第103回 高齢者に聞く生涯現役で働くとは  田中映子さん(80歳)は教育畑一筋に人生を歩んできた。定年退職後、地域でさまざまな活動を展開しながら、現在は駄菓子屋の店先で子どもたちを笑顔で迎えている。店に集う子どもたちはもちろん、若いお母さんたちのよき相談相手にもなっている田中さんが、生涯現役で働くことの喜びを語る。 狛江市 シルバー人材センター 駄菓子屋「狛もん」販売員 田中(たなか)映子(えいこ)さん 多くの人に支えられ教職に邁進した日々  私は山梨県北杜(ほくと)市で生まれました。桜の名所が点在する風光明媚な土地柄です。明治生まれの両親の末っ子ですが、父は農家の長男で公務員、母は高家の娘で心豊かな母でした。  小・中学校までは地元の学校に通いました。小学校のときの女性の先生が音楽やダンスに優れ、隣村小学校との交流、ラジオ出演や県大会出場など広い世界へいざなってくれました。この楽しい経験が後の進路や趣味につながったと思います。高校を卒業後は上京し、東京学芸大学へ進みました。教員になりたい思いが強かったからです。学生運動が盛んな時代でしたが、染まることもなく、充実した学生生活を送ることができました。  大学を出て最初に赴任したのが東京都北区の小学校でした。憧れの教師になれたのですから、教壇に立ったときの喜びはいまも覚えています。その後、結婚にともなって生活拠点が世田谷区に移りました。2人の子どもを育てながら、定年まで教員生活を続けることができたのは、夫はもちろん、親戚や同僚の協力のおかげだと思っています。じつは子どもが小さいころ、預ける先を探すのがひと苦労で、自主学童保育を運営したこともあります。それが後に行政を動かして正規の学童保育施設の誕生につながっていきます。定年退職後は、私にとって恩返しの旅が始まりました。  教師が天職という田中さんもたった一度だけ退職しようかと悩んだことがある。教頭に就任したころ、夫が病に倒れた。介護に専念しようとしたら「続けなさい」と、企業戦士の夫が強く背中を押してくれた。 恩返しのために一歩ふみ出して  2歳年上の夫は54歳という若さで亡くなりましたが、仕事をする私を最後まで応援してくれたことから、定年まで教職を通じて一人でも多くの子どもたちの未来を支えていきたいという気持ちが強くなりました。学級担任をしていたころ、子どもたちによくいい聞かせてきたことが二つあります。それは「弱い者いじめをしないこと」と「失敗をしてもくよくよせず次の行動に活かすこと」です。80歳になったいま、考えてみればこれは私たち高齢者にもいえることかもしれません。  その後、校長となり、60歳で教職生活に別れを告げました。それからの10年間は世田谷区のさまざまな事業にかかわり、世田谷文学館や総合庁舎、区民講座などで働きました。70歳まで区の仕事をしてから、いよいよ念願だった地域へ足をふみ出すことになりました。  世田谷区には「学童クラブBOP」があります。BOPとはBase Of Playing(遊びの基地)のことで、つまり放課後の遊びの基地を提供しようというものです。区内小学校64校すべてにBOPがありますが、際立っているのは親が働いていない子どもにも一緒に遊べる場を開いていることです。子どもを区別しないという点では共鳴するものがあり、BOPの事務局長を5年間務めました。  もう一つ、退職の年に立ち上げた「K小寺子屋」です。毎週土曜日に教員OB、保護者、地域の協力者とともに子どもたちの学力向上を願い16年間続け、後輩に引き継ぎました。現在も続いているのは画期的です。  恩を受けた人に恩を返すということはなかなかできないものです。できることがあるとしたら受けた恩を次の世代につないでいくことだと思い、私は積極的に地域に入っていきました。  田中さんは70歳で狛江(こまえ)市シルバー人材センターの存在を知る。一緒に人権擁護委員をやっていた元校長仲間が教えてくれた。「楽しいわよ」の一言にひかれてセンターを訪ねた。「仕事を探すというより人気が高いダンスサークルにはまりました」と田中さんは屈託がない。 ユニークな活動に魅せられて  「ダンスサークルチャーミーズ」にひかれて狛江市シルバー人材センターに登録しました。事務局長を筆頭にみんなで楽しもうという雰囲気があり、自分に合った居場所を見つけたような気がしました。とにかくスタッフの方々の発想がユニークで、かつ地域への愛着がみなさんとても強いのです。教員時代は朝早く出かけ、夜遅く家に帰る生活でしたから地域に仲間がいませんでした。それが、ダンスサークルを通じて地域のみなさんと知り合ってから、地域に仲間がいることが生きがいにつながることを高齢になってから痛感しました。  狛江市シルバー人材センターでは次々に新しい試みが生まれていますが、全国初といわれるのが、私のいまの職場である駄菓子屋「狛(こま)もん」の創業です。高齢化社会が急速に進むなか、会員に就業場所を提供するため、高齢者に負担の少ない「駄菓子屋」が2024(令和6)年9月につくられました。うれしいことに「駄菓子屋で働きませんか」と私に声をかけていただき、79歳での挑戦となります。  かつての駄菓子屋はそこに集う子どもたちの賑やかな声があふれていた。子どもが握りしめて汗ばんだ硬貨を、手で数えるおばあちゃんの姿がそこにはあった。 生涯現役で子どもの明日を見続けたい  駄菓子屋という発想にまず驚かされました。駄菓子の販売という仕事は体に負担がかからないし、子どもたちやお母さんたちと楽しくおしゃべりできる地域のコミュニティの場にもなっています。もちろんまだ始まったばかりで、これからいろいろ課題も出てくるでしょうが、何よりも子どもたちが目を輝かせて買い物をする姿を見ているとうれしくなります。  マスコミに取り上げられたことで、「私でも働けますか」とたずねてこられた私と同年代の方がおり、いまは楽しく一緒に働いています。  勤務時間は月4回、1回2時間30分のシフトが組まれます。ほかの日には人材センターのいずみ支所で月7日か8日、1日3時間のシフト制で受付等事務の仕事をしています。  駄菓子屋の販売員としては子どもたちにもお母さんたちの世代にも、とにかく笑顔で明るく接することを心がけています。駄菓子の世界も新商品が出てきますから商品の知識も磨かなくてはなりません。また、お金をいただくのですからミスのないようにしなければなりません。職場で日々鍛えられていると思っています。  オフの時間もいろいろ趣味があるので忙しく過ごしています。現役で働き続けるためには健康管理が大切であり、3食をきちんと摂り、質のよい睡眠をとることを心がけています。健康に一番よいのは人と楽しく語り合うことかもしれません。  明日は、どんな顔をして子どもたちがお店にやってくるでしょうか。豊かな未来を手渡すために、もう少しがんばってみようと思います。