低下してくると、運転に影響をおよぼすことは容易に想像できます。そして認知機能低下と特に関連しているのが、認知症です。認知症にはアルツハイマー病、前頭側頭型認知症、びまん性レビー小体病などが該当し、さらに脳卒中による認知症が含まれて「4大認知症」といわれています。そしてこれらの疾患の診断に至ると、症状や機能低下が進行していくこと、治療法が開発されていないことなどから運転は禁忌となります。  脳卒中による認知症は、脳卒中発作によって発症の日時を確認できますが、ほかの認知症は、次第に機能低下が進行していくなかで、複数の認知機能低下と自立した生活が困難になることなどから診断されるため、発症の時点を詳細に確認することは困難です。例えば、アルツハイマー病は、脳内のタンパク質の一種が神経毒性を有する作用に変異することなどが原因と考えられ、その進行過程は、20年程度と考えられます。  認知機能低下は各種の検査によって数量化されますが、認知症の進行による機能低下と、加齢にともなう機能低下の両面が考えられ、その峻別は専門的な知識・経験を有する医療関係者によって進められますので、受診が必要です。  認知症の症状としては、時間や場所の認識(時間見当識、場所見当識)そしてワーキングメモリー、注意機能、空間知覚などの機能低下が見られますが、ほかに怒りっぽくなった、いままでできていたことができなくなった(例:ネクタイが結べない、食事の準備がうまくできなくなる、など)といったことがあげられます。  特に運転に関しては、初めての道でもないのに道に迷う、制限速度よりかなり速い、あるいは逆にかなり遅く走行してしまう、周囲の車の走行速度が速いと感じる、悪天候や夜の運転を必要以上に避けようとする、などが指摘されています。また、運転機能低下の初期の段階では、最近、車の周囲を軽く擦ることが増えた、駐車区画に入れることがうまくできなくなってきた、交差点で緊張することが多くなってきた、などの行動変化が見られます。  受診先としては、まずかかりつけ医に相談することをおすすめします。さらに必要であれば、脳神経内科、精神神経科、リハビリテーション科のような診療科に紹介をしてもらい、より精密な検査を受け、早期の診断・治療を開始するということが求められます。 5 日常的運転行動記録の重要性  ドライブレコーダーの普及にともない、一般車両での利用に加え、企業においても“運転診断”などの機能を標榜した装置やサービスの利用が増えています。単なる交通事故の記録から保険会社の査定や裁判に備えるような“交通事故記録器”のような利用法ではなく、日常的運転行動を記録して、運転者の再教育に応用することが有用です。  先行例では、当初、運転者から「見張られているようで嫌だ」というような反応が多く出ましたが、管理者や上司が叱責しながら危険運転を指摘するような運用ではなく、 安全運転管理者とドライバーが運転行動について客観的な資料をもとに話合いをし、より安全運転へ、そして業務の効率的な遂行へつながるような改善をしていくことが求められます。「そのためのヒントを探す」というような認識で対応したほうが効果が上がりますし、特に安全運転管理者がカウンセリングマインドを持ってドライバーと接することは非常に重要です。指摘された運転行動の修正による交通事故の減少、さらには保険料の減少、そして何よりも運転者の健康維持などに多大なる効果があると期待されます。 6 運転への復帰の可能性、運転リハビリテーション  脳卒中であれば発症し治療が行われ、そしてある程度の期間のリハビリテーションを経て、機能回復を示される方もいらっしゃいます。  雇用する側にとっては、その方の専門的技能を高く評価し、職務に復帰してほしいと考えるものの、運転可否判断、そして復職の判断が容易ではない場合もあります。  脳卒中後遺症のような方々はもう復職できないのか、運転業務に戻ることはできないのか、そのような判断は一義的にできるものではありませんが、脳卒中を発症してもその後、仕事に復帰、特に運転関係の仕事に復帰されたという方もいます。  日常生活のなかで「車の運転が必要という理由」が、「収入を得るため」であり、そのため「家族を養うために職場復帰」、そして「その中心的な業務が運転である」という方が運転リハビリテーションを行うことで、復職や運転復帰が可能になったケースでは、当事者本人の希望とともに、家族の理解、そして協力が必要です。  また、医療側が「運転可」という判断に至った場合には、さらに運転免許センターなどの公的機関と相談をしながら、運転可否について総合的に判断をしてもらうということも行われています。  私たちの研究チームでは、認知機能検査、運転シミュレータ検査、そして実車運転評価を組み合わせながら、医療サイドの意見を総合して診断書や意見書を交付し、運転免許センターなどでの安全運転相談を受けて判断をしてもらうといった取組みも行っています。  脳卒中発症によって事故を起こしてしまい、免許証が取り消しになった方が、免許の欠格期間を過ぎてから自動車学校に入り直して免許を取得し、日常生活において車を中心とした移動を行っているというケースもあります。  一方、脳出血からの治療、そしてリハビリテーションがかなり進んだ方で、本人が強く希望されて、運動系の機能の低下はほとんど見られなくなったものの、視野障害があり、やむなく運転をともなう仕事への復帰を断念したというケースもあります。 7 まとめ  これまで高齢者の運転と健康の問題、特に高齢あるいは障害のある方の職務への復帰という観点からまとめてきましたが、ケースバイケースの傾向が特に強い分野でもあります。  日本老年学会では、高齢者の基準を10年伸ばし、「75歳からを高齢者とすべき」という見解を示しています。高齢者は健康を守りながら再就職して自己実現を図れる、雇用者側は技能も社会的スキルも身につけた高齢者を雇用できるということで、双方にメリットがあります。  高齢者雇用の推進においては、高齢者の健康や安全確保の視点から、各専門家や機関との情報交換をおすすめいたします。 ※1 Maas……Mobility as a Serviceの略。複数の公共交通機関やそれ以外の移動サービスを最適に組み合わせ、検索・予約・決裁などを一括で行うサービス ※2 詳細は法務省ホームページを参照 https://www.moj.go.jp/content/000107459.pdf 図表 健康起因事故を起こした運転者の疾病別内訳 (平成25 年〜令和3年) 計2,465人 心臓疾患(心筋梗塞、心不全等) 369人、15% 脳疾患(くも膜下出血、脳内出血等) 339人、14% 大動脈瘤および解離 77人、3% 呼吸器系疾患 163人、7% 消化器系疾患 117人、5% 睡眠時無呼吸症候群 2人、0.08% その他 976人 40% 不明 424人 17% 出典:国土交通省・令和4年度 事業用自動車健康起因事故対策協議会「健康起因事故発生状況と健康起因事故防止のための取組について」