偉人たちのセカンドキャリア 歴史作家 河合(かわい)敦(あつし) 第6回 町奉行から大名相当にキャリアチェンジ 大岡(おおおか)越前守(えちぜんのかみ)忠相(ただすけ) 異例の人事で苦労をするも百戦錬磨の経験を活かし信頼を獲得  大岡越前守忠相は、名奉行として知られていますが、彼の見事なお裁きを集めた『大岡政談』はフィクションです。ただし、非常に有能な幕府の官僚であったことは間違いありません。  日本史の教科書でも、八代将軍徳川吉宗(よしむね)の享保(きょうほう)の改革を支えた江戸町奉行として登場します。例えば、江戸の防火対策として、屋根の瓦葺きと土蔵造を奨励したり、延焼防止や避難場所確保のため多くの火除地を新設したり、町火消を組織して消火活動に町人を参入させたりしています。また、将軍吉宗が小石川薬園内に貧民のための無料診療所(養生所)をつくることを決めた際に、実際に開設に尽力したのは忠相でした。  さらに地方御用掛(ごようがかり)も兼務し、地方功者と呼ばれる田中(たなか)丘隅(きゅうぐ)ら農政官僚を使って武蔵野新田を造成したり、堤防強化と浄水のため小金井を中心に玉川上水両岸に桜樹を植えたり、酒匂(さかわ)川に強固な堤防を構築させたりもしています。救荒用作物としてサツマイモの栽培を普及すべきだと献策した青木(あおき)昆陽(こんよう)を登用したのも忠相でした。  このように江戸町奉行として20年にわたって八面六臂の活躍をした忠相でしたが、還暦を迎えた1736(元文(げんぶん)元)年8月、大名しか就けない寺社奉行に栄転しました。  寺社奉行とは、譜代大名が就く役職です。異動の際、2000石を加増されたとはいえ、約6000石の旗本に過ぎない忠相がなれる役職ではありません。実際、異例の人事で、旗本の寺社奉行は前代未聞のことでした。  このため、忠相は同僚たちのいじめを受けてしまいます。例えば、江戸城に登城した際、忠相が寺社奉行の控え室に入ろうとすると、相役の井上(いのうえ)正之(まさゆき)から「ここは奏者番の詰め所であって、あなたが入れる部屋ではない」と入室を拒まれました。じつは寺社奉行は、奏者番を兼務するのが慣例だったのですが、忠相は旗本だったこともあり奏者番には任命されていなかったのです。これを逆手にとって、井上ら寺社奉行の面々は嫌がらせをしたのでした。  また、寺社奉行は、将来、若年寄や老中になる前途有望な青年大名の出世コースでもありました。そのため、還暦の忠相とほかの奉行たちとは、親子以上の歳の開きがありました。つまり、石高だけでなく、年齢のうえでも異例な存在ゆえ、周りから煙たがられてしまったのでしょう。  忠相にとって、新しい職場は針のむしろだったはずです。なお、冷遇されていることを聞き知った将軍吉宗は、哀れに思って忠相のために特別な詰め所をつくってあげたそうです。  ただ、さすが百戦錬磨の忠相、しばらくすると相役たちから敬愛されるようになりました。同僚が自分を見下しても怒らず、むしろ積極的に彼らの仕事を補佐したり、助言をしたりしたからです。いずれも若い譜代大名たち、経験値では到底、忠相にはかないません。そこで彼らは忠相を頼りにするようになり、ついには師とあおぐようになったと伝えられています。  忠相は、老骨にむち打って70歳を過ぎても寺社奉行の仕事に専念し、火事で焼失した上野寛永寺のお堂の再建、徳川家康の130回忌法会、将軍の寺社参詣の下見などを精力的にこなしていきました。 徳川吉宗に仕えた生涯 いまなお愛される大岡越前  長年仕えてきた将軍吉宗が引退を表明したのは、1745(延享(えんきょう)2)年9月1日のことです。このとき吉宗は62歳でした。このおり忠相は吉宗に直々に呼び出され、相談にあずかったといわれています。忠相も69歳の老齢でしたが、吉宗の信頼が厚かったことがわかります。  新たに将軍になった家いえ重しげ(吉宗の長男)は、すでに35歳になっていましたが病弱で、引っ込み思案でした。そのため幕閣では、吉宗の三男で聡明な田安(たやす)宗武(むねたけ)を推す声も強かったのですが、吉宗は長子相続制度を遵守したのです。  こうして家重とその側近が江戸城本丸に入り、吉宗は西丸へ移って大御所と呼ばれました。「大御所」は、将軍を引退した人の呼称ですが、大御所になったのは家康、秀忠に次いで吉宗が三人目となります。通常、大御所は将軍の背後にあって絶大な政治力を持つのが常でした。当然、吉宗もそうしようと考えていたと思われます。ところが引退した翌年11 月、中風※の発作に倒れてしまいました。幸い命に別状はなく、翌年3月1日に床上げの祝いが行われました。ただ、家重の後見をするのはむずかしかったようです。  一方忠相は、1748(寛延(かんえん)元)年にようやく奏者番に就任し、寺社奉行と兼務するようになりました。このおり4080石を加増され、石高は1万石に達しました。そう、ついに大名に栄達したのです。  きっと吉宗の配慮があったのでしょう。しかし、その吉宗は1751年5月に再び中風の発作を起こし、6月20日に息を引き取ってしまいました。68歳でした。  吉宗の葬儀は、老中の松平(まつだいら)武元(たけちか)や若年寄の板倉(いたくら)勝清(かつきよ)が総責任者となり、同年閏6月10日、寛永寺において執行され、忠相は葬儀の準備委員となって支度に奔走しました。ただ、かなり体調が悪く、それをおしての仕事だったそうです。  同年11月、忠相は寺社奉行と奏者番の辞任を申し入れました。寺社奉行の辞職は認められたものの、奏者番については却下されました。しかし、それから一月後の12月2日、まるで吉宗の後を追うかのように75歳の生涯を閉じたのです。遺体は、相模国堤村(つつみむら)(神奈川県茅ヶ崎市)浄見寺(じょうけんじ)に葬られました。いずれにせよ、忠相は生涯現役を貫いたのです。  ところで、現在の赤坂見附(あかさかみつけ)駅近くに忠相の下屋敷があったのですが、忠相は屋敷地に豊川稲荷社を分霊して深く信仰していました。明治時代になって稲荷社は屋敷地から青山通りの対岸に遷されました。これが現在の豊川稲荷東京別院です。だから境内には、いまも大岡越前御廟があります。このほかさまざまな神の祠があり、商売繁盛や家内安全、金運や福徳開運など多くの御利益があるとされています。テレビ局に近いこともあって、芸能人の信仰も厚いようです。  また、江戸後期から明治時代に成立した大岡政談によって大岡越前守は名奉行となり、小説や映画となりました。そうしたこともあり、1912(大正元)年には政府から従四位が贈られ、翌年にはその墓前(浄見寺)で贈位祭(奉告祭)が大々的に行われました。なんと1万人が参列したといわれており、その人気のほどがわかります。以後、毎年大岡越前祭が開かれるようになり、関東大震災や戦争のために中断したものの、1956(昭和31)年に復活し、それ以後は茅ヶ崎市、茅ヶ崎商工会議所、大岡奉賛会、茅ヶ崎市観光協会などが後援する茅ヶ崎市の大きなイベントとして続き、2025(令和7)年4月には70回を数えるほどになっています。 ※ 中風……脳血管障害のこと