第104回 高齢者に聞く 生涯現役で働くとは 石井サイクル 店主 石井(いしい)誠一(せいいち)さん  石井誠一さん(102歳)は、13歳で自転車修理の修業を始めた。下町の風情が漂う住宅街の一角で、いまもなお現役で自転車修理の店舗を営む。「この仕事が大好きで、楽しくてたまらない」という石井さんが、90年の長い歳月を自転車修理ひとすじに歩いてきた、生涯現役で働く醍醐味を語る。 13歳で出会った天職  私は1922(大正11)年に東京の神田(かんだ)で生まれましたが、その後は東京市内を転々としました。東京市が東京都になったのは1943(昭和18)年のことでした。3人兄弟の長男の私は13歳で奉公に出されます。尋常小学校を卒業して高等小学校に進んだものの1年で中退しました。  そのころ住んでいた巣鴨(すがも)にあった大衆演劇の演芸場に通っては、夜遅く帰宅して叱られたことなど懐かしい思い出です。勉強嫌いでやんちゃな長男を早く奉公に出そうということになったのだと思います。  奉公先は京橋(きょうばし)の自転車屋で、父が探してくれました。小学校のころ、近所の自転車屋で修理の仕事をみるのが好きで、おもしろそうだと思っていたので奉公の不安はなかったです。当時の自転車屋は注文で自転車をつくっていました。それを店内の壁際に飾るのですが、いまのように軽い自転車ではなく、高い所へ持ち上げる作業は、13歳の小僧には重労働でした。ただ、修理の仕事は楽しかったです。休みは月2回、銀座が近かったので休日が待ち遠しかったです。  私は「藪(やぶ)入り」を経験しています。「藪入り」とは住み込みの奉公人が年2回(お正月とお盆)実家に帰れるという年中行事です。初めての「藪入り」では兄弟子の着物を借りて、鳥打帽(とりうちぼう)をかぶって意気揚々と実家に帰りました。  大みそかにはおかみさんが新しいジャンパーを買ってくれてうれしかったけれど、本当は自動車の整備工が着ているようなつなぎの服がほしかったと石井さん。話し上手で、その名調子につい聞き惚れてしまう。 戦禍の時代を生き抜いて  親方に鍛えられて自転車修理の腕は上達しましたが、奉公して4年ほど経ったとき、軍需工場に駆り出され、しばらく自転車の仕事から遠ざかることになりました。軍需工場のほうが奉公のときよりも賃金が高くて、その分を家に入れたら母が喜んでくれました。父は私が16歳のとき、47歳の若さで亡くなりました。  1941年12月8日、ついに太平洋戦争が勃発、1943年4月に私も召集されました。入隊して4カ月間訓練を受けたあと、所属部隊は南方戦線と中国戦線にふり分けられ、私は中国戦線要員に選ばれました。南方戦線は激戦地でしたから、こちらにふり分けられたら生きて帰れなかったかもしれません。人の運命というものは不思議なものです。  中国へは韓国の釜山(ぷさん)から汽車で入りました。バンプウという街でした。その後は山腹にひそみ、敵軍の補給路を断つ任務につきました。  だんだんと戦況が悪化するなか、手投げ弾で自爆した戦友もいましたが、1945年8月15日に終戦を迎え捕虜となりました。捕虜といっても私のいた部隊は、破壊された橋や建物などを修繕する仕事でした。  終戦の翌年6月、引き上げ港として指定されていた山口県の仙崎(せんざき)港へ上陸しました。そのとき私は、24歳になっていました。  戦争の話をしながら、中国で苦労をともにした戦友の名前をすべてフルネームで語る石井さんの記憶力に圧倒された。「戦争は二度とごめんですか」と問うと、石井さんは黙ったまま大きくうなずいた。 再び自転車修理の世界へ  山口県からなんとか東京へ戻ったものの、当時母が暮らしていた小石川(こいしかわ)の家は跡形もなく、母が身を寄せていた叔父の家を訪ねました。ただ叔父が母に与えていた部屋があまりにもみすぼらしかったので、母を連れ出し、今度は世田谷(せたがや)の父の兄を頼りました。この伯父は経理畑を歩いてきた温厚な人で、出征前の私もたいへんお世話になった人です。しばらく伯父が経理を担当している会社の仕事を手伝いました。あるときたまたま新聞で新橋の自転車屋が人を募集している記事を読み、さっそく出かけていきました。試験代わりということか、2台の自転車のハンドルやサドルの交換、リヤカーの太いタイヤの取りつけなどをいい渡され、7年ほどのブランクにひやひやしながらなんとか合格点をもらいました。  その後、26歳で結婚。生活のために好条件の店に移ったり、自分で部品の売買をやってみたり、自転車を掃除する巡回訪問を手がけるなど、紆余曲折がありましたが、1956年に現在地に「石井サイクル」を開業、間もなく創業69年を迎えます。これまで私の親戚はもちろん妻の親戚にも世話になりました。そしてこの鐘ヶ淵(かねがふち)に来てからは地域の人にずいぶん助けてもらいました。  このあたりもずいぶん変わり、以前の活気もなくなりました。それでも親子3代で利用してくださっている人もいますし、一人暮らしを気遣ってくださる人もいて、いろんな街を転々として最後にここへたどり着けたことは幸せです。  親戚の紹介で知り合った妻の千恵子さんが亡くなって34年になる。元気なときは一緒に日本各地を旅行し、海外にも足を伸ばした。「楽しい思い出も多いです」と石井さんが相好を崩した。 生涯現役で好きな仕事を続ける喜び  102歳の自転車屋が珍しいのか、よく聞かれるのが、「長い間仕事を続けていられる原動力は何ですか」ということです。そのたびに私は、「この仕事が好きだから」と答えます。自転車をいじっていられることが楽しくてたまらないのです。パンク修理やフレームのゆがみの修正など、仕事はいくらでもあります。自転車に関して、直せないものはないというのが90年この道を歩いてきた私の誇りです。ほかの自転車屋が直せなかった修理を頼まれることがあり、そういうときは年がいもなく意欲がわいてきます。  いまはパンク修理のお客さんが多いですが、ブレーキの不具合は必ず点検しています。お客さんの命を預かる仕事だから手抜きはできません。  妻を早くに亡くして、一人暮らしにも年季が入っており、洗濯は毎日欠かしません。食事は大体1日2食、朝はトースト、夕食は宅配弁当が中心ですが、炊き込みご飯やおかずを届けてくれるご近所さんがいてありがたいことです。店の2階で寝起きし、朝7時には店に降り、夕方6時ごろまで開けています。休みは日曜日だけ、正月三が日以外は自転車に触れています。一男一女に恵まれ、孫やひ孫が8人おり、みんなに会うのは楽しみですが、何よりの楽しみは週に一度のカラオケです。自転車でなじみの店に出かけ仲間に囲まれながら大好きな北島三郎を歌うときが至福の時間です。もう少し長らえて、早逝した父や妻の分まで人生を楽しみ、市井(しせい)の自転車屋として生涯現役を貫こうと思います。