偉人たちのセカリアドンキャ 歴史作家 河合(かわい)敦(あつし) 第5回 精巧な日本地図をつくった偉人 伊能(いのう)忠敬(ただたか) 49歳で隠居した後に 夢であった学問の道へ  伊能忠敬は、日本中を歩いて正確な日本地図『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』をつくった人物です。しかもその偉業は、セカンドキャリアでなされたものでした。今回は、そんな忠敬について紹介したいと思います。  上総国(かずさのくに)小関村(こせきむら)で生まれた忠敬は、幼いときに母を亡くし、婿養子だった父は再婚してしまいます。そこで忠敬も18歳のとき、下総国(しもうさのくに)佐原村(さわらむら)の伊能家に婿入りしました。伊能家は酒造業や米の売買などを営む商家でした。学問好きな忠敬は学者として身を立てたいと考えていたのですが、大好きな学問を絶って家業に専念しました。これまでの商売に加え、炭問屋や運送業など手広く商いを広げ、巨額の財を成しました。  37歳のときに佐原村の名主に選ばれ、在任中は利根川の堤防工事に力を尽くしました。また、飢饉で苦しむ村人を私財で救ったので、人々から尊敬を集めました。  功成り名遂げた忠敬は、長男の景敬(かげたか)に家督をゆずって隠居しました。まだ49歳でしたが、当時としてはすでに老年です。隠居後は余生をゆったり過ごすのが一般的でしたが、翌年、忠敬は住居をにわかに江戸の深川(ふかがわ)へ移し、江戸幕府の天文方・高橋至時(よしとき)に弟子入りしたのです。若いころに断念した学問へ夢をかなえようとしたのです。どうしても学者になる思いを断ち切れなかったのだと思います。  天文方というのは、天文観測や改暦、測量や地誌の編纂などを行う幕府の役職です。ただ、師の至時は忠敬より19歳も年下でした。けれど忠敬は心から至時を尊敬し、だれよりも熱心に知識を吸収しようとしました。すでに老年でしたから、物覚えはよくありません。けれど、そのハンデを努力で補いました。そんな根気強さと熱意に打たれた至時は、持ちうるかぎりの知識や技術を老弟子に伝授していきました。結果、忠敬は5年ほどで至時の持つすべての学識を習得し、第一の高弟と目されるようになったのです。たとえ能力が高くなくても、コツコツ真面目にやることが大切だとわかります。  忠敬は天文学や測量学を好み、なんと、自宅に天文観測所をつくってしまいます。そしてなるべく外出をひかえ、用事も午前中ですまし、午後に準備を調え、夕方から嬉々として天文観測に励みました。  物事に入れこむ質だったようで、天文観測に凝っているときは人とあまり話をせず、師の至時と学問上の討議をしているときも夕方近くになるとそわそわし、途中で席を立って帰宅することもありました。脇差しをはじめ身の回りの持ち物を忘れていくこともしばしばでした。 私財を投げ打ち蝦夷地の測量へ その精巧さに幕府も驚嘆  やがて忠敬は、地球の大きさを知りたいと考えるようになります。同じ経度にある2点の距離と緯度の差から地球の大きさは計測できます。そこで自宅(深川)から天文方の屋敷(暦局)がある浅草の蔵前(くらまえ)までたびたび歩測測量を行いました。ただ、2点の距離は離れていればいるほど、正確な数値が算出できます。そこで忠敬は、至時を通じて蝦夷地を測量して正確な実測図をつくりたいと幕府に申し入れました。  1800(寛政(かんせい)12)年閏うるう4月にようやく許可が出ますが、測量費用は忠敬の私財があてられ、幕府はわずかな補助しか提供しないことになりました。しかし喜んだ忠敬は少人数で同月19日に深川を出発、海岸沿いを歩測しながら北へと向かっていきました。険しい岸壁もよじ登って測量したので、襟裳岬(えりもみさき)近くの岩場で草鞋(わらじ)が切れ、素足のまま立ち往生することもありました。  ただ、完成した地図を見た幕府の閣僚はその精巧さに目を見張り、翌1801(享和(きょうわ)元)年、今度は三浦・伊豆半島から房総・常磐・三陸・下北半島までの測量を命じたのです。さらに翌年の第三次測量では、費用のすべてを幕府が負担し、測量隊の人数も大幅に増員されました。  1804(文化元)年、師の至時が41歳の若さで病没してしまいます。洋書の翻訳と研究に没頭し、無理が祟って病に倒れたといわれています。記録には残っていませんが、きっと忠敬は大いに嘆き悲しんだことでしょう。  同年8月、忠敬は東日本の地図を仕上げて幕府に献上しましたが、この地図は将軍家斉(いえなり)も上覧し、忠敬は十人扶持を与えられ幕臣(小普請組)に登用されました。ただ、それからも忠敬は測量の旅を続けました。心底、地図づくりが好きだったのです。測量のためなら命も惜しくないと思っていたようで、1811年の九州とその島々を実測する長旅では、出立の際、資産分配を記した書簡を家族に与えています。このとき忠敬は66歳でした。  この旅では、右腕として頼りにしてきた弟子の坂部(さかべ)貞兵衛(ていべい)が感染症にかかり、手当ての甲斐もなく43歳で亡くなりました。ショックだったのでしょう、以後、忠敬は測量隊員たちを叱らなくなったといいます。このとき忠敬は「鳥が翼をもがれたようなものだ」と辛い心情を家族に手紙で伝えていますが、じつはこのとき、長男の景敬も病死していたのです。家族は測量に障ることを恐れ、その事実を忠敬に知らせなかったのです。 情熱を持って偉業を成し遂げた忠敬のセカンドキャリア  1816年8月、忠敬は幕府から江戸府内の地図作成を命じられ、自ら陣頭指揮をとり10月末に完了しました。これが、忠敬の最後の測量となりました。忠敬が測量に費やした時間は9年半、測量した距離はおよそ4万km。地球を一周する長さでした。  いつも測量が順調に進んだわけではありません。弟子や近親の不幸、測量隊の不和があり、さらに持病のマラリアや喘息、痔に苦しみながらの測量旅でした。  最後の測量を終えた忠敬は、持病の喘息の発作をたびたびくり返すようになり、翌年春には床につくことが多くなり、1818年、73歳で永眠しました。  臨終の際、忠敬は「このような事業を成し遂げることができたのは、高橋至時先生のお陰だ。先生の傍らに葬ってほしい」と遺言。こうして忠敬は至時が眠る浅草の源空寺の墓の隣に埋葬されました。未完成だった忠敬の地図は、至時の子・景保(かげやす)の手によって仕上げられ、1821(文政4)年に『大日本沿海輿地全図』として幕府の老中らに提出されました。  あらためて伊能忠敬のセカンドキャリアをみて思うに、「情熱さえあれば、人はいくつになっても偉業を成し遂げることは不可能ではない」ということがわかります。